イルミサインの道標


 それから塔矢君がやってきたのは、お店がオープンしてすぐの事。

 平日の早い時間はお客さんが少ないから、店内BGMに好きなロックバンドの曲を流していた。
 レベッカのフレンズ。
 カウンターの中でパイプ椅子を広げて歌詞を口ずさむ。NOKKOちゃんの爽やかに突き抜ける高音はいつ聞いても気持ちが良い。青々しい少女の気持ちを振り返った歌詞もいい。私も歌詞のように感じていた頃があったに違いない。今はもう思い出せないだけで。

 曲が切り替わる。Maybe Tomorrow。
 しっとりしたイントロが流れはじめる。脈を打つようなドラムの音、ささやくような力強い歌声……この曲も好きだけど、今はアップテンポの曲がいい。そわそわと落ち着かない気持ちを塗りつぶすような元気の出る曲。何を流そうか、手元の音楽プレイヤーを弄っていると不意に来客を知らせるドアベルが鳴り響いた。

――カランコロン

 慌てて立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
 声をかけると一人の男性が躊躇しながら中へ入ってきた。
「あの、今日ここへお邪魔すると連絡していた塔矢ですが」
「……塔矢君?」

 私は、目の前の男性が記憶の中の塔矢君と全然違う事に驚いた。見覚えのある姿だけど全く知らない男性。当時よりもずっと伸びた身長で男の人らしい体つきなのに、肩口で切りそろえられた髪型とか、同級生を遠ざける原因の一つになっていた力強い目は、しっかり塔矢君のままだ。

 塔矢君に対する緊張や不安が一瞬だけ吹き飛んで、思わず、まじまじと姿を見ていると彼は困ったように微笑んだ。

「名字さん。久しぶりだね」
「あ、うん、久しぶり」
 ハッと我に返った私は、袋に入ったおしぼりを一本取り出した。
「えっと、好きな所へどうぞ」
「それじゃあ、お邪魔します」
 
 店内をザッと見渡した塔矢君は、出入り口扉に一番近いバー・チェアに腰を下した。
 同窓会は想像通りのぎこちないスタート。おしぼりを塔矢君の前に置いて、ついでに紙製の薄ピンクの丸いコースターも出しておく。

「塔矢君、お酒飲む?」
「いや、大丈夫。ソフトドリンクはあるかな?」
「あるよ。お茶ならウーロン茶と緑茶、ジュースならオレンジジ、グレープフルーツに……まあ大体揃っているかな」
「じゃあ、ウーロン茶をお願いします」
「了解です」

 ウーロン茶を注ぎながら、この気まずい空気をどうするかについて悩んでいたら、塔矢君が「キネマバーなんだ」と呟いた。コースターにオシャレ風な文字で書かれているキネマバー・ローマも休日≠フ名前を見てピンと来たようだ。正直なところ、えっ、知らないで来たの? と思ったけど、ウーロン茶を置いて「そうだよ」とだけ返した。

「ごめん、君の伯父さんから何も聞いていなかったから」
 塔矢君は申し訳なさそうに言った。
「知らないで入って来るお客さんもいるし、気にしないで」
 
 実際、キネマバーと知らずに入って来る人は多い。
 店先に置いてあるピンク色の電飾看板はキネマバー≠フ文字が省略されていて、書いてあるのはお店の名前のみ。ローマも休日、なんて名前は多少映画を知っている人はともかく、知らない人は全く知らないだろう。
 入り口はかなり不親切なお店だけど、いつも店内でかけているBGMは有名映画の主題歌ばかりで、案外そっちは知っている人も多い。
 
……そうだ!

 私は一筋の希望を胸に、音楽プレイヤーから映画主題歌リストその1を開いた。

 最初に流れるのはアメリカのロマンス映画の主題歌。
偶然知り合った娼婦ビビアンと実業家エドワードが、いつしか惹かれ合い恋をするシンデレラ・ストーリー。

 店内に軽快なリズムの音楽が流れはじめる。

 これは絶対に知っているだろう、さすがに知っていてほしい。話すきっかけが無いのは困る。

 しかし塔矢君の反応はない。つまり、全く映画に興味の無いタイプだ。こうなったら、さっさと用件を聞いて帰ってもらおう。

「塔矢君、悩んでいる事があるって聞いたんだけど」
 
 思い切って単刀直入に尋ねた。
 すると塔矢君は瞼を伏せ、憂いを帯びた表情で言った。

「数年ぶりに会った君に、こんな事を話していいのか未だに悩んでいるんだけど」
 
 その様子に、てっきり伯父さんの余計なお節介だと思っていた自分を恥じた。塔矢君は真剣に悩んでいるんだ。じんわりやさしい気持ちが広がっていく。

「大丈夫だよ。職業柄、人の話を聞く機会も多いし」
 
 お店へやって来る人の中には、映画の話よりも自分の話を聞いてほしいだけの人もいる。こちらが度肝を抜くようなヘビーな話をさらっと話して、少しだけスッキリした面持ちで店を後にする。
 だから塔矢君がどんな話をしても、動じない自信があった。

「私が聞いても問題ない話なら、聞かせてくれる?」
 塔矢君は少し間を置いてから口を開いた。
「……父に社会勉強をしなさいと言われて」
「社会勉強?」
「成人してから、接待で夜のお店に連れて行かれる機会が増えたけど、どうにもそういう場が苦手みたいで」
「そういう場って、クラブとか?」
「まあ、そうだね」
 
 塔矢君がクラブ……。
 男の人の付き合でお酒と女性がある場は切っても切れない縁だと分かっているし、もちろん塔矢君が行ってもおかしくない。ただ、そこでお酒を飲んでいる想像がつかない。
当たり前だけど、大人になったのは見た目だけじゃないんだ。
感慨深く息を溢すと、それを不快に思ったのか、塔矢君は眉を寄せた。

「僕が好んでそういうお店に行くわけじゃないよ」
「それは、そうだと思う」

 良くも悪くも真面目だと思うし、苦手と言うのも頷ける。
 塔矢君は続けた。

「お酒自体は強くも弱くもないし、嫌いじゃないけど、知らない女性が隣にいる状況が落ち着かなくて。それで父がそれなら見知った女性の元で勉強しなさいと。こういう事は覚えていて損ではないし、今後は増えてくる付き合いだから……というわけ」
「なるほどね」

 ようするに、練習相手になってほしいのか。

「塔矢君は女性が苦手なの?」
 
気になったことを聞いてみると、塔矢君は、さも重大な事を告げるような面持ちになった。

「特別苦手だと意識したことはないけど得意でもないかな。でも、ああいう場の女性は苦手かもしれない」
「うーん……」
「そもそも、何を話せばいいのか分からない」
「話すのは向こうのお仕事だから、無理に話題を振る必要はないと思うけど」
「そうなると、全く会話が弾まないんだ。無難な天気の話題ですら、二、三回言葉を交わして終わってしまう」

 天気の話題って、どんな人に振ってもきっかけになるのに……。

「私が思っていた以上に重症かも」
「僕もそう思う」
 
 でも、接待される側となれば嫌な顔はできない。女性の好みは仕方ないとしても、場の雰囲気に慣れてしまえば他愛のない話しくらい出来るようになるはず。

「ここ、映画好きの人が集まってお酒を飲むくらいのお店だし、勉強になるのかなあって思ったのですが」

 私達の間で色々なご縁があったとしても、数十年ぶりに会う元クラスメートに声をかけるなんてよっぽど悩んでいるに違いない。もちろん力になりたいと思っている。
 でも私自身はしがないバーテンダーで、クラブやキャバクラで働いた経験はない。女性目線のアドバイスならできるけど、はたしてそれは実戦に活用できるものなのか。

「実は、今も少し緊張している」
 塔矢君は照れくさそうに俯いた。
「塔矢君が私相手に緊張するなんて!」
「中学生の頃しか知らない同級生が、急に大人の女性になって現われたら誰だって緊張するよ」
「それ、私が塔矢君に対して思っていた事と同じ」
 
 なあんだ、二人とも同じ事を思っていたんだ。
 おかしくなって私が声を出して笑うと、塔矢君もつられてクスクス声をあげた。

「私と塔矢君、中学の時って全然喋ったことないのに、何話したらいいのかな? とか、そもそも私の事覚えているのかな? とか色々考えていたの」
「僕も! 忘れられていたらどうしようかと」
「塔矢君の事を忘れる人は、そうそういないよ」
 
 私はカウンターの中から握手を求めて手を差し出した。

「まずは私への緊張を解いてもらって、それから一緒に勉強とか練習とかしていこう」
「ありがとう、助かるよ。よろしくお願いします」
 
 骨張った大きな手が、おそるおそる私の手を包む。試しにぎゅっと力を込めれば、塔矢君はやっぱり困ったように微笑んだ。



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