楽園
──約十年前、戦女神となった歌姫が大々的に帰還した裏で、アスラン・ザラはひっそりとプラントへ帰国した。
帰国したアスランの処遇をめぐり、議会はにわかに紛糾した。
アスランの能力は手放すには惜しいが、ザラの名がもたらす影響力は計り知れず、なんらかの手は打っておきたい。かといって脱走兵としてアスランを処断すれば、それは華々しく迎え入れた歌姫も処断するということだ。いくら市民に愛される歌姫といえど、許されざる行為をしたのは彼女も同じなのだから。
しかし、プラントはあまりに疲弊していた。
ユニウスセブンに続いて失われた六基のプラント。奪われた数百万の命。
憔悴した市民に必要なのは「希望」だった。その象徴に最たる歌姫を失うわけにはいかなかった。
結果として、ザフトへの復帰こそ認められなかったがアスランは赦免され、正式に市民権も発行された。──いくつかの、条件とともに。
「ディアッカ」
その日、イザークはザフト軍本部の通路で十年来の親友と行き合った。
「よ、イザーク」
片手を上げて陽気に応えるディアッカの軍服は、白。数年前までジュール隊でイザークの右腕を務めていた彼もいまでは『エルスマン隊長』と呼ばれ、一隊を率いる立場だ。
「これから飯なんだけど、お前も一緒にどう?」
「ああ、いいだろう。ちょうど貴様に渡したい資料があったところだしな」
と、イザークは手にしていたファイルをかざして見せた。
「貴様向きの仕事だ。早めに頼む」
うげ、とディアッカは嫌そうに顔をしかめる。
今夜はデートの予定があるのにぃ、とぼやくディアッカと続きは食事がてらにと向かった食堂に入ったとたん、わっと賑やかな声が押し寄せてきた。
「お前、愛妻弁当か!」
見れば、数人の一般兵が和気あいあいとテーブルを囲んでいる。どうやら仲間内のひとりが愛妻弁当を持参したようだ。
「羨ましいよなぁ」
「俺もお弁当作ってくれるかわいい嫁さんが欲しい」
「彼女は俺たちの花だったのに、いつの間にかお前に手折られてたとはなー」
漏れ聞こえた会話から、弁当を持参した兵士は新婚だとわかる。照れくさそうに仲間からの冷やかしを受けていた兵士は開き直ったのかのろけ始め、祝福混じりの小突きをお見舞いされていた。
イザークはかすかに目元をなごませる。
彼らのことを、昔のイザークだったら叱責したかもしれない。「貴様ら! いくら休憩中とはいえたるんでいるぞ!」……とかなんとか。だが、いまは彼らのやり取りを微笑ましく思う。
それは自分が歳を重ねて少しは丸くなったせいもあるのだろうが、世界がいま平和だからだ。……平和に、完全も恒久もないけれど。
それでもプラントは、コーディネイターは、希った平和をようやく手にしたのだ。
「そういや、お前の『愛妻』、弁当だけは作んないよな」
カウンターでランチを受け取ったディアッカが言う。
「ああ」
イザークもランチを受け取りながら遠くを見るように目を細め、フッと笑った。
「奴が仕事以外で俺より早く起きると思うか?」
「確かに」
イザークの『愛妻』はオンとオフの切り替えが激しい。仕事であれば誰よりも早く起床し、遅刻などよほどの大事でもなければしない。その反動かは不明だが、プライベートでは案外寝汚くて寝坊による遅刻もしょっちゅうだ。
「まあ、奴の寝顔が見れるからそれはそれでいいが」
「おっと、そりゃごちそうさま」
親友のさりげないのろけに、ディアッカは笑いながらランチをテーブルに置いた。
「あ、明日はとっておきのワイン用意したから」
「別に気にしなくていいんだが……」
思い出した、とディアッカが告げるが、イザークはさして興味を示さない。
まあイザークらしいけど、と口中でディアッカは呟く。
「イザークってさ、ハタチ過ぎた頃から自分の誕生日には無頓着になったよなー。『愛妻』の誕生日は全身全霊で祝うのに」
「当たり前だろうが」
そうキッパリと答えられては同意しかできない。
「ああうん、だろうな」
……本当に、イザークらしいハナシだ。クールな外見とは裏腹に、全力で一途な愛に生きる男。
「大体、四捨五入すればもう三十だぞ。いまさら誕生日を気にする歳でもないだろう」
「そりゃあ、人それぞれだけどさ。親友の誕生日くらい祝わせろよ。お前も毎年、俺の誕生日は祝ってくれるだろ」
「……では、ありがたくちょうだいしよう」
親友の心遣いに、イザークは唇の端を上げた。
「おかえり、イザーク」
玄関の扉を開けたイザークをアスランが出迎える。
イザークはマンションのエントランスで帰宅を知らせてから上がるので、手が空いていれば
「ただいま」
イザークもそう返し、エプロン姿のアスランを引き寄せて軽く口づける。いわゆる『ただいまのキス』である。アスランもキスを返してきた。
二人はもうずいぶん長く同棲している。きっかけは赦免されたばかりで行く宛てのなかったアスランをイザークが無理矢理連れ帰ったことだったが、いまやすっかり夫婦の域だ。昔はアスランに恥ずかしがられ、抵抗されていた挨拶のキスも日常的なものになった。
「お腹空いただろう? ご飯できてるぞ」
「仕事はいいのか?」
「イザークを出迎えられるだろう?」という理由で在宅の仕事を選んだアスランは、ここ数日が追い込みだと言って忙しそうにしていた。
「うん、終わった。これでしばらくは何もないと思う。久しぶりにハロでも作ろうかな」
「やめろ」
「ハロ、かわいいのに」
「口を開かず、跳び跳ねなければな」
イザークはアスランのエプロンを見下ろす。シンプルな黒のエプロンの裾には白いハロを刺繍してある。イザークの作だ。
ザフトの軍人は家事一切を仕込まれる。二人ともなんなく修得したが、ただ一つ、アスランは裁縫だけが下手だった。あれだけの手先の器用さを持っていながら、裁縫ではなぜボタン付けすらおぼつかない不器用さを発揮するのか不思議で仕方ない。
そんなアスランが元々無地だったエプロンに刺繍をするという無謀な行為に出たので、見かねたイザークが代わりにしてやったのだ。
……見てくれだけは、確かに愛らしいが。
ひるがえる裾から覗く球体の姿に、イザークはひっそりと息をついた。
「今日はキッシュか」
テーブルを見て呟いたイザークに、アスランがエプロンを外しながら頷く。
「昼間、テレビでやってるのを見たから。おいしそうだろ?」
「ああ、うまそうだ」
着替えてくると告げて、イザークは寝室に入った。閉じた扉に背を預ける。
時々、アスランはこの生活に満足しているのだろうかと思う。誰より優れていながら、その真価を発揮する場所にはいられないことに。
議会はアスランの赦免に対し、いくつかの条件を出した。
他国への出入国の禁止、通信制限と監視、軍事に関わる職業には決して就いてはならぬこと。
どこへ行くでもなくこの部屋で仕事をし、家事をこなして、イザークの帰りを待つだけの日々。
それをどんなにか歯痒く思っているのは、ほかならぬイザーク自身だ。
……俺はアスランに、安らぎを与えられているのだろうか。
翌朝、イザークは一瞬で意識を覚醒させた。それは軍人として培われたものが鋭敏に何かを察知したからだ。
瞬時に跳ね起き、枕元に隠してあった銃を手に気配を探る。が、危険なものは感じない。気のせいか──と自分を笑いかけて気づいた。ベッドにアスランがいない。
いつもならイザークが起きた傍らでかわいい寝顔を見せているのだが。昨日、あんなことを考えたせいで神経が過敏になっていたのかもしれない。
そう結論付けて銃を戻し、頭を巡らせてベッドサイドの時計を確認する。するとイザークがいつも起きるより早い時間だ。そこで違和感を覚えた。
アスランが、俺より早く起きた? 仕事でもないのに?
不審に思ってリビングを覗くと、イザークは目にした光景に瞠目した。
「わわっ、焦げる!」
そう言って慌ててフライパンを返しているのは、間違いなくアスランだった。若干焼きすぎた卵焼きを皿に盛っている。それを待って、イザークは口を開いた。
「……何をしている」
アスランは傍目にもわかるほど飛び上がって、勢いよく振り返った。
「イザーク! もう起きたのか!? って、もうこんな時間!?」
時計を見て叫ぶアスランをよそに、イザークはキッチンを眺めた。卵焼きに、ウインナー、唐揚げ、レタスが一玉……そして、弁当箱。定番すぎるが、これはどう見ても。
「貴様、弁当を作っていたのか?」
聞くと、アスランは言葉もなく顔だけを赤く染めた。ややあって、こっくりと頷く。
「……お前に……今日はイザークの誕生日だから、驚かせてやろうと思ったのに」
──素直に、イザークは驚いた。それから、嬉しさが込み上げる。
罰が悪そうに口をすぼめるアスランに歩み寄って、抱き寄せる。アスランはなんなくイザークの腕に収まった。ぎゅう、と力を込める。
「……貴様はいま、幸せか?」
「イザーク……?」
アスランが不思議そうにイザークの名を呼ぶ。顔は見えないが、笑う気配がした。
「幸せだよ」
とん、と背中を叩かれる。
「毎日お前といられて、時には喧嘩して。そんな、なんでもない日々を送れるいまが、俺はとても幸せだよ」
「……そうか」
ゆっくりと身体を離す。その翡翠を覗き込む。
「お前が幸せにしてくれた。俺に……楽園をくれたんだ」
ああ──と、イザークは息を吐いた。
それは何よりの言葉。イザークが望むもの。
「そうか……」
ひっそりと笑って、もう一度アスランを抱きしめる。
耳元で、アスランが囁いた。
「誕生日、おめでとう、イザーク。……生まれてきてくれて、ありがとう」
その日、イザーク・ジュールが持参したちょっぴり焦げた卵焼きの入ったオーソドックスな弁当は、少しだけ噂になった。
2014.8.8