小説
面影に偲ばれる

!5月5日はヒカ碁の日ということで
!not夢 notカップリング

 雨上がりの青臭い匂いが、開いた窓の向こうから流れてくる。これは土の臭いとなのかアスファルトの臭いなのか、どちらもちゃんと嗅いだことがないけど、雨上がりは独特の匂いがする。
 たっぷりの日を浴びて、ふかふかになった布団は「お日様の匂いがする」と言うけれど、あれは実際の所、布団に生息していたダニが焦げ死んだ臭いだと、誰かから聞いた気がする。とても曖昧な記憶だけど多分聞いた。
 お日様の匂いはダニの臭い、雨上がりは、なんだろう。
 そんな事を考えながら、ヒカルはベッドに座って窓の外を見ていた。
 昨日とは打って変わっての快晴だが、まだ雨の名残が残っている。立ち並ぶ家々の屋根から零れる雨粒は宝石のように輝き、道路の所々には青空を写す鏡が出来ていた。素直に綺麗だなと思うくらいに綺麗な光景だが、何か物足りない。その何かを突き詰めるには、日が悪い。一度、思考の海に潜ると溺れてしまう自信があった。
 ヒカルは自身の中に浮かんだ何か≠かき消すために、再び窓の外に集中した。
 声が聞こえてしまう前に、耳を塞いでしまおうと、耳をすませながら。
耳をすませると、どこからか声が聞こえてくる。
「お母さん、鯉のぼり家に飾ろうよ」「そうね、晴れたから出しましょうか」
「あ、そっか」思わず声に出してしまう。
足りない物は鯉のぼりだ。連日続いた雨のせいで、外に出す事ができなかったのだ。

「そっか、って何が?」ヒカルの呟きを拾ったのは、幼馴染のあかりだった。
「別に、お前には関係ないだろ」
「関係ないってなによ!」
「うるせぇな、早く終わらせて帰れよ」
「ひどーい!」

あかりはヒカルの部屋で学校の課題をやっている。呼んでもないのに、勝手に部屋へ入ってきて課題を広げ始めたのだった。あかりの身勝手さは昔からの事だから、今更、何とも思わないが、今日くらいは一人にしてほしかった。しかしそれを伝えた所で「どうして?」と尋ねられたら返す言葉がない。
あかりは変わらない日常を過ごしている。ヒカルはそれが時々、無性に羨ましくなる。

もし自分があかりのように過ごしていたら、今頃どうなっていただろう。
こんなどうしようもない事を考えることなく、あかりと課題に追われていたのだろうか。

……ほら、やっぱり今日はダメだ。そんなつもりはなくても、海がそこまで迫っている。

「はぁ」と、無意識に溜息を落とすと、シャーペンを走らせていたあかりが顔を上げた。
「ねぇ、ヒカル。ヒカルって勉強得意だっけ?」
「勉強? 中学以来まともにやってねーよ」高校受験すら通っていないのだ。元々勉強が嫌いなヒカルが自主的に勉強をするはずもなく、学力は中学三年生で止まっている。

「そっかあ。それじゃあさ、好きな短歌とかある? 古文の課題、好きな短歌を十個選んで、意味と感想を書かないといけないの」
「俺が知るか。何のために参考書があるんだよ」
「それもそうね。ヒカルが知っているわけないか」
「お前ホント追い出すぞ」
「えへっ、ごめんなさい」
 
 よりによって古文の課題を自分に問いかけるなんて、空気が読めないにもほどがある。

──嫌でも思い出してしまう。
嫌でも見てしまう。耳をすませてしまう。気配を探してしまう。

『ヒカル』 

大切そうに名前を呼ぶ声に、ヒカルは目を閉じた。

「五月待つ 花橘の香かげば 昔の人の 袖の香ぞする」

 目を開くと、きょとんとした顔のあかりがこっちを見ていた。

「なんだよ」
「だってヒカル、知らないって言ったのに」
「これだけは知ってた」
「どういう意味?」
 
 五月を待って咲く橘の花の香りをかぐと、昔親しんだなつかしい人の柚の香りがする。
 中学で使っていた教科書類を捨てるときに、たまたま手にした国語の便覧を捲って見つけた短歌だった。

「俺が教えちゃ課題の意味がないだろ、自分で探せよ」
「ケチ―!」
「うるせぇ」
 
 橘の花の香りも佐為の香りも分からないけど、五月を待つ自分とどこか重なる気がした。
 
今日になれば会えるんじゃないか。
 毎年そう思って、佐為の幻影だけが見える。
 
 雨上がりの青臭い匂いが、開いた窓の向こうから流れてくる。これは土の臭いとなのかアスファルトの臭いなのか、どちらもちゃんと嗅いだことがないけど、雨上がりは独特の匂いがする。
今年の佐為は雨上がりの匂いか。ヒカルは光の中に立つ佐為の幻影を見て、すうっと息を吸い込んだ。

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