俺があいつを初めて見たのは、テニスコートだった。竜崎先生と手塚部長からマネージャーとして紹介されたあいつは、あいつなりに精一杯声を張上げて「よろしくお願いします!」と頭を下げた。同級生とはいえクラスが違えば話したことなどなかったし、なにより同じクラスらしい桃城がちょくちょく話しかけていたから、俺は敢えてあいつを避けた。

しかし程なくしてあいつは、マネージャーとしてではなく俺の隣の席のクラスメイト・高橋亜美の友達として、俺の前に現れた。



「海堂くん」



自己紹介なんてしていない。なのにあいつはさも当たり前のように俺の名前を呼んで、そして笑った。あいつは高橋に会いにクラスに来る度、必ず俺にも一言声をかけていく。まともな返事なんて返さない、むしろ睨むような目線を遣っているのに、あいつはとにかくいつも同じ顔で俺に笑った。

それが、俺は苦手だった。










「イテェ...」



ある日、昼休みに中庭に迷い込んでいた猫を構っていた。つい構いすぎたのか頬を引っかかれ、傷の具合を確認しながら後者に戻る途中、あいつに出くわした。



「あれ、海堂くん?」

「...っ、」

「こんなとこでどうしたの...って、ほっぺ!大丈夫!?」



俺の頬の傷に気づいたらしいあいつは心配そうに駆け寄ってきて、少し背伸びをしながら俺の頬を見上げた。そして何のためらいもなく制服のポケットから白いハンカチを出して、傷口に当てた。



「っ、触んな!」

「ご、ごめんね」



反射的に振り払うと、あいつはすぐに手を引っ込めて俯いた。しかし少しだけ困った様に目を泳がせた後、すぐ近くにあった水道に走ったと思ったら戻ってきて俺に言った。



「あの、ハンカチ少し濡らしてきたから、これで傷口を綺麗にしてね。あとは保健室に行けば先生が絆創膏くれると思う、から」



言って水に濡れたハンカチを俺に渡すと、あいつはいつもみたいに笑って、そして小さく「さっきは嫌な思いさせてごめんね」と言って去って行った。

あいつの手を振り払ったのは、別に嫌だったからじゃない。あいつに気遣われるのは、なんだかむずむずして落ち着かなかったし、それに白いハンカチなんて使ったら、血で汚れてしまう。渡された冷たいそれにはやっぱり少し赤井シミがついていて、せっかくの白が汚れてしまっていた。










「...おい」

「あ、海堂くん...」



翌日の部活が始まる少し前、ボールの準備をするあいつに声をかけた。俺から声をかけるのはそれが初めてで、少し声が震えたような気がした。



「どうしたの?」



呼んだきり言葉を発しない俺を不思議に思ったのか、あいつはボールの篭を一旦下において、俺の前に立った。あいつは俺よりはるかに小さくて、下を向くと目が合ってしまうから、俺はそっぽを向いて、手の中の包みを差し出した。



「...私、に?」



とまどいながら俺を見上げるあいつに上手く声を出せそうになくて、返事の代わりに半ば強引にあいつの手に包みを押し付けて踵を返した。慌てた様に俺を呼ばわるあいつの声を背中で聞きながら、俺の足は止まらなかった。

あいつが俺の行動をどう受け取ったのか、聞いていないから知らない。でも後日俺が渡した白があいつのポケットに入っていたのを見た時、俺は柄にもなく少し嬉しかった。





あれから3ヶ月経って足を踏み入れた新しい教室で、今度はクラスメイトとしてあいつが笑っていた。あいつが変わったのか、俺が変わったのか、それは分からないけど、俺は前ほどその笑顔を苦手だと思わなくなっていた。



「おはよう、薫くん」

「あぁ」

「ちょっと海堂。あんたまともに挨拶もできないの?」

「うるせぇな...おはよう園田。これでいいんだろ」

「んん、まぁ今日のところは勘弁してあげよう」



2年連続同じクラスになった高橋との少しうざったいこの会話を、俺は嫌いじゃない。俺と高橋を見て笑うあいつの笑顔も、嫌いじゃない。あいつのポケットから見える白も、それから部屋の机の奥に仕舞った少し汚れた白も、俺は嫌いじゃない。


20161015

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