I cannot have such a thing




※いくらあっても足りないのは、の続編です

















「私が消えたら貴方の世界はせめて変わらないままでいて」
 苦しそうな声で彼女はそう言った。
 静かな病室に彼女が呼吸する音が嫌なくらい良く響く。
 ひゅうっ、と不規則な息をする度に、俺は冷や汗がどっと溢れた。
 だから俺はじっと固まる。物音ひとつたてずに。
 彼女の呼吸を消さないように。
「私に出会う前の、貴方でいて」
 目を見開いた俺に、彼女は弱々しく微笑んだ。
「きっと私、生まれ変わるから。貴方の前に現れるから。そのときは今よりかは幾分かマシな私に、なるから、」
 彼女は俺を見つめた。
 こんなに弱っていてもなお、あの頃と何一つ変わらぬまっすぐな目で俺を射る。
 真っ白な空間の中、彼女の瞳だけが我を保っていた。 
 この病室も俺の心も彼女の心臓も何もかもが不安定な中、いつもと何一つ変わらないのはこの世界と彼女の瞳だけで。
 そのまっすぐな瞳は悲しみを帯びたまま、俺に語りかけた。
「だからもう一度恋をしよう?私も貴方もよぼよぼになっても、それでも私は貴方の傍にいたいの」
 彼女の顔が泣きそうに歪んだ。
 けれど彼女はそれを笑顔でそっと人に隠す。
 彼女は元よりこういう性分なのだ。辛いことや苦しいことは自分で溜めこみ、やがて消化する。
 そんなことはずっと前から知ってる、でも、
 何もこんなときまで。
「ねぇ」
 呼ばれて、俺は黙しながら彼女と目線を合わせる。
 できるだけ優しく、いつもと変わらぬ目で。
 彼女は嬉しそうに目を細めて、俺の手をゆっくり握った。

「そしたら貴方は待っていてくれる?」
 貴方が忘れるまででいいから。

 この世のあらゆるものは不安定だった。それは俺の涙腺も同様だった。
 次々と頬を通過する雫は、彼女の手を濡らしていく。
 抱きしめたかった。
 けれど彼女の心臓はそれだけで機能を停止してしまいそうで。それがたまらなく怖かった。
 怖がりな俺は、彼女の手を強く握ることだけでも恐ろしくて。
 彼女は悲しそうに覗きこんでくる。
「違う、違うのよ、泣かせたかった訳じゃないの、ただ」
「馬鹿」
 震える声でそう吐き捨てると、彼女はえ、と目を丸くした。
「馬鹿、ほんと馬鹿だよなぁんもわかってない」
 彼女はひどく困惑しているように見えた。
 まっすぐだった瞳が少し揺らいでいる。
 俺は強く強く、彼女の手を握りしめた。
 涙に濡れた、その小さな手を。
「なぁ、どうして俺が忘れられると思うの」
 彼女がいる前の俺、だなんて。
 もうそんなの手遅れだ、だって、
 君の所為で俺はこんなに変わったんだから。
 今更元に戻るなんて出来るわけない。
「待っててくれるか、って訊いたよね」
 ベッドで横たわっている彼女は、黙って俺を見ている。
 それが枯れかけの花を思わせて、ひやりとした。
 それを振り払うように、言葉を続けた。
「待ってるよ。ずっとずっと待ってる。俺は死んでも忘れない。だから死んでも待ってるよ」
 そう言葉を紡いでいる間も涙は止まってくれなくて。
 熱い雫は彼女の手によって冷やされていく。
 彼女はゆっくり頷いて、また悲しそうに笑った。
「ありがとう」
 できるだけ早く帰ってくるね。
 その言葉にずきりと痛んだ俺の心臓を、いっそ彼女に埋め込みたかった。
 そんな思いはきっと誰も救えない。
 窓から冷たい風が吹き込んで、涙に濡れた俺たちの手は、またいっそう冷たくなっていった。
 

(来世でまた会おう)












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