声なき歌 1
表通りを右に折れると、夜が顔を覗かせている。明かりのない路地は閉じられたシャッターが続き、人の気配はなかった。表通りの喧騒が分厚い壁で阻まれているように遠くに聞こえる。侵入を許さない神域のような静けさに、私は恐怖していた。意思と反して足が勝手に歩いていく。コツコツ、コツコツ、ローファーが地面を蹴る音が、反響して辺りに鳴り響く。
塾が終わって真っ直ぐ帰るはずだったのに、右に折れていた。
私の家は、表通りをもっと真っ直ぐ突き進んだ所にある新興住宅街にある。この通りなら中道を通って帰ることもできるのに、背を向けている。
昼間は様々なお店が立ち並ぶ、ちょっとした商店街になっている裏通りは、都市開発で大手のスーパーが隣町にできたせいで人足はかなり減ったと聞いているけど、それでも夕方頃になると主婦や学生で賑わっていた。特に賑わいを見せているのが、安い・早い・旨い! の三拍子を掲げたお肉屋さんのお惣菜。手のひらサイズのメンチカツが一つ100円という衝撃の安さ。旨味の詰まった肉汁が最高で、出来立てを求め行列ができるくらいの人気っぷりである。私も放課後に友達と並んだ事があって、その時はメンチカツの他に肉じゃがコロッケやハムカツなんかも買って食べた。
人々の生活に寄り添う通りであるはずだった。住宅と店を共にしている住まいだってあるはずなのに、立ち並ぶ建物から人の温もりは消え去っている。怖い、と思いつつも足は止まらない。はっきりと目的を持っているように、どこかへ向かって歩いている。チカチカと点いたり消えたりを繰り返している街灯が「こっちへおいで、こっちへおいで」と、私を誘う。意識が夜に吸い込まれる。終わりのない暗闇をただひたすら歩き続けているような――、
「そっちはダメ」
不意に女の人の声が飛んできた。恐怖が水を打ったように静まりかえる。制止する言葉に、足は素直に従うが周囲に人の姿はない。
「アンタじゃ迷うわよ。ここを嗅ぎつけたのは、素質があると言ってもいいけど……生身の身体じゃ、生きて帰れない」
私を心配して、というよりも嫌悪感と鋭さを含んだ声色だった。
「それとも、そっち側の人間なのかしら」
「――そっち側?」
問いかけるも返事はない。沈黙が続き、返答を諦めた私がまた歩き出すと、家々からオレンジ色の光が漏れていることに気付いた。耳をすませば、生活の音がそこかしこから聞こえてくる。テレビの音、談笑の声、ちょっと下手くそなピアノ。
私の知る、夜。
十番高校には誰もが知る有名アイドルが通っている。星野くん、大気くん、夜天くんの三人だ。毎朝ファンの女の子たちが彼らを一目見ようと正門の前に群がっていて、違う学校の制服も見受けられる。在校生は「おかげで遅刻をしなくなったわ!」とか「早起きができるようになったの!」とか思わぬ所で副産物を得ている生徒もいるようで、学校としてみれば良い傾向にあるとし、ファンの活動は特に禁止していない。何なら来年度からの入学希望が増える予想でいるらしい。スリーライツ特需だ、とニコニコしている校長の姿もしっかり確認されている。それはいいとして、こういう時被害に遭うのは私のような、さほどスリーライツに興味のないタイプの女子生徒と男子生徒だ。女子生徒がきゃーきゃー騒いでいる傍らで、白けた顔をしているのが男子生徒たちは、いっそ不憫に思えるくらい。華の青春をスリーライツに奪われたと言っても過言ではない、と私は勝手に思っている。
今朝も私が登校したときには、正門の前に女の子達が大勢いた。同じクラスの遅刻魔うさぎちゃんですらいるものだから驚いた。うさぎちゃんは私よりスリーライツに疎いと思っていたのに。彼らが転校して数か月も経たないうちにファンになったのかな? と思ったけど、亜美ちゃんと美奈子ちゃんに掴まれている腕を見て全てを理解した。目が合ったうさぎちゃんに合掌して、生徒玄関が混まないうちに教室へ。ローファーから上履きに履き替えていると、後ろから、ちょんちょんと背中を突かれた。振り返ると、そこにいたのは噂の三人で。
「よっ、名前! おはよ」
「おはようございます、苗字さん」
「おはよう、星野くん、大気くん。それと挨拶をしてくれない夜天くんも」
「うるさいな」
「わ、こわっ。朝の挨拶は人としての基本じゃん」
「そーだぞ夜天、挨拶挨拶」
星野くんに促されて、夜天くんはプイと顔を背けた。ここで素直に挨拶するタイプじゃないのは分かっていたけど、ちょっとムカつく。
「そういや、どうやって巻いたの?」
三人が玄関にいるのに、不思議なくらい静かだった。いつもなら取り巻きがギャーギャー言いながら着いてくるのに。
「ああ、今日は朝練に出てたんだ。ついでだから大気と夜天も引っ張ってきた」
つまり朝早くから校内にいたわけだ。
「おかげで朝早くから起こされたけどね」夜天くんが不機嫌を隠さずに言った。舌打ちでも飛んできそうな勢いだ。
「夜天は早起きに慣れた方がいいですよ。早朝の撮影で、あなたを起こす私の身にもなってほしい」
「アラームかけてるのに、大気が勝手に起こすんだろ」
「過去に起きて来なかった前例がいくつもありますからね」
「良い記憶力だね、さすが大気」
「おや、つい先日の事だと思っていましたが、もう忘れてしまったんですか?」
火花を散らす二人に、やれやれと肩をすくめる星野くん。ファンならここで、うっとりした視線を投げるのだろうが、私の気持ちは星野くん寄りだ。
「朝からお疲れ様、星野くん」
「爽やかな朝が台無し」
スリーライツのファンではないけど、三人とは普通の友達でいたいとは思う。向こうが私の事を友達と認識しているかは分からないけど、少なくとも私は三人のことを友達……というか、ちょっと仲の良いクラスメートくらいに思っている。星野くんも大気くんも、わりと話しかけてくれる方だと思う。下らない話題にも付き合ってくれるし、芸能人の肩書きさえなければ、私たちはそこら辺にいる普通の友達と大して変わらないはずだ。ちょっと仲の良いクラスメートと友達の境界線を引いているのは芸能人の肩書き≠セと私は感じている。自分でも上手く説明できないけど、芸能人の友達になるには、特別な人間でないといけないって、勝手に思っている。それこそが三人と私を明確に別つ理由だけど、関係に名前をつける機会があるわけでもないし、難しいことは必要な時に考えればいい。そうやって、スリーライツを意識しないように接しているのに、夜天くんは違った。未だに雲の上の存在、とかじゃなくて、単に二人と比べると距離を置かれているのが分かる。さっきみたいに、私とは直接言葉を交わそうとしないのだ。警戒心が強いのか、私が嫌いなだけなのか、いずれにせよ少し悲しい。
目の覚めるような青空に月が浮かんでいた。左半分だけを残した月。うっすらと、今にも溶けて消えてしまいそうな、不確かな月。
おじいちゃん先生が呪文のように唱える日本史の授業は、脱落者が多い。昼食後の眠気に相まって、先生の声は優しい子守唄になる。船を漕ぐクラスメート、諦めて腕を枕に旅立つクラスメート、頭が上がっている方が珍しいくらいだ。先生も、提出物さえ出してくれればOKというタイプなので、構わず授業を進めて行く。
私は話半分に、ときどき板書を取りながら窓の外を眺めていた。窓側の席じゃないけど、窓に近い席だから外を眺めるのには苦労しない。視線の先にいる、窓側特等席に座ったクラスメートは授業が始まって早々に旅立ってしまったので見やすくて丁度いい。
月を眺めていると、思い出すのはこの間の事だ。私の知らない夜が、口の端をあげて笑っていた日。
あの感覚は初めての感覚じゃない。大きな満月に魅入って、迷子の気持ちになるように、途方もない寂しさと切なさがあった。帰る家が分からない、分かっているけど帰ってはいけない。どこに辿り着くか分からない恐怖と小さな喜びは、誰しもが一度は抱いたことのある感覚だと思う。
でも、あの日は恐怖の影が濃い日だった。人が踏み入る場所ではない所に入ってしまったのだと思う。ただの迷子ならそれで良かった。活気を黙した商店街に魅せられた、夜を纏いたいだけの迷子なら、それで。
「――ここ、テストに出しますからねぇ、板書した方がいいよ〜」
テスト、に反応して私は黒板に目を向ける。赤いチョークで書かれていた箇所をしっかり記入した後に、残りの文字も書き写していく。大切だと思う所を抜粋して書いているノートだから、私のノートは友人に不評だ。頭から丁寧に分かりやすくまとめてあるのって、このクラスだと大気くんくらいじゃないかな。気になって大気くんに目を向けると、彼はまっすぐ伸びた背筋を崩すことなく、真剣に先生の話を聞いていた。星野くんは爆睡。夜天くんは……、夜天くんは、頬杖をついて窓の外を見ていた。私の席からだと夜天くんの顔は見えない。男の子にしては華奢な後ろ姿ならじっくり観察できるけど、後ろ姿よりも顔が見たい。どんな顔で外を見ているのか、それが分かれば心の内も分かるかもしれない。
ヒカ碁|セラムン|HH|小説目次