ひとすくいの水



もうすっかり秋の季節になった。
世間は文化祭とか体育祭などのイベントに騒いでいる中、俺は中間テストの結果に頭を悩ませていた。
学校から帰宅する途中、ふとため息が漏れる。
仕方ないし。祈彩先輩に振られたときのショックの結果だし。
そうやって一か月も前のことを言い訳にして自分を慰めなきゃやってらんない。
いつになったらこの不幸ループを抜け出せるんだろう。
とぼとぼと歩いていると、すぐそこの川べりに人影があった。
そこは草草が生い茂っていて、人の影など普通はあるわけないのに。
不思議に思って凝視する。・・・目を見開いた。
あの、冷たい冷たい女の子だった。
それにも驚いたけれど、真の原因は他にあった。
女の子は黙々と。そう、ただ黙々と川へと足を踏み入れていた。
え、何。これはもしかしなくても。
さあっと血の気が引いていく。
馬鹿な俺でも、このまま放っておいたらどうなるかなんてわかりきっていた。
だから、仕方ないと思う。
気が付いたら全速力で駆けだしていたのは。
柵をひょい、と乗り越え、草むらをかき分けて叫んだ。
「君!!!ねぇそこの君!!!」
反応はない。女の子はただ俯いてまた深く、沈んでいく。
あぁくそ。俺は覚悟を決めた。
「・・・っ」
そろそろと足を水面に沈めると、足は悲鳴を上げた。
何これ。冷たすぎ。水死とかいう前にショック死しそう。
それでも女の子はどんどん深くなっていく。ワンピースの染みが大きくなっていく。
やばい、ってのはキンキンした脳からでも伝わってきた。
俺はぐっと息を飲んで。ざばざばと水をかきわけ、進んだ。
制服が水を吸ってずっしり重くなる。あ、これが命の重さか。ぼんやりそう思った。
女の子までの距離が縮まっていく。俺は思いっきり叫んだ。
「ねえ!!!そこのフレンチクル―ラ―の女の子っ!!!」
女の子は肩を震わせて振り返る。
真っ白な顔。一文字に結んでいる唇は微かに震えていて。
そこ頬を濡らしているのは涙か、それとも水なのかはわからなかったけど。
「あのさぁ!!!なんつーの、俺、あんたのこと全然知らないけど、でもさ!!!こーゆーの反則だと思う!!!」
大声で声を張り上げると、女の子は目を丸くした。
そりゃそうだろう。こんな胸下くらいまで水に浸かって追いかけてくる人なんてそうそういないだろうし。俺も初めてしたし、こんなこと。なんで今こんなことしてんのかさえわかんない。
でも、なんでだろう。今はそんなこと、どうでもいいって思えた。
「だってこんなトコで死のうとしてる女の子なんて見たら放っとけないじゃん!!!そのまま帰ったら見捨てたみたいじゃん!!!あの子死んだのか、なんて考えたくないじゃん!!!」
寒い。冷たい。脳が震える。キンキンする。火傷しそうな、冷たさ。
ああこの感覚は。この子の指とおんなじだ。
「ずるい、そういうのずるい!!!自分はどうでもいい存在だ、とか思ってるんだったら大違いだから、だって、だって、この時点で俺にとってはどうでもよくなんかないんだか、ら」
そこまで言い切ると、はぁっと息が漏れた。
もしかして大声で言う必要なかった?無駄なエネルギー使っちゃった?沈むかな、俺。
でもそれでその子の心がちょっとでも揺れたら。死ぬことは怖いって思ってくれたら。
そんなことに使う勇気だなんていらない、って。
それだけ、だった。
少しの沈黙の後。・・・・女の子が困ったような顔をしたのは何故?
え、何でその表情なの?!絶対違うだろ!!と呆然としていると、その少女は。
ほんとに困ったような口調で言った。

「あの・・・自殺、じゃないです」

「・・・・・・・・は?」
俺は思わず間抜けな声が出た。
彼女はすごく困った顔を浮かべてた。ゴメン、その表情大正解だ。
え?ほんとに自殺じゃないの?
ぽかーんとしている俺に、彼女は申し訳なさそうに眉をハの字にして。
「あの・・・物を落としちゃって。でももう見つかったので、その、」
大丈夫です。
そう言われて俺は何も言えなくて。
あれ?そしたら俺はすごく恥ずかしいこと言っちゃったんじゃ・・・?
ちょっと前の自分の言動を思い出して。・・・・顔を覆った。
おろおろする女の子に、指と指の間から小さくゴメン、と言った。あぁもう、消えたいくらい恥ずかしい。
「えと・・・そろそろ岸に上がった方が・・・」
「うんそうだね早くあがろう今すぐあがろう!!!!」
恥ずかしさに言葉をまくしたてると、女の子はプッと笑った。
あ、笑った。なんだか儚い、星みたいな笑顔。
指の間をすり抜けていく、ひとすくいの水みたいな笑顔。
・・・考えすぎだ。そんな言葉でそれを振り払う。
そんなことよりも、俺たちが早く岸に上がることが先決だった。



「だいじょぶ?」
そう訊くと、女の子はコクリと静かに頷いた。・・・実は俺は大丈夫じゃない。
水にどっぷり浸かった所為で、俺の身体は胸下までびしょびしょだった。
しかもあんな恥ずかしい説教までして。
それだけじゃなく、家に帰ったら中間テストの点を親にこっぴどく叱られるという大イベントも待ってるし。
泣きっ面に蜂どころじゃない。蜂の大群だ。
蜂蜜が好物な某黄色いクマのキャラクターが日々戦ってるくらいの大群。
「ごめんなさい、あたしの所為で・・・」
「・・・いいよ、俺が勝手に勘違いしただけだし・・・」
少し間が空いたのは『ほんとその通りだよ』っていう思いがあったから。
あんなややこしいことしやがって。おかげでこっちは。
そこまで思って止めた。だってほんとに俺の勝手な行動が悪かったんだし。
でもやっぱりちょっと不機嫌になるのは仕方ないよね?
むすっとしたままで服の水をしぼり取っていると。
「あの、ありがとうございました」
ぺこりと行儀よくお辞儀をされた。ショートボブの黒髪がさらり、と揺れる。
ありがとうって何が。俺何もしてないのに。
彼女の言葉で俺はモヤモヤした疑念を抱いた。
俺はまぁ、とかそういう系のテキト―な返事をして、家に帰ろうと彼女に背を向けた。
家には帰りたくなかったけれど、このカッコで遊ぶわけにもいかないし。
カッコ悪ぅ、俺。はぁ、と深いため息をつくと。後ろから不意に呼び止められた。
「・・・・・何」
「あの、ドーナツ、また買いに行きますね」
トーンの低い俺の声色に動じもせず、彼女はふにゃりと笑った。
祈彩先輩とは違った、儚い笑顔。それは脳にじぃん、と浸透していった。
その瞬間、ちくんと痛んだ俺の胸。あれ、この痛み覚えがある。少し考えてから、・・・顔が熱くなった。
焦った俺はもにょもにょとしたはっきりしない口調でああ、とかうん、とか曖昧な返事をして、全速力でその場から走って逃げた。
何か声をかけられたような気もした。でも振り返らなかった。こんな顔、見せられるわけない。
足を踏み出す度に水を吸ったスニーカーが音を立てる。何かが擦れるような音は、余計に俺をぐらつかせた。ああ、冷たい。爪先がキンキン痛む。

俺はまだ、あの儚い表情の意味を知らない。


















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