いくらあっても足りないのは






※暗め注意
















「愛してる」
 付属の台所で林檎をむいていると、ソプラノの声色が突然降ってきた。
 誰に対して言っているのかすぐにわかって、手を止め振り向く。
「どうしたの、急に」
 彼女は少し黙してから手招きした。
 こっちへ来い、ってことらしい。俺は素直に従った。
 なぁに、ともう一度問うと、彼女は目を伏せて。
 長い睫毛がやわらかい彼女の頬に影を落とす。
 影の色は優しい黒。
 ぼんやりとしたその色は、俺たちにとっては不安の色でしかない。
 俺は静かに沈黙を尊重した。
 彼女の返事を待つために。
「ねぇ、何を言っても怒らないって約束してくれる?」
 こてん、と首をかしげて、でも真剣な表情で俺を見るのは、聡明な目。
 その中にはほんの少しの不安が入り交ざっていて。
 それがよりいっそう影の色を黒くする。まっくろに、なる。
 俺は目を見開いて、でも慌てて笑顔で繕った。
「いいよ、約束。言って?」
 俺はベッドの横にある白いイスに腰掛けた。
 彼女の視線と同一直線上に俺の目線が交わる。
 じっと見つめると、彼女も目を逸らすことなく俺を見つめた。
 俺の、目だけを。
 絡みあう目線だけじゃ足りなくて、俺は彼女の手に自分の手をそっと重ねた。
 じんわりとあったかい小さな手。
 彼女は嬉しそうに微笑んだ。ふわり。
 その笑みを崩さぬまま、一定のテンポで彼女は紡ぐ。
「あのね、さっきのは本番も兼ねてのリハーサルなの」
「本番?」
 心底わからないような調子で問うと、彼女はそう、と頷いた。
「さっきのが本番になるかリハーサルになるか私にもわかんない」
 へへ、と彼女は照れたように笑った。
 眉をハの字にして目を細めるその表情はまるで。
 泣いているようにも見えた。
「だから毎日言おうって決めたの。心をこめて、毎日ずっとね。ちょっと恥ずかしいけど」
 だめだ、と脳から信号が受信された。
 だめだこの先を彼女に言わせては。
 けれど制止するより早く、彼女が口を開いた。

「でもそしたらいつ『さよなら』がきてもだいじょうぶでしょ?」

 彼女は白いベッドの上で微笑んだ。
 それが愛しくて愛しくて切なくて。
 俺は力任せに彼女を抱きしめた。
「愛してる、俺も愛してるよでも」
 抱きしめる力を強めると、彼女は折れてしまいそうで。
 元々線の細かった彼女は、あの頃と比べてずいぶん痩せた。
 細い身体につぶされて、心臓が異常に機能していないか確認する。
 ―それが俺の癖になったのはいつからだっただろう。
「でもこれは練習だ。本番でもなければリハーサルでもないんだよ」
 俺の腕の中で、彼女は少しだけ震えた。
 でもそれも一瞬で。彼女はふっと息をした。
 彼女は俺の腕の中で微笑んでいるに違いなかった。
 けれど背中にまわされた小さな手だけは、微かに震えていた。
「ありがとう、私も愛してる」
 本番はいつかなぁ。
 彼女の小さな呟きは聞こえないフリをした。


(一生分の愛してるを囁くから)













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