イルミサインの道標

二人ぼっちの同窓会 2−1


塔矢君は足元に置いてあったビジネスバッグ膝の上に乗せ、中から黒の名刺入れを取り出した。そこから一枚抜き取って、カウンターの上に置いて見せる。
「これ。先週行ったお店で頂いたんだけど」
いかにも高級クラブっぽい、薄紫色の和紙に一輪の紫陽花をあしらった女性の名刺だった。

「触ってもいい?」
「もちろん」

 実は、だいぶ前に私も自分の名刺を作ってみようか考えていた時期があった。
 その時に常連さんが「これ、参考にしてみたら?」と見せてくれた名刺は、写真みたいにツルツルした手触りで、全体的にラメが散りばめられており、座右の銘に顔写真まで載っている、名刺というかアイドルのブロマイドみたいな名刺だった。
 
 それと比べると、この名刺はサラっとしていて手触りが良いし、シンプルだからお店や女性の名前が分かりやすい。かなり好感が持てる。

「これ、塔矢君が欲しいって言って貰ったの?」
「まさか、違うよ」
「だよねぇ。でも、名刺を受け取れるくらいには成長したって思うと嬉しいよ」
 
 ちょっと前まで、隣に座った女性との距離感について悩んでいたのに。
 題して『膝が触れそうなくらいに近い女性から多少離れたい問題』。およそ一時間の議論の末、鞄で壁を作る作戦で決着がついた。あの時は、さりげない鞄の置き方まで話が広がったっけ。塔矢君は意外と面倒な性格だ。

 そんな事を思い出しながら今回の彼の面倒について考えた。名刺の何が引っかかっているのだろう。自分の名刺を渡しそびれたとか? それとも、名刺をくれた女性の顔が思い出せない? 
 
 しかし疑問は、塔矢君の独り言のような呟きで解消された。

「連絡、取るべきかな」
「それは、」

胸の奥が奇妙にざわついた。
仮に、連絡しない方がいいよって言ったら、その通りにするのかな。

「また会いたいって思うなら、するべきだと思うけど」
 
 平静を装って答えた。

「悪い人ではなかったけど、また会いたい……うーん」
 
 塔矢君が悪い人じゃないって言うなら、もの凄く良い女の人だったのだろう。特定の女性を褒める口ぶりは、この数カ月ではじめて耳にした。
後押ししたい気持ちと、面白くない気持ちがごちゃまぜになって、得体の知れない不快感がじわじわ身体を侵食していく。

「ゆっくり考えてみて」
 
 すでに腕を組んで考え込む体勢に入っている塔矢君は、聞いているのかいないのか「うん」と素っ気なく返した。

思考のダイビングに潜ってしまった彼はさておき、私は名刺をひょいと裏返す。こういうものは裏面にも何か書かれているのがセオリー。

 予想は的中。

 流れるような綺麗な文字。私が書くような丸っこい文字じゃなくて、お習字を習った人が書くような、しなやかな文字。
本名と思われる名前とメールアドレス、電話番号、それからメッセージが書いてある。

『面白いお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。またお話しできると嬉しいです。塔矢さんからの連絡を待っています。』

 これだけの情報を書いているのに読みやすいのも凄い。私だったら、文字の大きさや字間が取れなくて、読みにくい汚い名刺になるだろう。

「これは悩むわけだ」

 ついて出た言葉に、塔矢君は頬を掻いた。

「話し上手な方でね。楽しかったって思えたから無碍にはできなくて」
「なるほど」

 にっこりほほ笑みながら名刺を差し出されたら塔矢君は断れない。
 元々、他人に対して誠実に接するように教えられているからか、彼は基本的に優しい。
柔らかい物腰で良いところのお坊ちゃんな印象があるのに(実際そうだけど)優しい素振りなんて見せたら断れない性格だと思われるかも。しっかり名刺を持ち帰ってきたのがその証拠だ。
 
 初心者の塔矢君は彼女の真意を思いあぐねている。多少は知っているつもりの私ですら読みとれないから困った。営業じゃなくて本気で塔矢君を気に入った線も考えられるし、その場合、馬に蹴られて死んでしまうのは私だ。

「さっきも言ったけどさ、やっぱり塔矢君が会いたいか会いたくないかだよ。連絡先をもらったからって連絡をするのは義務じゃないし」

この一言に尽きる。

 単純な問題なのに何をそんなに悩んでいるの? と暗に言ったつもりだった。

 塔矢君が会いたいと思うなら私に相談するまでもない。こんなに成長したよ! の報告なら回りくどいやり方じゃなくてもいいのに。
 
 名刺を机に戻してカウンターの中から外へ出る。
 
 そろそろ開店時間だ、看板をつけておかないと。
 出入り口扉の前を占領しているキャスター付きの看板を外に出すべく、床に垂れたプラグを手に巻き付けていると、塔矢君がキイと椅子を回転させ、私の方に身体を向けた。
なぜか咎めるような雰囲気に、全くもって身に覚えのない私はポカンと彼を見つめる。

「お世話になった方に先日のお礼を入れる事は、義務に近しいと思うけど」
 
 尤もな意見だ。
 私だってお世話になったらお礼の一つくらい入れる。塔矢君がお世話になったと呼べる範囲がどこまで広いかは知らないけど。
それなら尚更、私に突っかかっていないでさっさと連絡しちゃえばいいのに。そう思って、ある事に気づいた。
 
 ……矛盾している。

「塔矢君さ、そのお店行ったのって先週≠セったよね」
「そうだよ」
 
 それがどうしたと言わんばかりの表情に、矛盾を指摘するべきか悩んだ。聡明な塔矢君がこんな事に気づかないなんて。男女の駆け引きの練習をしていると考えた方がしっくりくる。映画にだってよくある話だ、相手を嫉妬させるために、わざと嘘を吐くとかそういうの。

 いや、塔矢君はそんなタイプじゃないか。男女関係に関しては不器用の三文字がよく似合う。

 結局、不器用な彼をつついてみる事にしたのは、ちょっとした八つ当たりだった。何に対して不満を持っているのかは、自分でもよく分からないけど。
 グルグル巻きになったプラグをギュッと握りしめ、できるだけ穏やかな顔を作る。怒った顔だと、いよいよケンカになりそうで怖かった。

「お世話になった方へのお礼って、普通、翌日には送るものじゃない?」
「……」
「先週行ったお店なら、もう数日経っているよね。律儀な塔矢君がまだお礼を入れていないのって、ちょっと不思議かも」
「それは、」
 
 途端にしどろもどろになった塔矢君から、逃げるように外へ。
 片手で扉を開けて、もう片方で看板をグッと押して。

――カランコロン

 辺りはもう薄暗く、訪れる夜に備えてネオンが輝きだしていた。
 昼間よりもずっと埃っぽい、むせかえるような新宿の夜。すぅっと息を吸い込めば、いかにも身体に悪そうな空気が肺に流れてくる。でも上手く言えないけど、この空気は嫌いじゃない。身体が馴染んで、ここが私の居場所になってしまったのかも。

 もう一度、気合いを入れるために深く深呼吸して手から巻き取ったプラグをコンセントに差し込んだ。
 パッとピンク色を灯した看板に、浮かび上がるお店の名前。
 
 開店だ。
 
 お店に戻ったら、まずは塔矢君に謝ろう。それから今度はもっとちゃんと話を聞いて冷静に受け答えができるようにしよう。
 
 塔矢君は、答えを求めてここへやって来るのだから。



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