小説
ゆりかごの歌

物心ついたときから街の孤児院で暮らしていた私を、攫って育てたのがヒソカだった。

ある時は孤児院の母のように慈しみ、ある時は歳の近い兄のように可愛がり。そしてある時は恋人のように腕の中に閉じ込めた。

攫われた当初は、見知らぬ男に怯え、与えられる優しさに戸惑い恐れていたものの、今ではこの男無しで生きて行くのは考えられない。
彼の教育は、ヒソカを頼り・依存するように仕向けられたものばかりだった。

私という人間が、彼から施しを与えられる理由を未だ分かっていないのは、天国の中にある地獄だ。
明日、突然捨てられるかもしれない。
そう考えるだけで夜は眠れない。

いっそヒソカの元を去ろうかとも考えたけど、いざそうしようとすると、胃の辺りがキュっと痛くなって、足から根っこが生えたようにその場から動けなくなるのだった。



私達は家を持たずに暮らしていた。
いかにも高級そうなホテルの、一番良い部屋を転々としていて、私は一日の大半をそこで過ごした。
ヒソカは用事がある日と無い日があって、用事がある日は、だいたい朝まで帰って来なかった。次の日の朝になっても帰らない事も多かった。

一人残された私は、ホテルの柔らかいベッドの上で、じっと耳を澄ませていた。
扉が開く音を聴き逃すまいと、目を瞑りながら待っていれば、自然と時間が経っているから。
それを何度も繰り返していれば、数えるのも飽きた頃にヒソカが帰ってくるのだった。

「やあ、良い子にしていたかい?」

今日は五回ほど数えた所で、扉が開いた。
私はベッドから飛び降りて、一目散にヒソカの元へ駆け寄る。そのまま胸に飛び込めば、ヒソカは「おっと、」なんて言いながら、逞しい腕でしっかりと受け止めた。
「僕がいなくて寂しかった?」
胸の中でおもいっきり首を縦にふる。
「うんうん、僕も寂しかったよ。あ、これお土産」
お土産、と軽く持ちあげられた箱からは、微かにチーズの香り。
ヒソカは私の身体を離すと、持っていた箱を手渡した。
「どうせ何も食べてないんだろ? それ、食べなよ」
「ありがとう」

言われてみれば水以外を口にしていなかったな。

待っている間はお腹が空かないのに、ヒソカが帰って来るとお腹が空くのは不思議。
急激に襲いかかる空腹に耐えきれず、さっそく、椅子に座りテーブルの上で箱を広げてみる。
中に入っていたのは、三つ並んだ三角形のキッシュだった。
「いただきます」
フォークを探すのも面倒だから、そのまま手に持ってかぶりついた。
チーズとホワイトソースが絡んだ濃厚なキッシュ。
キノコと鶏肉も入っていて、美味しいけどちょっと胃に重たい。
これ、全部同じ味なのかな? と、思ったら、他の二つは具材が違うようだ。
でも、どれもチーズとホワイトソースが使われているから、結局似たような味になっている。
ヒソカが買って来てくれたものだから、残さず食べるのは当たり前だけども。

私がゆっくり咀嚼しながら食べている様子を、ヒソカは向かいの椅子に座りながら眺めていた。
美味しいよ、の意を込めてニッコリ笑って見せると、彼は満足そうに目を細める。

「食べ終わったら、一緒にお風呂に入ろうか」

うん、わかった。
私は食べながら頷いた。



かなり広いバスタブにたっぷりのお湯を張って、ミルク色の固形入浴剤を一つ落とした。
じわじわ溶けだしていく入浴剤。広がっていく白。
それを見つめながら、ソファーでお風呂の準備が終わるのを待っているヒソカの事を考える。
一緒にお風呂に入ってくれるという事は、今日は恋人の日だ。

恋人の日のヒソカは、いつもより肌に触れたがる。

バスタブに入ると私を後ろから抱きしめるように包むのだろう。
それから肩に額をあて俯き、声にならない声で空気を震わせるのだ。
そして私は、彼の柔らかい髪を何度も何度も撫で続ける。

私たちの行為は、神に祈る羊達のように厳かな儀式のようだった。
儀式だと感じてしまうのは、本物のヒソカがまるで宗教画から飛び出してきたような端正な容姿だからかもしれない。

本物のヒソカは何よりも美しい。
天辺から爪先まで奇抜に着飾っても、品のある綺麗な顔立ちを隠せない。
傷一つない肌はいつも滑らかだし、無駄のない身体も素晴らしい。
長い手足はいつ見ても感嘆の溜息が漏れる。洗練された筋肉がバランス良く身体を覆い、主張するモノは力強く反り返っている。

これを芸術と呼ばずして何を芸術と呼ぶのか。


ーー入浴剤が溶け切ったのを確認して、私はヒソカの名を叫んだ。

「ヒソカ! 準備できた!」
するとすぐに「今行くよ」と声が返ってくる。
脱衣所に戻って服を脱ぎ、彼が来るのを待つ。
ジッと待つ。
ベッドの中にいるように、静かに、耳を澄ませて。

脱衣所と寝室を区切る扉の前で、ヒソカの気配が小さく揺れた気がした。
ヒソカは必ず、聞きとれないほど小さな言葉を呟いてここへ入って来るのだ。

「おかあさん」

聞きとれないほど小さな言葉を呟いて、彼は扉を開いた。
私は裸の彼の腰へ抱きつく。
「名前はせっかちだねぇ」
言いながらヒソカは、私をひょいと抱っこして、バスタブの中へ沈んでいった。


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