「小山ちゃんが好きなもん買うてきてん。簡単やけど飯作るから、入ってもええかな」

「そ、そんな申し訳ないです!」

「申し訳ないとか、そんなん気にせんでええ。病人は大人しく寝とき」



白石先輩に言われるがまま、あっという間に私はベッド、キッチンに白石先輩という信じられない光景が出来上がった。なんだこれ。訳が分からない。風邪っぴきの頭では到底理解が追いつかないこの状況の始まりは、今朝まで遡る。










【遥、風邪大丈夫?】

【あんまり】

【私今日1限だけだし、あんたの好きなもの買ってお見舞行くから待ってて】



優しい親友の美織からのLINEにお礼の返事をして、うつ伏せになった私は枕に顔を埋めた。



「うう〜...」



大学に入って半年。一人暮らしを始めて半年。私は初めて風邪を引いた。季節の変わり目というなんともありがちなタイミングだけど、ありがちな風邪の症状を舐めてはいけない。頭が痛いし、体もだるいし、思考がぼんやりする。

少し寝て起きると、スマホが告げた時間は11:30だった。1限は11時前に終わる。買い物をしてくることを考えると、美織がうちに着くまであと15分といったところだろうか。もし美織に風邪を移してしまったらと思うと申し訳ないけれど、今は心細さが勝っていた。

実家にいた時は、風邪をひけばお母さんがいてくれた。卵入りのあったかいおうどんを作ってくれたし、すりりんごも持ってきてくれた。大丈夫?って頭を撫でてくれて、氷枕を変えてくれた。でも今は1人で、部屋には誰もいなくて、誰も頭を撫でてくれない。1人って寂しい。

そんなことをぼんやり考えていたら、来客を告げるチャイムが鳴った。美織が来てくれたんだ。だるい体をインターフォンまで引きずって、私はモニターも見ずに通話ボタンを押した。



「美織来てくれてありが、」

『あー、小山ちゃん、ごめん。俺や、白石』

「し、白石先輩?」



予想よりも低い声と予想外すぎる名前に驚いてモニターを見ると、そこには他でもない、同じサークルで私の想い人、白石蔵之介先輩がいた。なぜだ、なんだ、なんだこれ。いつもに輪をかけて働かない頭で焦りまくった私は、とりあえずエントランスのオートロックを解除した。



「ど、どうぞ」



白石先輩がありがとうと言いながらマンションのエントランスを抜けるのをモニター越しに見て、私は部屋をうろうろし始めた。状況がわからない。白石先輩はなんでうちに来たんだろう。そもそもなんでうちを知っているんだろう。なんで、なんで。グルグル考えていると、スマホが震えた。



【ごめん。教授に捕まっちゃって、白石先輩が代わりに行ってくれた】

「なぜ!」



美織が教授に捕まるとなぜ白石先輩がうちに来ることになるのか。これはいつもの健康な頭で考えたとしても、絶対にわからない。



「はっ!服!部屋!」



上下スウェット、超完全にノーメイク。散らかってはいないけど、超綺麗とも言えない部屋。どうしようどうしようどうしよう!美織!助けて!焦りの原因となった親友の名前を心で叫んだ時、ついに玄関のチャイムが鳴り、話は冒頭に戻るのだ。





信じられない状況について考えたところでもう何だかよく分からないから、私は理解しようとすることを諦めてベッドに入ってうとうとしていた。いつの間にか眠ってしまっていて、しばらくして布団の上からぽんぽんと優しく叩かれる感覚に意識が浮上した。



「―――ちゃん、小山ちゃん。できたけど、食べれる?」

「...はい」

「ほな起きよっか」



目を開けて一番に白石先輩の顔が見えた。いつもなら興奮の余り発狂するレベルなのだろうけど、白石先輩の声がいつも以上に柔らかくて、笑顔も優しくて、私はどういうわけか安心していた。白石先輩の手に背中を支えられながら体を起こし、枕を立てて壁にもたれた私を確認して、先輩は私の膝におぼんを載せた。



「…おうどん」

「小山ちゃんは風邪ひいた時はうどんが食べたくなるって言ってたんですよーって、今坂ちゃんから聞いてん」

「...いただきます」



ほかほかと湯気が立ち上る土鍋には、卵が入ったおうどん。おいしそうな香りが鼻をくすぐって、私は箸を手に取って食べ始めた。



「...おいしい、です」



優しい味がした。体にじんわり暖かさが広がって、私はなんだか泣きそうになった。小さく鼻をすする私を見て、白石先輩が少し笑った気配がした。



「熱いからな。ゆっくり食べ」



私は素直に頷いて、少しずつうどんを啜る。そんな私の様子を確認すると、白石先輩は片付けでもするのだろうか、再びキッチンへ引っ込んでいった。ゆっくりとではあるもののうどんを平らげた後、私は白石先輩に入れてもらった水で薬を飲んだ。



「はい、よくできました」

「…そんな、子供じゃないんですから」



ご飯を残さず食べて薬を飲んで、そんなことで褒められたのは何年ぶりか。少し恥ずかしくなって顔を背ける私に白石先輩はまた小さく笑った。



「風邪引いた時くらい、甘やかされとき」



言いつつ、白石先輩は大きな掌を私の頭に乗せて、ぽんぽんと撫でる。その姿は、まるで。



「なんか、先輩、お母さんみたいですね」

「…オカンはちょっと」

「あ、男性だからお父さんか」

「そうやなぁ…あ、いや、そう言う問題でもあらへんけど」



先輩は苦笑いながら私のお盆を取り上げると、「少し寝ぇや」と残してキッチンに消えた。しかしすぐに戻ってきて、言われた通り横になった私のベッドに凭れるように座った。



「…先輩って、優しいですよね」

「なんや、藪から棒に」

「だって…後輩が風邪引いたらお見舞いに来てくれて、ご飯も作ってくれて…」

「あー…」

「すごく…優しい…」



少しうとうとしつつ言えば、先輩は少し悩むような声を出した。



「まぁたしかに世話焼きなとこはあると思うけど、流石にただの後輩にここまでせぇへんよ」

「…ん、?」

「今日はなんもせぇへんって今坂ちゃんと約束したし、今言うてもきっと小山ちゃん覚えてへんから今度にするけど」



何か言っている先輩の顔も声も、だんだんとぼやけて、ゆるやかに、微睡みの中に溶けて行く。



「…好き、やで」



なんだかほっぺが暖かくて心地いいな、とぼんやり思いながら、私はゆっくり意識を手放した。





20210830



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