極彩ラビリンス
1
塔矢門下をクローズアップした記事を掲載するとかで、朝から何かと忙しなかった。対局、インタビュー、グラビア写真、全てを終えた頃には日もすっかり傾いていて、控室として宛がわれた部屋の壁時計は、もう十八時を指している。
幼い頃から何かと取材が多かったアキラにとって、この手のものは慣れているはずだった。今までの経験を元にある程度の拘束時間や疲労の具合を予測して、家を出るときは腹をくくって玄関を跨いだ。しかし残念なことに、アキラの予測は大きく外れた。終了時刻はまだしも、疲労は何倍にも膨れ上がっている。原因はグラビア写真だ。まさか何度も何度も着替えてカメラの前に立つとは思ってもみなかった。
「お疲れだなアキラ」
そんなアキラとは対照的に、いつもと変わらないのほほんとした笑みを浮かべているのは、兄弟子にあたる芦原である。芦原は少しの疲労も感じさせない様子で、控室に備え付けられたドレッサーの前で身支度を整えていた。
「疲れてなんか……と、言いたいところだけど、ちょっと、うん。疲れたな」
言ってアキラは、ソファーの背もたれに頭を預けた。
本業のスケジュールの都合上、今日は一日、芦原と行動を共にしていた。どこまでもマイペースで朗らかな芦原の存在は大きく、カメラの前で疲労を浮かべずにすんだのも彼のおかげだ。
「それじゃあ次はこの衣装に着替えて下さい≠チて言われたときのアキラ、絶望的な顔していたもんなァ」
「うわ、顔に出てた?」
アキラは慌てて背後を振り返った。ドレッサーの大きな鏡越しに芦原と目が合う。芦原はそんなアキラの様子にぷっと吹き出すと、
「大丈夫だって! 俺しか気付いてないよ」
と言って、ニッコリ笑った。が、アキラは分かりやすく肩を落した。意識的なものではなく、生まれ育った環境で培われた「丁寧さ」は稀にアキラを気落ちさせる。碁に関わりの無い場所では特に。
「おいおい落ち込むなよ。誰も何も気付いてないって。いつも通りの囲碁界の若きエース・塔矢アキラだった」
「うん、それならいいんだ」
言いながらアキラは前に向き直って、深い溜息を落とした。
「ポージングだって様になっていたし、カメラさんも感心していたよ。女性ファンが多いわけだって」
大人になってから、ミーハーなメディアに声をかけられる事が多くなった。自分の容姿には全く興味の無いアキラだったが、さすがにここまでもてはやされたら、一般的に見た自分の容姿を自覚してしまう。しかし自覚したところで碁には全く関係ないし、容姿の良し悪しなんて心底くだらない。
今日の仕事も、塔矢門下をクローズアップするだけならグラビア写真なんて必要ないだろ、と、秘かに思っていた。
「別に、女性ファンなんていらないよ」
吐き出すように言って、アキラは自分が感じていた以上に疲れていることに気が付いた。ふ、とピンク色の看板が脳裏をよぎったのも、身体が休息を求めているからだろう。
「ファンの子が聞いたら泣いちゃうな」
「そりゃあ応援してくれるのは嬉しいけど、囲碁に興味を持ってくれる方がよっぽど嬉しいもの」
「うーん、それはそうだ」
芦原は頷いて、バッグのハンドルを手に握った。身支度はすっかり終わっている。
「さてと。本日の任務も達成したことだし、一杯付き合ってくれないか? 連れて行きたい所があるんだ」
「連れて行きたいところ?」
アキラは小首を傾げた。
「先生に紹介してもらったBARなんだけど、独特な雰囲気で面白くてさ〜。まだ二回しか行ったことないけど、そのうちアキラと一緒に行けたらいいなって思っていたんだよね」
「BAR……」
呟いたアキラの頭には、先ほどのピンク色の看板が鮮明に浮かび上がっていた。この頃よく世話になっている店だ。中学の頃、同じクラスだった女性が働いているキネマバーで、父の行洋と彼女の伯父が友人関係にあって、社会勉強のために通い始めた。しかし今となっては、社会勉強よりも心の休息に訪れることが多い。
――困ったな。
アキラは心の中でごちて、足元にあるバッグを掴んだ。それってもしかしてキネマバー? と訊ねてしまえば良かったが、そうなると、これまでの経緯を根掘り葉掘り聞かれ、あの店の常連と知られるまでがオチだ。別にやましいことはない。だが、妙な気恥しさがある。例えるなら、親戚のお兄さんに大人ぶっているところを見られた中学生みたいな。
アキラはもう立派な大人に違いないが、スマートに「行きつけの店」を紹介できるほどこなれていない。そもそも、そういう事を学びにキネマバーへ通いはじめたのだ。
「新宿にある店だから、ここからだとすぐだよ。今から向かえば開店と同時くらいかな」
にこやかに言う芦原に、アキラの疑念は確信へと変わる。新宿にあるBARで開店時間が同じ店なんて、探せば沢山あるはずなのに。
2
開きっぱなしにしていたお店の扉の向こうから、寂し気なギターの音色が聞こえる。スローテンポなサウンドと、耳元で囁くような優しい声。これはエリック・クランプトンのチェンジ・ザ・ワールドだ。
私は看板を定位置に置くと、ふっと空を仰いだ。燃えるようなオレンジ色はもうほんの僅かしか残っていない。夜のはじまりを告げる青のグラデーションが、今こうして空を眺めている瞬間にも、より濃く深くなっていく。
――ジョージが全てのはじまりになる光を見たのは、しんと静まり返った夜中だった。
ジョージはチェンジ・ザ・ワールドが使用されている映画、フェノミナンの主人公だ。誕生日の夜に不思議な光を発見して、サイコキネシス的な力が使えるようになった男性のお話しで、ファンタジーな内容と見せかけて、純粋な恋愛映画とも人間ドラマとも捉えられるかもしれない。見る人によって印象が変化する面白い映画だ。ちなみに私は視聴毎に印象が変わった。
はじめてフェノミナンを見たときは恋愛映画だった。最後のシーンに辿り着く頃にはボロボロ涙を溢していて、その日の夜、余韻を引きずるようにお店のBGMにチェンジ・ザ・ワールドをリピートしていたら、常連さん達に「いい加減、他の曲を流せ」と怒られた記憶がある。
久しぶりに聞いたなァ。ちょっぴりエモーショナルな気持ちになりながら、ゆっくりと辺りを見渡す。ジョージが見たような光はないけど、ここには、いつもと変わらないネオンの光がある。自己主張が激しくて、長く眺めていると目がチカチカするけど、私はこの光の群れが大好きだ。
「さ、今日も頑張ろ」
呟いて、手に巻き付けていたプラグを解きコンセントに差し込んだ。ビビットピンクの目覚めだ。
キネマバー「ローマも休日」。
店名にピンと来る人も来ない人も大歓迎のBARである。
ちょうどチェンジ・ザ・ワールドが終わったので、カウンターに入ってBGMをシャッフルに切り替えた。流れ始めたのはハリー・ポッターで一番人気の楽曲。全シリーズに登場するミステリアスな雰囲気の曲だ。
これなら映画を観ない人でも分かるかな。そう思い、BGMをそのままにして丸椅子に腰を下ろす。それから、カウンター下の収納棚に手を伸ばして、一冊の本をつかみ取る。ずいぶん草臥れてしまった雑誌サイズのそれは、カクテルを作りたい初心者のための本だ。最近は本に載っているカクテルを作ることにハマっている。そのうち映画をモチーフにしたカクテルを提供できればと考えているけど、頭の中にあるモチーフカクテルを作るには、技術的にかなり努力しないといけない。
お店にある材料と自分の力量に合ったレシピを探しはじめて少しして、カラン、とカウベルが小さく揺れた。お客さんだ。私は本を閉じて、ひらきかけた扉に目を向けた――カランコロン。扉が押され、カウベルが大きく揺れた。
「こんばんは。二名だけど大丈夫ですか?」
店内を伺うようにひょっこり顔を出したのは、久しぶりの男性だった。
――アルパカさんだ! 私は思わず、勢いよく立ち上がる。その勢いのまま「アルパカさん!」と叫びそうになったので、太ももをぎゅっとつねって昂ぶりを落ち着かせ、
「もちろん大丈夫ですよ。お好きな席へどうぞ」
と、失礼のない接客を意識した。
「良かった。前に来たときは満席だったから」
「覚えています。せっかく来てくれたのに申し訳ないなって思っていたんです」
――私が勝手にアルパカさんと呼んでいる彼がはじめて来店したのは、先々月の半ば、春なのに寒いねェ、と身体を震わせながらやってくるお客さんが多かった日のことだ。みんなと同じようにガクブル震える彼は、不自然に空いている出入り口扉のすぐ前に座った。この席が空いている理由は一つ、外の冷気をダイレクトに感じるから。ひざ掛けでも用意しておくんだった。せめてもの温かいおしぼりを手渡して、寒い席ですみません。いえいえ、お酒を飲めば暑くなるし丁度いいですよ。そんな会話をした。
それから、一見さんでも心地よく過ごしてもらえるように積極的に声をかけた。アルパカさん自身も話すことが好きみたいで、会話の盛り上がりは悪くなかったのに、こういう時に限って忙しくなる。結局しばらくの間まともに会話をすることができなくて、やっと手が空いた頃には、彼はすっかり常連さん達と打ち解けていた。せっかくの会話を邪魔するのもなァ。賑やかな声に耳を傾けながらカウンター仕事をしていると、彼に声をかけられた。そして気が付くと会話の輪の中に引き込まれていて、あまりに自然な流れだったから、なんだか凄い人だなぁと感心したのを覚えている。
二回目に来たときは、ゆっくり話すことができた。映画に詳しい方ではなかったけど、あらすじを紹介すると楽しそうに聞いてくれたので、ついつい私のお喋りが多くなってしまった。アルパカに似ているなって思ったのはその時だ。ふわふわで柔らかそうな髪とのんびりとした雰囲気が私の中にあるアルパカのイメージそのまんまだった。
会話に夢中になって、名前を訊ねることすら忘れていたのは失態だ。次に来たときは聞かないと! そう意気込んでいたが、三度目に彼がやって来た日は満席で、また来るよ、そう言い残して去って行った彼の背と店内を交互に見て「もう少しお店が広ければなァ」と、ちょっと残念な気持ちになった。
「今日はどの席でも座れますよ」
いたずらっぽく言うと、アルパカさんは「どこにしようかな〜」と呟きつつも、真っすぐに入口近くの席へ足を運んだ。そこが彼の定位置になったのだろう。続いてこちらを伺うようにおずおずと入ってきたのは、もうお馴染みになっている塔矢君だ……って、塔矢君?
「あれ、なんで二人が一緒に?」口が開きかけたのと同時に、目が合った塔矢君が唇に人差し指をあてた。訳アリらしい。何がなんだか分からないけど、ひとまず「わかった」の意を込めて頷いておく。
当然、塔矢君はアルパカさんの隣に座った。いつもの席に塔矢君が座らないのは、なんだか変な感じがする。塔矢君はもう、すっかりこのお店の一員だ。
おしぼりを手渡しつつそれとなく二人の顔を見れば、ご機嫌なアルパカさんに対して、塔矢君は難しそうな顔をしていた。
「飲み物はどうします?」
目には見えない何かに巻き込まれたような感覚を肌で感じながら、私は何も知らないフリをした。BGMのハリー・ポッターが今の奇妙さとマッチしている。
「そうだなァ。オレはとりあえずビールにしようかな。アキラは?」
「あ、えっと、ボクは……」
親し気にアキラ≠ニ呼ばれた塔矢君は、バッグバーに視線を走らせた。
「オススメをお願いしてもいいですか?」
「お、オススメですか」
声が裏返った。込み上げた笑いを堪えたせいだ。
オススメとはつまり、いつも飲んでいるものを出してほしいという要求に違いない。塔矢君の視線の先には、案の定、透明度の高い海の色をしたボトルが置いてある。
いつもの――もとい沖縄産の日本酒「黎明」。
沖縄といえば泡盛のイメージが強いけど、実は沖縄にも日本酒を造る酒造が一軒存在する。地元の居酒屋やスーパーにも滅多に並ばないので、地元の人ですら口にする機会が少ないらしい。うちは伯父さんの伝手で入手することができた。味は、きび砂糖の風味があるまろやかな甘みと口に残る苦味が心地よく、まったりとしつつもやや辛口。日本酒の通である常連さんは「古臭くて面白みのない味わい」と厳しい評価を下していたけど、個人的には亜熱帯気候での挑戦という面を考慮しても充分美味しいお酒だと思っている。一方の塔矢君は、お酒の種類にこだわらず、美味しいと勧めたものを素直に「美味しい」というタイプだけど(もちろんにもお酒の好みはあるが)黎明に関しては味わいと同じくらい酒造のチャレンジ精神が気に入ったらしい。伯父さんから黎明のよもやま話を聞かされているときの塔矢君はビックリするくらい真剣で、私もつられて、何度も聞いたよもやま話に耳を傾けたくらいだ。
そんな塔矢君に、素直に黎明を出すべきか悩んで、あたかもオススメを選んでいるフリをしていた。正直に言うと出したくない。だって、何かあるなら連絡をくれてもいいのに、突然こんな風に「全てを察してくれ」なんてオーラを出されるのはちょっとムカつく。はじめて会った頃に比べれば多少言い合える仲になったけど、私が塔矢君に抱く感情は親しい友人に向けるような感情ではないし、この気持ちがもっと強くなれば、塔矢君と自然に話すことはできなくなるだろう。この持て余した感情は厄介だ。塔矢君は何も悪くないのに、彼の言動に振り回されている自分が都合の良い女になったように感じて、くさくさした気持ちになる。塔矢君の人柄的に意識的じゃないのは分かっているけど、今みたいに無意識で甘えられるのも悔しい。仮にこれが好きな相手なら、彼女に迷惑をかけないようにしようって思うはずなのに。まあ別に、今のこの状況を迷惑と思っているわけじゃないけど……。
「珍しい日本酒があるんです。沖縄のものなんですけど――」
悩んだ末、後々を考えて、察してくれオーラを受け入れることにした。
「それなら、その日本酒を下さい」
塔矢君はあからさまに表情を明るくして、ありがとうと唇を動かした。ああ、もう。そういう少女漫画にありそうなことを平気でやっちゃうから勘違いする女の子が増えるのに。
私はちょっとムッとしながらバッグバーの黎明に手を伸ばす。すると背後から、
「あ、すみません。緑茶割りでお願いできますか?」
なんて声が飛んで来て、
「言われなくてもそのつもりでしたけど!」とは言えずに、つい覇気のない返事をしてしまった。
3
芦原が違和感を覚えたのは、ゴールデン街に足を踏み入れてすぐのことだった。アキラはきっと、こういう所に来たことがない。戦後すぐに建てられた木造長屋に所狭しと埋め尽くす飲み屋。店主らの趣味嗜好が全面に押し出され作られた濃い空気感。それから、張り合うように自己主張をしているカラフルな電飾看板たち。
ここに来ると、非日常の迷路に迷いこんだような気持ちになる。期待とちょっぴりの不安を携え歩き、想像もしていなかった非日常と対面できたときは、幼いころ、ラメ混じりの珍しいBB弾を拾ったときのような感動があった。
その感動は、大人になった今思うと、本当にちっぽけで可愛らしいものだ。だけど大人になると、不思議と見つかりにくくなってしまうものでもある。
アキラはこの街に何を感じるのだろう。芦原は他愛のない話を続けながらも、ワクワクした気持ちでアキラの様子を伺っていた。が、待てど待てどもそれらしい反応がない。いつもの至ってクールなアキラのままだ。鮮烈な色彩の洪水に歩みを緩めることすらない。
「ここだよ」
ついに目的の店に着くまで、一度もフレッシュな反応を見せてくれなかった。おかしいなァ……。芦原は拍子抜けした気持ちで、ドアノブを軽く引いた。
アキラと自分のお酒を注文して、せっかくなので彼女にも一杯振る舞った。三つのグラスの縁が軽くぶつかれば、芦原とアキラ、二人のちぐはぐな夜が幕を開ける。
芦原が彼女とこうして向かい合うのは、これが三度目だ。ゴクゴクとハイボールを堪能している彼女はどこにでもいる女性のように見えるけど、映画のことを話している姿は、さすがキネマバーの店長だと感心する。それから、さりげない気配りも良い。一見さんお断りの店も少なくない中、彼女は初対面の自分にもとても良くしてくれた。常連さんの雰囲気が良いのも、店を作っている彼女の努力だろう。芦原はそう思っている。
アキラをここに連れて来ようと思った理由は、畑は違えど、好きなことに熱を注ぐ彼女とアキラが仲良くなってほしいと考えたからだ。触れたことのない世界を知る楽しみと同じくらい、アキラと歳の近い(ように見える)彼女と言葉を交わしてほしかった。
アキラの世界は、良くも悪くも囲碁が大半を占めている。プロ棋士である以上仕方のないことだけど、どうにも気負い過ぎているように見える。
どこかで息を吐ける場所を見つけて欲しい。それがこのキネマバーでなくとも、今日のことが一つのきっかけになれば嬉しい。
「どう?」
彼女が二杯目のビールを注ぐのに少し離れたので、芦原は小声でアキラに訊ねた。
「どうって言われても……」
アキラは戸惑ったように言って、彼女の後ろ姿に目を向けた。
「良い子だと思うよ」
おや? 芦原は胸の内で呟いた。何も彼女のことを訊ねたわけではないのに、ゴールデン街やキネマバーよりも、そっちの方が気になるのかと。
「もしかして芦原さん、彼女のような人が好き?」
唐突なアキラの質問に、芦原は一瞬押し黙った。
まさかアキラから男女事に関する話題を振るなんて。こういうのはアキラの苦手分野だ。客のお偉いさんに、
「碁の扱いはさすがの腕前ですが、女性の扱いはどの程度なんでしょうねェ」と、つまらない冗談を交えてからかわれたときは、見ているこっちがハラハラするくらい顔を歪ませていたというのに。
「――そうだなァ」
芦原の返事を待つアキラの瞳は、不安に揺らいでいる。碁を打っているときのような力強さはない。が、アキラの視線は逸れない。
「好きだよって言ったらどうする?」
恐れながらも果敢に挑む姿勢に、芦原も一歩踏み込んだ。途端、アキラは信じられないというように目を見開き、俯いた。
なるほど、これは思っていたより……。芦原はその反応で大方を察し、すぐに言葉を続けた。
「なーんて、アキラが思っているような感情じゃないよ。人として好きってこと」
言い切る前に、アキラが勢いよく顔を上げた。
「あ、なんだ。うん。そういうことか」
「心配した?」
「どうして?」
はぐらかされたのだろうか。いや、鈍いだけなのか?
芦原は苦笑いを浮かべ、発破をかけるようにアキラの背を力強く叩いた。
4
アルパカさんは塔矢君の兄弟子で、芦原弘幸さんという名前らしい。
やっと名前を知ることができた喜びと、私の知らない塔矢君の話を聞ける嬉しさで前のめりに話を聞いていたら、いつの間にか、塔矢君がぶすっとした顔になっていた。
ぶすっとした顔といっても、ぱっと見は至っていつもの塔矢君だから、些細な変化に気付く人は少ないだろう。
カウンター式のお店でよかった。もし芦原さんと塔矢君と対面していたら、当然、芦原さんも彼の変化に気付いたはず。そうしたら、せっかくの楽しいお酒の場が極寒の地になっていたかもしれない。
塔矢君め……! もっと場の空気を読みなさいよ!
私はカウンターの下でぎゅっと拳を握りしめた。めちゃくちゃムカつく。ムカつくけど、今ここで説教をかますと塔矢君が困ってしまう。怒りの全てを拳に送り、私はどうにか笑顔を保つ。隙を見て、ぜったい文句言ってやると心に誓って。
――そして、そのチャンスはすぐにやってきた。
お手洗いで席を外した芦原さんが完全に扉の向こうへ消えたのを確認して、私は塔矢君の真正面に立った。
「さて塔矢君。言いたいことが山ほどあるんですけど」
「待って、僕から先に言わせてほしい」
「よろしい。では塔矢君からどうぞ」
言うと、塔矢君は意外にもサッと口を開いて、
「まずは、ボクに付き合わせてごめん。ここによく来ていることが知られたら困る状況なんだ」
と言った。
「それって、つまりどういうこと?」
うちに通っているのが知られると困る状況って、全く想像がつかない。
「一から説明すると、仕事が終わった後、芦原さんに連れて行きたい所がある≠チて言われてね。芦原さんの話しぶりからキミがいるキネマバーだと想像できたんだけど、せっかくお店を紹介しようとしているのに実は、馴染みのお店です≠チて言うのも申し訳ないなって思っちゃって」
「それは、塔矢君がおかしくないかな?」
私は言った。塔矢君は意味が分からないようで、得心のいかない顔つきのまま、私の言葉を待った。
「あのね、塔矢君。逆の立場になって考えてみてよ。もし塔矢君が芦原さんにお店を紹介して、でも実は芦原さんはそこの常連さんで、後からその事実を知ったら、塔矢君は嫌な気持ちにならない?」
塔矢君は答えない。
「嘘って、どんな小さな嘘でも絶対に気付かれるよ。
だって、一度嘘をついちゃうとバレないように嘘を重ねてしまうでしょ。そうなると必ずどこかから綻びが生まれるし、たとえ相手を思いやる嘘だとしても、嘘をつかれたことに傷つかないかな」
私は子供に言い聞かせるようにして言った。
塔矢君はときどき、思いやりを履き違えることがある。相手を思いやる気持ちは素敵だし、自然にそういうことが出来るのを心から尊敬しているけど、彼は自分の価値観が当然だと思っている所があって、それは、今みたいなちょっとした事によく見られた。
「塔矢君って、他人の気持ちに鈍いんだね」
いつの日か口喧嘩になったときに、そう言ったことがある。
塔矢君は眉間に皺を寄せながら、自分が思っていることを冷静に話してくれて、そのときはじめて「塔矢君も塔矢君なりの気遣いをしていたんだな」と気付くことができた。だから今日も、彼なりに考えた結果がこうなってしまっただけで、塔矢君の選択を責めるつもりは無い。そこは分かってくれていると思う。
私は続けた。
「今からでも遅くないから、芦原さんにちゃんと話した方がいいよ。
私、芦原さんの人となりを深く知っているわけじゃないけど、こんなことで怒るような人に見えないし」
「怒ることは……ないと思うけど」
歯切れ悪く塔矢君が言った。
「ないと思うけど?」
私は首を傾げた。すると、塔矢君が観念したように溜息を吐いて、
「その、正直に白状すると、僕が一番に気にしている所は、このお店の馴染みになった理由を訊ねられたら何て答えればいいかって所で」
「社会勉強でしょ?」
「そうなんだけど、そうじゃないというか」
「じゃあなに?」
「……名字さんって、結構めんどうな性格しているよね」
塔矢君が呆れたように言った。急な悪口に、私はすかさず言い返した。
「なんで私が悪口言われているの? こんなに親身になって話聞いている上、塔矢君の嘘にも付き合ったのに」
「僕の嘘っていうのは、言い方が悪いと思う。今後のことを考えて全てが上手く行きそうな方法を選んだだけで、嘘をつくつもりはなかった」
「結果として嘘をついたんだから、どんなにカッコつけても嘘は嘘。それに、全て上手く行きそうにないからこうなっているんでしょ?
とにかく、芦原さんにはちゃんと話をして謝って下さい。馴染みになった理由はどうとでも言えるし」
「嘘はよくないと言ったのに、テキトウな理由を言えと?」
「もー! じゃあ全部正直に話せばいいじゃない! 私はただ、芦原さんに嫌な思いをさせるなって言ってるだけ!」
「だから、全て正直に話すのは不都合だと、」
「じゃあ私にどうしろって言うのよ!」
「おーい」
不意に、間延びした声が私たちを遮った。私はオイル切れのロボットのように顔を動かし、塔矢君はピシリと固まった。
「白熱している所悪いんだけど、オレも混ぜてほしいなァ」
言いながら元の席に腰を下ろした芦原さんを見て、私と塔矢君はしばし言葉を失った。
5
口論は一時休戦。塔矢君はこの状況をどう説明するべきか悩んでいるようだった。開きかけた唇を閉じ、開いて閉じ、なんだか重大な告白をするような重々しさがあって、塔矢君の緊張がこっちにまで伝染する。BGMもよくなかった。アルマゲドンの主題歌I Don't Want To Miss A Thing
壮大な宇宙と選ばれし男達たちの物語の終は、この場を囃し立てるように盛り上げた。
どこまで聞かれていたか分からないけど、もうさっさと白状しちゃえばいいのに! 私が投げやりになっているのに、芦原さんは塔矢君を急かすわけでもなく、ただただ柔らかい眼差しで彼を見守っている。ゆっくりでいいよ、待っているからね。そんな言葉が聞こえてくるようだった。
兄弟弟子だけど友達だって二人は言っていたけど、こうしていると、二人の関係は他にもあるように見えた。それは何と名付けられるのか分からない。だけど、とても優しくて暖かいものだと思った。
――昔からそうだったんだろうなぁ。
私はぼんやりとそう思って、眩しいものを見るように目を眇めた。
塔矢君が迷ったとき、芦原さんみたいな人が側にいたのだろう。見放されないことを当たり前に分かっているから、塔矢君も進むことができる。だから塔矢君は、同級生と交わることが出来なくても、自分を持つことができた。
芦原さんみたい人になりたいなぁ。囲碁は分からないけど、塔矢君の営みに何かを与えられる人になりたい。
「僕は、」
歌詞が二番目に入って、塔矢君が呟いた。私はそぉっとスピーカーの音量を下げる。
「僕は、半年ほど前からこのキネマバーに足を運んでいます。芦原さんを騙すつもりはなかったけど、言い出せずにいてごめんなさい」
塔矢君が頭を下げた。
「言い出せずにいた理由は、ここでは詳しく話せないけど、もし芦原さんが気になるなら後で全部話すから、」
「アキラ」
塔矢君の言葉を遮って、芦原さんが言った。
「何かあるんだろうなって思っていたから、その理由が知れて良かった。オレに話しづらかったのは、まァ、うん、何となく想像がつくよ」
塔矢君はおずおずと顔を上げる。
「嫌な気持ちにさせた?」
「後から知ったら拗ねていたと思うけど、アキラがこうして話してくれたし、全然気にしてないよ。珍しいもの見れたしね」
芦原さんはそう言って、パチンと片目を瞑った。
「さて、それじゃあ改めて二人のことを聞かせてもらおうかな! 今夜は帰れないぞ〜」
芦原さんは嬉々として、塔矢君の肩に腕を回した。
「僕たちのことなんて聞いても面白くないと思うけど」
「いいや、アキラがこんなにも気を許している女性は珍しいからね! えーっと、まず二人はどこで知り合ったの? アキラがここに来るときは、やっぱり一人で?」
「昼間の取材より骨が折れそう」
塔矢君は芦原さんの腕を外して、やれやれと肩を竦めた。素っ気ない素振りだけど、表情は明るい期待に彩られている。
「よかったね、塔矢君」
私が言うと、塔矢君はすっかり薄くなった黎明をぐびっと飲んだ。あ、そういえば飲み切っていなかった。思い出した私も、甘ったるいジュースのようになったハイボールを飲んだ。炭酸も抜けているし、薄くなっているし、美味しいものではないはずなのに、なんだかいつもより美味しく感じる。 作り立てのハイボールはもっと美味しいだろうなぁ。そう思っていると塔矢君が
「酔わない程度に好きなもの飲みなよ。芦原さんの質問は山ほどありそうだし、喉も乾くと思うから」
なんて言うので、私は笑って、遠慮なくウイスキーのボトルを手に持った。
おわり
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