よくある孤独のお話し
都会から田舎の港町へ引っ越してきたばかりの名前は、目を覚ますたびに幸せな気持ちになりました。
誰よりも早く活動をはじめる船は、町のみんなが寝静まっている時間に港を離れ、おひさまと共に大漁の魚介類を積んで戻ってきます。そして朝の訪れを知らせるように、ポーッ、ポーッ! と高らかに汽笛を鳴らして、港へ錨を下ろすのです。
平日はいつも汽笛が鳴るので、名前はスマートフォンのアラームをかけることなく眠りにつくことができました。不愉快な電子音で起きていた頃よりも、スッキリと目覚めることができるので、船員さんにはとても感謝しています。
今日も汽笛に起こされて、名前はベッドの横にある小窓のカーテンを開きました。
名前の住むアパートはにょきにょきと縦に伸びていて、階段を上るのに苦労しますが、部屋の小窓から見える景色は美しく、特に晴れた日は素晴らしい景色を見ることができます。
今日はよく晴れた日でした。遠くに見える海が朝日に反射して、宝石のようにキラキラと輝いています。旋回しているカモメの姿もありました。あの下には魚が群れになって泳いでいるのでしょう。
町の人たちも次々に目を覚まし、朝の支度をはじめていました。
名前のアパートの真向かいには、針仕事で生計を立てているおばさんと漁師のおじさん夫婦と四人の子供達が住んでいます。目が覚めた子供たちは一目散に窓へ駆け寄り、まず一番上の姉が窓を開きます。名前は一番上の姉が窓の前に立つと、大きく手を振って窓を押し上げました。古い窓なので、最後まで上げきるにはそれなりの力が必要でしたが「名前おはよう! 頑張れー!」と、応援してくれるのでへっちゃらです。
「おはよう! 今日も応援ありがとう!」
そう言ってピースサインを向けると、一番上の姉は真っ白な歯を見せて笑い、末の弟を抱き上げます。
末の弟は二歳になったばかりです。まだしっかりお喋りできませんが一生懸命に話しかけてくれるので、名前はつい、だらしない顔になってしまいます。
「おあすみー」
「朝はおはようだよー!」
「はよー!」
「そう! じょうずじょうずね」
次は二番目の姉と三番目の妹です。二人は一つしか歳が変わらないので口喧嘩が絶えません。
「名前ー! おはよー!」
「あっ、お姉ちゃんズルい! あたしが先って言ったでしょ!」
「早いもの勝ちって言ったじゃない!」
「あたしの方が早かったもん!」
「わたしの方が先に起きた!」
おかしな話ですが、二人の不毛な言い争いを聞いていると名前は微笑ましい気持ちになります。ああやって言い争える相手がいることは、とても嬉しいことだと知っているからです。
「二人ともおはよう! ケンカしてるとおばさんに、」
と、言いかけた矢先、二人の後ろにおばさんの影が見えました。言い争いに夢中になっている二人は気付いていません。
「こらっ! くだらないことでケンカするのはおやめ! やかましいったらありゃしない」
怒鳴り声とともに二人の頭にゲンコツが落とされました。おばさんのゲンコツはいつも全力なので、見ているこっちまで頭が痛くなります。
二人の姉妹が頭を押さえながら部屋の奥に引っ込むと、最後におばさんが名前にむかって言いました。
「おはようさん!」
「おばさんおはよう!」
「今日も良い天気ね! 部屋にばっか引きこもってないで、散歩にでも行くんだよ!」
「はぁい」
「そうだ、散歩ついでにウチの店に寄っとくれ! この間頼まれたシャツが完成したからさ!」
「もうできたの?!」
「この道何十年とやってるんだ、スピードとクオリティーは都会の連中に負けないよ!」
「さっすがおばさん!」
「ま、それなりの金額は頂くけどねェ」
おばさんはニシシと笑って言いました。
「じゃ、後でね!」
「はーい!」
おばさんが子供たちの朝食を用意するために窓を離れると、名前もベッドから降りました。真っ先に電気ケトルのスイッチを入れて、沸騰するのを待っている間に、ドリップパックコーヒーをマグカップに引っ掛けます。
しばらくすると、ケトルから低い唸り声のような音が聞こえてきました。その音はだんだんと凄みを増して、嵐の日の荒れ狂う海のようになります。しかし嵐はすぐに過ぎ去ります。カチッとケトルのスイッチが切れると、名前はゆっくりとケトルを傾けて、コーヒーパックにお湯を注ぎました。華やかでほんのり甘さのある香りが部屋中に広がります。
コーヒーを淹れ終えると次は食事の用意です。と言っても、朝食は軽めに頂くのが毎朝のことなので、スコーンかトーストと決まっています。
今日はスコーンです。
名前はテーブル上に置いてある紙袋の中からチョコチップスコーンを取り出しました。大粒のチョコチップがゴロゴロ埋まっているのが分かります。そのまま齧りつこうと思いましたが、お行儀が悪いと叱られるのも嫌なので、ちゃんとお皿を用意しました。一人で暮らしていると叱ってくれる人はいませんが、名前の心には口うるさい男が住んでいるのです。
「いただきます」
手を合わせて、スコーンを二つに割りました。チョコの甘みを噛みしめるようにゆっくりと咀嚼していると、ふいに空気が揺れました。あ。と思った瞬間、スマートフォンがけたたましく鳴り響きました。
名前は腕を伸ばして、テーブルに置きっぱなしになっていたスマートフォンを掴みました。電話をかけてくる人物は一人しか思い浮かびません。名前の元上司であるクラピカです。
クラピカは一日のどこかで必ず電話を鳴らします。名前が前の職場であるノストラードファミリーを辞めてから、彼の日課になっています。とはいえ、夜中は控えてくれるし、夕方から21時にかけてが多く、良識的といえば良識的です。
名前は画面を伏せてカップを手のひらで包みました。どうか早く切れますように。祈る気持ちで震えるスマートフォンを見つめます。
やっと電話が切れた頃には、熱々のコーヒーは温くなり、名前の気持ちもすっかり落ち込んでいました。いっそスマートフォンの電源を落としてしまえば、幸せな気持ちのまま朝食を取ることが出来たでしょう。いえ、本来ならきっぱりと拒絶するべきなのです。
名前は残りのスコーンを口に詰め、コーヒーでむりやり流し込みました。いつもより強い苦みが喉の奥にへばりついているようでした。
*
前の仕事に不満はありませんでした。
稀に命の危険を感じましたが、名前の仕事は事務処理が中心だったので、他の組員と比べると平和だったと言えます。決して戦う力が無かったわけではありません。名前は臆病者でしたが、この世界で生き抜くだけの力は持っていました。しかし、臆病者はしょせん臆病者でしかありません。
ノストラードファミリーは円満に辞めました。受け持っていた仕事はしっかりと引継ぎをして、気になる所はマニュアルにして部下へ託しました。辞めてから数日の間は、たびたび部下から質問のメールが届いていましたが、今ではそれもありません。
ノストラードファミリーにおける名前の存在は月日と共に消え去り、名前の中のノストラードファミリーもまた、同じように消えて行くはずでした。
名前が都会から田舎へ引っ越してきた理由は、いかにも都会の人らしい理由です。豊かな自然や温かい人々に囲まれて暮らしていけば、簡単に自分の穴を埋めることができると思っていたのです。
しかし、実際は違いました。
豊かな自然や温かい人々は疲れ切った名前の心を癒すことはできても、ぽっかり空いた穴を埋めることは出来ませんでした。むしろ、のんびりと過ぎていく一日に身をゆだねていると余計なことばかり考えてしまいました。
この町が港町であるのもよくありませんでした。
燃えるような夕陽を浴びた海を眺めていると、嫌でも彼の姿を思い出します。朝の柔らかさとは違い、くっきりとした輪郭を描く光の筋は、彼の揺れる金糸に似ていました。夜が近づくにつれ濃く深く色づく夕日は、ほんの僅かなあいだ海を真っ赤に染め上げ、その、目を覆いたくなるような赤赤とした世界が、名前の目にはとても美しく、哀しく映るのです。
そうして、後ろめたさを背負って自分の部屋に戻ってきたとき、窓から見える家の灯りに、例えようのないやるせなさを覚えるのでした。
ふとしたときに、この町は名前を激しく責め立てました。
ですが優しい町の人は、新しい住民を心から歓迎していました。
アパートの前の道は海に向かってゆるやかな坂になっています。この坂は町で一番大きく賑やかな通りで、よく晴れた日には朝市が開かれます。水揚げしたばかりの新鮮な魚介類はもちろん、季節の瑞々しい野菜、素朴な見た目の手作りお菓子、衣類、日用品類、都会から仕入れた流行りものを積んだリヤカーなどが並んでいます。
身支度を整えた名前がアパートを出ると、坂道はずいぶん賑わっていました。朝市です。おばさんのお店が開くまで、まだ少し時間があったので、名前は坂道を下りはじめました。買うものは特にありませんが、見ているだけでも面白いものです。小さな町なので出歩いている人はほとんどが顔馴染みですが、中には余所から来た人の姿もあります。観光客でしょうか、二人の男の子が、貝を使った素敵なアクセサリーを並べたお店の前で立ち止まっていました。
男の子でもアクセサリーが気になるんだ。ちょっとした好奇心が名前の歩みを止めました。彼らの隣に並び、申し訳ないと思いつつも、二人の会話にこっそり耳を立てます。
「うーん。どうしようキルア」
「ミトさんならどっちでも喜んでくれるって」
「じゃあ、どっちが似合うと思う?」
「オレに聞くなよ……」
「キルア〜〜」
どうやら二人は女性への贈り物で悩んでいるようです。なるほど、そういうことか。好奇心が満たされた名前はそれとなく側を離れようとしましたが、店主のおじさんが人の良さそうな笑みを浮かべて声をかけてきました。
「名前ちゃんがこの時間に散歩だなんて珍しいねェ」
「今日はおばさんの所に行かないといけなくて。頼んでいたものが仕上がったみたいで」
「ああ、なるほどね! いっつも部屋の中にいると、朝の新鮮な空気が最高だろう!」
「そうですね。部屋にいるよりずっと気持ち良いです」
「そうだろそうだろ! せっかくこの町に越して来たんだから、もっと色んなとこを出歩いてみな! そしたらその辛気臭い顔も、自然と笑顔になるってもんさ!」
「し、辛気臭い顔……」
一体自分はどんな顔をしているんだろう。スマートフォンで自分の顔を撮ってみようかと思いましたが、さすがに、こんな所で自分を撮る勇気はありません。
「ほら、その顔だって!」
店主のおじさんがゲラゲラ笑って言いました。
「もー……人の顔見て笑わないでください」
口を尖らせると、店主のおじさんは「すまんすまん」と謝りながら、焼き菓子の入った小袋を取り出しました。
「ほら、これ持っていきな」
「わ、いいんですか?」
「それ食べながらゆっくり見て回るといいさ。ほれ、ボウズ達も持っていきな」
言いながら店主のおじさんは二人にも小袋を渡しました。
「あ、ごめんなさい。お買い物の邪魔しちゃったね」
そういえば、すっかり二人のことを忘れていました。名前が軽く頭を下げると、男の子達の大きな目がジィっと名前を見つめていました。
「えーっと、私の顔に何かついてる?」
名前が困ったようにたずねると、黒髪の男の子が言いました。
「お姉さん、最近この町に来たの?」
「うん。一か月くらい前だけど」
「そうなんだ! 住み心地はどう?」
唐突な質問でしたが、すぐに答えました。
「今まで住んだ中だと一番かな」
「そっかぁ」
黒髪の男の子はちょっとだけ寂しそうな顔をしました。けれどもすぐにニッコリ笑って「じゃあまた今度ここに来たときは、お姉さんに町案内してほしい!」と言うので、名前もつられて笑顔になって「わかった。そのときまでに町の素敵な所を沢山見つけておくね」と約束しました。
二人の名前を聞いて、名前はさらに坂を下りました。ゴンくんとキルアくん。忘れないように何度も心の中で呟きます。可愛らしい友達が二人も増えるなんて、今日はとても良い日です。あの温くて苦いコーヒーを忘れたわけではありませんが、鬱々としていた気持ちが明るい方へ向かっているのが分かりました。そして、改めてこの町へ引っ越してきたことを幸せに思うのです。
海から吹いてくる風に濃い潮の香りを感じる頃、朝市の出店はすっかり遠くにありました。このまま道なりに行けば、船が停泊している港へ着きます。この辺りは港があるだけで、特に目ぼしいものはありません。一応、小ぢんまりとした海鮮市場がありますが、海鮮市場よりも朝市の方がずっと賑わっているので、漁師さんたちは魚を積んだリヤカーを引っ張ってせっせと坂を上ります。雨の日やくもりの日は海鮮市場にも沢山の人が訪れているようですが、名前は一度も行ったことがありません。というのも、名前の食卓に上がるのはパンやスープなどの簡単な食事がもっぱらなので、魚は朝市に並んでいるものをたまに買う程度で十分だからです。
海鮮市場をのぞいてみようか。そう思いましたが、うっかり魚を買ってしまいそうな気がしたので来た道を戻りました。漁場に立つ人間はとにかく押しが強いのです。
アパートの前まで戻ってくると、向かいのおばさんのお店はすでに看板を出していました。名前はそおっと扉を押して、様子を伺うように中へ入りました。カランカラン。カウベルの澄んだ音が小さく響きます。
すぐにカウンターの奥の部屋からおばさんがやって来ました。
「いらっしゃい。散歩はどうだった?」
「可愛い男の子二人とお友達になったの。とっても良いお散歩だった」
「そりゃあ良かった。人のご縁は大切にしなきゃねぇ」
言いながらおばさんは、カウンターの中から二枚のシャツを取り出しました。
「はい、これが頼まれていたシャツ。手に持って確認しておくれ」
名前はおばさんからシャツを受け取ると、そのうちの一枚を広げました。手に馴染む肌触りの良い生地です。いつまでも触れていたくなる柔らかさがあります。仕上がりも見事なものでした。手縫いとは思えないしっかりとした丁寧な作りです。量産されているものとは質が違うと一目見て分かります。そして何より――シャツを纏うように滲み出ている、普通には見えないオーラ。練度の高い念の使い手が練るような繊細で強い力が、シャツをより上等なものに仕上げています。
「どうだい?」おばさんは得意げな笑みを浮かべました。
「……私にはもったいないくらい。凄く素敵」
惚れ惚れとした顔で名前が言うと、おばさんは目をぱちぱちとさせました。
「おや。てっきりイイ人に贈るものだと思ったんだけどねぇ。そのサイズじゃ名前には大きいだろ?」
イイ人に贈る――その言葉を聞いた瞬間、名前はひゅっと息を飲みました。ドクン、ドクン。心臓が大きく脈打ち、シャツを持つ手に力が入ります。手の中にじっとり汗をかくほどでした。
「皺になるよ」
言われて、自分がシャツを握り締めていたことに気付いた名前は、ハッとして手を緩めました。そして慌てて、
「贈る相手なんているわけないでしょ! 都会ではメンズシャツコーデが流行っているから、私も着てみたくなっただけ!」
と早口で告げました。
おばさんは、すぐに名前の嘘に気づきましたが、触れてほしくないと言わんばかりの不細工な笑顔を見せつけられると、もう何も言えませんでした。
逃げるようにアパートへ帰ってきた名前は、勢いよくベッドに飛び込みました。シャツを力いっぱい抱きしめながら、ぐっと枕に顔を埋めます。ああ、もう。もう! 逃げて来たくせに、まだ未練を残しているなんて! 名前は腕の中のシャツを窓の外に放り投げたい衝動にかられて、起き上がり、窓から身を乗り出しました。こんなもの! シャツを掴んで腕を振りかぶりましたが、向かいの窓を目にすると全身の力が抜けました。
そもそも、シャツは本当に自分で着る予定でした。都会でメンズシャツコーデが流行っているのかは分かりませんが、街中ではちらほら大きいシャツを着て歩いている子がいます。
でもシャツは二枚も必要ありません。名前の部屋のクローゼットにはそれなりの量のお洋服があります。認めたくありませんが、おばさんの言う通りでした。贈る相手、正しくは贈りたい相手≠ェ頭を過ったからです。
「クラピカ」
名前の呟きは、そよそよと吹く風に乗って消えました。
*
クラピカはときに無鉄砲でしたが、とても頭が良く、冷静に物事を進めようとする人でした。そのせいか、人に頼るのが下手で、特に緋の目に関しては全て一人で完結させようとしていました。ファミリーの仕事と自身の悲願。仕事量が多いのもそうですが、日々の緊張状態の中ではまともに眠る余裕なんてありません。唯一まとまった睡眠を得ることができたのは、彼を心配した組員が『木馬の旋律』を奏でたときくらいでしょうか。しかし『木馬の旋律』はクラピカに限らず他の組員もまた夢の中に旅立ってしまうので、めったに奏でることができません。
そこで名前は、彼にバレないようこっそり手伝いをすることにしました。むかし絵本で読んだ『小人の靴屋』のように。
しかし物語の最後は、小人の存在に気付かれてしまうもので。
名前はどうにか調べ上げた緋の目の情報を、それとなく彼の目につく場所に残しました。緋の目を所有しているであろう人物をリストや、その人物の近辺を洗った結果をまとめて書類にしたり。それらはクラピカの役に立ちましたが、当然、不審さは拭えません。
クラピカはすぐに自分の力≠使って、小人の正体を暴きました。
「こそこそと嗅ぎまわるくらいなら、私の目の届くところでやってくれ。鬱陶しくて癪に障る」
クラピカは吐き捨てるように言いました。心底うざったいと思っていたのでしょう。
なによ、そんな風に言わなくてもいいのに。面白くない気持ちはありましたが、クラピカを心配していることに変わりありません。それに、目の届く場所でなら手伝っても良いという許可は得ました。
はじめは名前の情報に目もくれなかったクラピカでしたが、いつの間にか名前と共に緋の目を追うようになっていました。名前の細やかなフォローと確かな情報は、やはり、大いに役立ったのです。
名前のおかげでクラピカの心には少しの余裕が生まれました。
『木馬の旋律』がなくとも長く眠れる日が出来たほどです。
クラピカは名前にとても感謝していました。感謝の言葉を紡ぐのは下手でしたが、名前を映す目の奥はとても優しく輝いていました。
名前はその、木漏れ日に目を眇めるような眼差しが大好きでした。
だからこそ、怖くなりました。
クラピカは緋の目を手にいれると、保管する前に物思いに耽る癖がありました。そのときのクラピカは何を言っても反応してくれません。
緋の目をぼおっと眺めているクラピカは、悲しみや怒りといった様々な色をごちゃ混ぜにした、複雑な色を浮かべていました。名前の知る言葉では名前がつけられないほどの。
クラピカの目的の一つ――奪われた仲間の眼球を全て取り戻す――を果たしたとき、彼はどうなるんだろう。私は彼に何ができるんだろう。考えるだけで胸の奥が張り裂けそうになりました。あの哀しい人を、本当の意味で助けることはできないのかもしれない。だって、クラピカを支えているのは今も昔も「復讐心」だけなんだから。
緋の目が一つまた一つと増えていくたびに、名前はどうしようもない不安にかられました。不安はやがて心を蝕む穴となり、ぬぐってもぬぐっても膿が溢れて止まりません。
もうやめよう。名前は疲れていました。何よりも、クラピカを支える覚悟を持てなかった臆病な自分に嫌気がさしていたのです。
町が橙色に色づくと、名前は夕飯を作るためにキッチンの前に立ちました。開けっ放しの窓から、どこかのお家の夕飯の香りがします。懐かしい香りでした。懐かしさの中で、名前は包丁を動かします。
今日は野菜たっぷりのクリームスープです。リズミカルな包丁の音は心地よくもあり、寂しくもありました。自分のためだけに作るご飯は気楽だけど、味気ないのはどうしてでしょう。
スープが完成すると、名前はトースターで食パンを軽く温めました。温め終わるのを待っていると、ぶるっと空気が揺れました。あ、鳴る。とっさにスマートフォンに目を向けました。しかし、いつまで経ってもスマートフォンは鳴りません。おかしなこともあるものです。電話が鳴る気配を読み取るのは名前の特技でしたのに。
真夜中、名前は目を覚ましました。夢を見たのです。楽しい夢でした。センリツ、リンセン、バショウ、よく一緒に仕事をしていた三人とクラピカもいました。名前これが夢だとすぐに気づきました。なぜならそれは、いつの日かの思い出だったからです。
名前はお水を飲むためにベッドから出ました。ベッドサイドの小さなライトの灯りを頼りに、キッチンまで歩きます。そのときでした。名前はすぐにテーブルの上のスマートフォンを掴み、それが鳴りかけた瞬間、応答ボタンを押しました。壁が薄いんだから、この時間に鳴るのは困る。そう思って、電話を切るつもりだったのに、間違えて応答ボタンを押してしまったのです。
「――もしもし、」
久しぶりに聞くクラピカの声でした。人の記憶は相手の声から忘れていくものといいますが、名前はまだしっかりと覚えていました。
「名前」
名前を呼ぶ声も名前の中のクラピカと同じです。当然です。口うるさい男は、生活の色んなところで現れているのですから。
名前は震える手でスマートフォンを耳にあてました。夢の続きを見ている気持ちで――あるいは本当に夢なのかもしれないと思いながら、どうにか口を開きました。
「こ、こんばんは」
「こんばんは、には遅い時間ですまない」
「ううん。いいの。大丈夫だから」
「まだ起きていたのか」
「目が覚めたの。いつもは寝てるよ」
「そうか。夜分とはいえ良いタイミングだったかな」
「うーん、うん。そうだね」
もしこれが日中の出来事ならボタンを押し間違えたりしません。クラピカにとっては良いタイミングでした。
「まだ起きているのか?」
「んー、どうだろ」
眠気はさめていました。クラピカのせいです。電話を切った後も、しばらく寝付けそうにありません。
「まだ起きているなら、少し付き合ってくれないか」
「ん?」
「待ち合わせ場所はそうだな、土地勘がないのでわかりやすい所がいいな。港と名前の家は近いか?」
「ま、待ってどういうこと?」
「話をしに来た。迷惑なら諦めるよ」
クラピカは自嘲めいたように言いました。
「港までなら一本道だからすぐだけど、今から走って家を出て……全速力で十分はかかるかも」
「ゆっくりでいい。待ってる」
「うん。わかった」
「気を付けて」
「……うん」
ゆっくりでいいと言われても、はやる気持ちを抑えるには思いっきり走る以外の方法が思い浮かびませんでした。夜目が利くとはいえ、町はどっぷりと暗く、ゆるやかな坂道を全速で走っていると、足がもつれしまいそうです。それでも名前は走りました。いまさら、どんな顔をして会えばいいのか分かりませんでしたが、クラピカの顔が見たいと思いました。
田舎の港町の夜はとても静かで、耳をすませば町の人の寝息が聞こえそうなほどでした。きっと今頃、良い夢を見ているのでしょう。名前はなるべく足音を消して走りました。
潮の香りが強くなると、名前は息を整えるために足を止めました。それから、ゆっくりと歩き出そうとしたとき、こちらに向かって歩く人の姿を見つけました。
「――クラピカ」
名前が小さな声で呼ぶと、クラピカはクスクスと笑いました。
「ゆっくりでいいと言ったのに」
「ゆっくり来たよ」
「足音が聞こえてきた。名前の音は分かりやすいな」
クラピカは並んで立つと、ごく自然に手を差し出しました。
「案内してくれ。名前が一番落ち着けるところに」
埠頭。小さな砂浜。坂の上にある海の見える公園。ベンチのある河川敷。思い浮かぶ場所は沢山ありましたが、一番落ち着けるのはアパートの自分の部屋でした。
クラピカの手を引いて坂を上り、何段もの階段を上がって、二人は古いアパートの居心地の良い部屋へやってきました。
「コーヒーでいいかな」
「ああ。ありがとう」
クラピカが部屋にいるのは不思議な感じがしましたが、思ったほど違和感がありません。いつも名前が座っている木製の椅子にはクラピカのスーツの上着がかけられていて、そこに座るクラピカは、執務室のふかふかのソファーに座っているときのようでした。
二人分のコーヒーを置いて、名前はクラピカの前に腰を下ろしました。そして自分でも驚くほど冷静にコーヒーを啜って、新しい名前の部屋に溶け込む男に目をやりました。
「いい部屋だな」
クラピカは言いました。
「階段がちょっと大変だけどね。家賃も安いし、景色もいいの。お気に入り」
「気に入っているなら良かった」
「凄くいいところだよ」
どこが。とは言いません。
「そうか」
クラピカは寂しそうに目を細めました。
二人の時間は緩やかに過ぎて行きました。
ぽつりぽつり交わされる言葉に確信めいたものはありませんでしたが、二人の溝を埋めるには充分でした。
透明な朝日がうっすら滲み、町は朝を迎えようとしていました。
「クラピカ、こっち来て」
名前はベッドの上からクラピカを手招きました。クラピカはやれやれと肩をすくめて「男を簡単にベッドへ上げるな」などと言いながらも、名前の側に寄ります。
「この窓から海が見えるの」
言いながら名前は窓を押し上げました。大きな音が出ないようそぉっと押し上げていたので、なかなか上がりきることができません。すると見かねたクラピカが名前の後ろに回り、ぐっと窓を押し上げました。
「ごめん、ありがとう」
「ずいぶん傷んでいるようだが」
「仕方ないよ、古いから」
名前は窓から身を乗り出しました。焦ったようにクラピカの腕がナナミの腰に回ります。
「落ちないよ」
「いきなり身を乗り出すな。心臓に悪い」
名前の頭の上でクラピカは溜息を吐きました。
「クラピカ、あっち」
名前は海を指さしました。
果てのない水平線から昇る清潔な光が、町を、二人を、包もうとしていました。ふとクラピカを見上げると、双眸は朝日を映して燦いています。
ああ、もう二度とこんな日は来ないだろうな。どうしてかそんな気がして、いつまでもいつまでもクラピカを見ていたいと思いましたが、視界がぐにゃりと歪んで見えません。
ごめんね。謝るな。元気でね。名前も。来てくれてありがとう。名前に会えて良かった。
しばらくすると、船が戻ってくるのが見えました。
港へ近づくと、いつも通りに汽笛を鳴らします。
それはまるで、切ない朝の訪れを告げるように、たわいなく響いていました。
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