小説
シンデレラは靴を脱がない

 夜の河川敷はむわぁんとした青臭さが広がっている。連日続いていた雨のせいだ。露に濡れた草花が独特の香りを醸し出している。

 名前は雨上がりの匂いが好きだ。めいっぱい吸収した太陽光を吐き出すように、土が、アスファルトが、草花が、川が、深呼吸をしているように感じる。
 自然の深呼吸の中で呼吸を繰り返していると、自分の中の錆びついた歯車がゆっくりと動き出す感覚があった。毎日を過ごしていくうちに麻痺してしまった見えない器官が、息を吹き返して脈を打つ。

 名前は、アスファルト舗装された土手の前まで来ると、徐にハイヒールを脱ぎだした。腕に提げていたハンドバックを肩にかけ、空いた手でハイヒールを持つ。
素足でアスファルトを踏みしめると、言い知れぬ解放感が名前を安心させた。踵が下ろされるたびダイレクトに響くアスファルトの固さや、足の裏をチクチク刺激する砂利は生きていることを思い出させてくれる。
 とはいえ、雨上がりの道で裸足になったのは良くなかった。
ハイヒールを脱いだ名前の身長だと、身に纏っているロングドレスの裾を引き摺ることになる。煌びやかなドレスは、まだ乾ききっていない地面から様々な汚れを吸い上げているだろう。
帰ってぬるま湯で洗わないと。でも、こういう汚れって石鹸使わないと落ちないんだっけ。
 ぺたぺたと地面の感触を楽しみながら歩く夜は、どうでもいいことばかりを考える。石鹸は液体がいいのか固形がいいのか。汚れはドレスのワンポイントに見えないか。どうせ家に帰れば全ての気力がゼロになって、ドレスは洗濯機に突っ込まれることになる。そして翌日、盛大な後悔を抱えてクリーニングに駆け込むのだ。

 名前の夜の散歩は、心と体の均衡を保つための無意識のストレス発散だ。休みの日に気のすむまで寝ていたり、一人でゆっくりお酒を飲んだりするソレと代わりない。しかし名前の場合、休みの日の大半の時間は客にあて、酒は毎晩嫌というほど飲んでいる。

 そうして、今晩。
 名前の危険シグナルを敏感に察知した身体があの道――警戒区域近くの土手を歩くように促した。

 人を相手にする仕事は、本当に疲れる。お酒が絡めばなおのこと。
 名前はいわゆる水商売の女性だ。三門市立大学を中退してから、これ一本で食べている。在学中は週に2回のアルバイトだったが、今は週に5回のレギュラー出勤だ。
 今日はいつもより客入りの悪い日だった。一般的な給料日である二十五日付近はいつもそう。待機室では客を呼ぼうと必死に営業をかける女の子の姿があった。月末締めのランキングで上位に上がるにはここが正念場でもありチャンスでもある。名前も他の女の子同様に営業をかけていたが、お得意様からの返事が中々返って来ず、早々に上がることにした。
 どうせ上から数えた方が早い順位なのだ。1位や2位を狙っているわけではないし、夜の仕事に骨を埋めるつもりもない。
 店長に無理を言って店を出た。時間が早いので送りは出せないと言われたがちょうど良かった。

 店にいる時間が短かったせいか、今日は自身の身体から酒やタバコの、名前が夜の匂い≠ニ呼んでいる匂いはしなかった。代わりに、お気に入りの甘ったるい香水の香りが、揺れる髪から香ってきた。
 雨上がりと香水の香りは、暗闇の中で奇妙にマッチしている。どちらも鼻を突く強い匂いだが、混ざり合うと懐かしい匂いがする。どの思い出の中なのかは分からない。けれども昔、今よりもずっと小さい頃、優しい人がこんな香りをさせていた。

 しばらく河川敷沿いを歩いていると、近くの街灯の灯りが、向こうからやってくる人の姿を映し出した。名前にとってはまだ早い時間とはいえ、世間的には出歩くには遅い時間だ。それも警戒区域の近くを通る人は少ない。
 名前は妙に思いながら、いずれすれ違うだろう人影を眺めていた。
 ぺた、ぺた、とのんびり歩くのと同じくらい、相手もまたゆっくり歩いているようだった。それにしても小柄な影だ。まだ少し距離があるせいだろうか。――いや、そうじゃない。歩いて来るのは、まだ幼い少年だ。
 名前は思わず足を止める。迷子か家出か。いずれにせよ、子供が出歩くには不向きな時間と場所だ。このまま無視してもいいのか、何か声をかけるべきなのか思案していると、いつの間にか近くまで来ていた少年が名前の前でピタリと止まった。

 二人はしばらく見つめ合った。お互いポカンとした顔で。
 先に口を開いたのは少年だった。

「なんで裸足?」
 少年は名前の足に目を向けて言った。
「え? ああ、足……その、裸足で歩きたい気分だったから」
「ふぅん。痛くないの?」
「ちょっと大きめの石を踏んだときは痛いけど」
「ああ、それは痛いだろうな。おれがこっちに来るまでにはなかったと思うけど、気を付けた方がいい」
「あ、うん。ありがとう」
「おう。それじゃ」

 そう言うと、少年は何事もなかったかのように行ってしまった。
 呆気にとられた名前は、暫くその場に立ち尽くしていた。頭の中では少年とのやり取りが再生されている。
 この時間に出歩いていた理由をはじめ色々と疑問は残るけど、やっぱり、たまには歩いて帰るのもいい。



「あ、遊真」
 私が呟くと、こっちに気付いた遊真が片手を上げてやってきた。
「また裸足か?」
 からかうように足元を覗く遊真に、軽く足をあげて見せる。
「違うよ。今日はちゃんと履いてる」
 遊真と会う時は大抵裸足だったけど、最近はそうじゃない。
「そうか」
 満足そうに頷いたのを見て、私は足を引っ込めた。
「遊真こそ、今日も深夜徘徊?」
「起きていてもやる事がないからな」
「眠ればいいのに」
「寝れないから仕方ない」
「まだ若いのに」
「どうもどうも」

 遊真は変な子だ。こんな時間まで出歩いているのも変だけど、会話の節々から、普通の人とはちょっとズレた何かを感じる。
 仕事柄、会話を読むのが得意だから嫌でも気づいてしまうのだ。これが仕事ならもう少し深く探ってみるけど、遊真と話すのは仕事じゃないから、特に掘り下げようと思わない。というより、そこをたずねてしまうと、こうして会うことがなくなる、そんな気がする。

 遊真とは数か月前に同じ場所で出会った。第一印象は変な子、第二印象も変な子。だけど、遊真に会えた日はちょっと嬉しくなる。
 そのせいで、送りを断って歩いて帰る日が増えたけど、日ごろの運動不足を考えると丁度いい運動だ。

「遊真、特に用事がないなら今日も家まで送ってよ」
 私が言うと、遊真は当然のように言った。
「最初からそのつもりだ」
「うわ、イケメン……」
 思わず心の声を漏らすと、遊真は言葉を重ねて首を傾げた。

「イケメン?」

 当たり前に伝わると思って投げた言葉は、意外にもキャッチしてもらえないことが多い。そういうときは、もっと分かりやすく砕けた表現で言い直すと、遊真は納得する。

「えーっと、かっこいいってことかな」

 イケメンの定義はそれぞれだけど、私の中ではそうだ。

「なるほど」
 遊真は一つ頷いた。
「名前はおれの事をそんな風に思っていたのか」
「……うん、かっこいい」

 お店に来るお客さんよりも、ずっとカッコいいと思う。年下だけど、遊真の持つ空気は本当に安心する。それはひっそりと寄り添う夜に似ている。華々しい喧噪な夜とは違う――例えるなら、遊真と出会った雨上がりの日みたいな。

「おれは名前のそういう所が可愛いと思うよ」

 不意打ちを喰らってしまった。サラッと異性を褒めることができるなんて、最近の中学生はませている。悪い気はしないけど、ドキッとしてしまった自分は良くないと思う。

「遊真、帰ろう」

 恥ずかしさを誤魔化すようにヒールを鳴らす。
 私の足取りはいつもよりゆっくりだ。本当は颯爽と歩くこともできるけど、歩き慣れていないフリをしている。
 多分、遊真はそれに気づいている。でも何も言われないから、私も何も言わずに甘えている。

「気をつけろよ」

 そう言って差し出された手に遠慮なく手を乗せると、ふわりと優しく握られて、そのまま家まで離さずにいるんだから、甘やかすのが上手なのも困るけど。


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