背中



 空になった数本のワインボトルがごろごろと床に転がっている。
「おかっぱ〜!」
 白皙の頬をアルコールで真っ赤にしたアスランが、満面の笑顔で陽気に叫んだ。
「おかっぱ!」
 するとまたワインをあおり、グラスを掲げて叫ぶ。
「ああアスラン! お前、もうやめとけって!」
 カガリはなおもグラスをあおろうとするアスランの腕をつかみ、扉に向かって声を張り上げた。
「誰か! 水を頼む!」
 そうしてアスランに視線を戻す。
「おかっぱ〜!」
 一体何がおかしいのか、「おかっぱ」を連呼するアスランは楽しそうに声を上げて笑っている。
 お前、そんな顔、それなりに付き合いの長い私にも見せたことなかったじゃないか。
 カガリは小さくため息をついた。
 ちょっとした好奇心からワインボトルを何本も腕に抱えてアスランの部屋に突撃したのは、アスランがアスハ邸を出る、前夜のことである。
 亡命してからずっと、アスランはアスハ邸に住んでいた。二度目の大戦後、紆余曲折を経てようやくオーブに戻ってきたアスランは、カガリに邸を出ることを伝えた。私設ボディガードだった以前と違い、いまのアスランはオーブ軍に組み込まれた身だ。一軍人が、友人とはいえ国の代表と一つ屋根の下で暮らすことはできないから──と。
 もっともな理由にカガリは了承した。使用人だけの邸で、そうではない同居人を失うのは残念だったけれど。
 明日は早いんだがと渋面のアスランを丸め込んで、ワインを開けたのが一時間前。パワハラよろしく「私の酒が飲めないのか!」なんて言ったりしてグラスにワインをそそぎ、気がついたらかなりのピッチでカガリはアスランに飲ませていた。
 その結果がこれである。
「おかっぱ〜?」
 アスランは翡翠色の瞳をとろんとさせ、小さく首を傾げる。うっ、可愛い。カガリは思わずくらりとした。
 ついさきほどまでの陽気なテンションがすとんと落ち着いて薄く笑み、けれど変わらず「おかっぱ」を連呼する。
 もう眠いのかもしれない。仕方のないヤツ──酔わせたのは自分であることは棚に上げ、カガリは苦笑した。
「カガリさま、お水をお持ちいたしましたが……」
 メイドが開けられたままの扉から声をかけてきた。扉が開けられたままなのは「男の部屋で男と二人っきりで酒盛りなんて言語道断だ!」と頑としてアスランが譲らなかったからだ。
 いまさら私とコイツで、一体どんな間違いが起きるというんだろう。お前、女としての私に興味ないくせに。
「ああ、すまないな」
 水差しとコップが乗ったトレイを受け取り、メイドを下がらせた。ベッド脇のサイドテーブルにトレイを置いて、カガリはコップへ水差しを傾ける。
「ほらアスラン、水を飲んだらもう休──」
 カガリがコップを手に後ろを振り返ったとき、室内にアスランの姿はなかった。


「おかっぱ〜」
 アスランはふらふらとアスハ邸の庭を歩いていた。カガリがメイドと応対している間に窓から抜け出したのだ。
 身体がぽかぽかとほてり、ふわふわする。
 どうしてこんなに身体がぽかぽかしてふわふわするのか、自分がどこをどうして歩いているのか、アスランにはよくわからない。
 ただ心が望むものを求めてさまよっていた。ただ会いたかった。誰に──彼に。
「おかっぱ〜。おかっぱー?」
 ぼうっとする頭に、鮮明に浮かぶ姿がある。
 まっすぐに切り揃えられた美しい銀髪。ビシッと伸びた白い背中、後ろ姿。
 ──どうしたんだろう。見たいのはそんな、背中なんかじゃないのに。見たいのはもっと違うもの。
 強い意志を宿した薄氷の瞳。怒ったり睨んだりと忙しい、怜悧な面差しがふとやわらいで見せる、優しいまなざし、優しい笑顔──。
 アスランが見たいのは、思い出したいのはそれなのに。
 どうしてか、浮かぶのは彼の背中ばかりで。
「おかっぱー? ……俺が呼んでいるのに、どうしていないんだよ」
 彼の顔が見たくて、こうして彼を捜しているのに。どうしてどこにもいないんだろう。こんなに俺が会いたいのに。
「おかっぱおかっぱおかっぱ。おかっぱー?」
 暗い庭をさまよい歩き、アスランはやがて庭の端へ辿りついた。
 植えられた茂みをがさがさと掻き分けて進み、視界に映った景色に、アスランは目を見開いた。
 鼻をつく、潮の匂い。
「あ……」
 静かに響く潮騒の音。月明かりにほんのりと照らされる、漆黒の海。どこまでも続く果てない海原。
 ザリッと後ずさる。
 そう、だ。ここは。
 ほてった身体の奥から冷めていく。
 ──プラントじゃ、ない。
 アスランは茫然と、故郷にある人工のものとは似て非なる自然を眺めた。
 強く記憶に焼きついた一つの後ろ姿。それはアスランが、最後に見た彼の姿だ。
 忙しいのに再びオーブへ降りるアスランをわざわざ見送りに来てくれた彼は、頑なにずっと背中を向けたままだった。シャトルへ乗り込んでからも窓から見える彼は最後までアスランにその顔を見せてはくれず、代わりにとばかりに彼の隣で、ディアッカが手を振ってくれた。
 星が瞬く夜空を見上げる。見えそうで見えない、ふるさと。
 ──そうだ。ここはプラントじゃない。彼は、オーブにはいない。
 怒って怒って、怒鳴るだけ怒鳴って、それでも優しい彼はアスランにまたもや手を差し延べようとしてくれた。だけどアスランは、オーブを選んでしまった。二度もプラントを裏切った自分に、オーブの軍服を着てしまった自分に、清廉な彼の手を取る資格なんてなかったから。嬉しかったけれど、アスランはその手を突っぱねた。──顔を見せてくれなくて、当然だ。
「……っ」
 オーブを選んだのは、自分。だからここに彼はいない。どんなに心が望んでも、俺のそばにアイツはいないのだ。
 アスランはうなだれるように足元を見下ろした。ただでさえ暗いのに、さらに視界が潤んでますます見えない。
「おかっぱ……」
 ぽつりと、呟きが漏れた。


「アスラン……」
 途方に暮れたように立ち尽くすアスランの背中を少し離れた場所から見ていたカガリは、自分の浅はかさを恥じた。
 ちょっとした好奇心だった。
 アスランはいつも、お酒はたしなむ程度しか飲まなかった。そんな彼の酔った姿は一度も見たことがなくて。それで彼は、どんなふうに酔うのだろうと、ただそれだけの、ほんの些細な好奇心で。
 カガリがアスランと気軽に酒盛りなんてできるのもおそらく今日が最後だった。明日アスランが邸を出れば、そこには『国家元首』と『軍人』の間で隔たりの壁が築かれる。それを気にせず振る舞えた、ただの『カガリ・ユラ・アスハ』の時間は終わったのだから。
 そう言ってアスランを丸め込んで飲ませて──これだ。
 陽気に笑ってずっと「おかっぱ」を連呼していたアスラン。酔っ払いだから、と深く気にしなかったそれは、彼にとっては深い意味を持っていた。
 後を追って庭に出たカガリが見つけたアスランは、まるで迷子が親を捜すかのように庭をあちこち歩き回っては視線をさまよわせて、切ない声で「おかっぱ」と呼んでいた。そこでカガリはようやく気づいた。
 いまのアスランにとって「おかっぱ」は同義語なのだ。「イザーク」という名と。
 アスランはがさがさと茂みを掻き分けて庭の端へ抜け出て、茫然と立ち尽くした。
 眼前に広がるオーブの海を眺め、プラントの浮かぶ星の海を見上げ、足元を見下ろし、彼はぽつりと一言。
「おかっぱ……」
 それきり、アスランは動かない。うなだれたままだ。
 その背中は儚くて、ひどく寂しそうで、カガリは駆け出して抱きしめたい衝動にかられるがどうにか踏み止まる。
 ここでカガリがその寂しい背中を目一杯抱きしめてもそれは違うのだ。意味がない。アスランが求めているぬくもりはカガリのものではない。オーブにあるものでは、ない。
 軽い好奇心でアスランが抑え込んでいた寂しさを引きずり出した自分の浅はかさが恥ずかしい。
 私は、また間違えたのだろうか?
 本当は、アスランをあのときオーブ軍に組み込むべきではなかったのだろうか。あのときはあれが最善だと思ったけれど、でもそれは、『アスラン』のためには違ったのではないか。
 アスランの背中を見つめる。
 知らない場所で一人っきりの迷子のような顔。広いはずの背中は寂しさを隠せずに小さく見える。
 カガリは拳を強く握る。
「私はまだまだ……未熟だな」
 やがてその場にうずくまって眠ってしまったアスランにゆっくりと近づき、しゃがんでやわらかな藍色の髪を撫ぜる。
「お前も、やっぱり馬鹿だな」
 会いたいなら、そばにいたいなら、素直に言えばいいのに。
 誰もにあるはずの権利を、わがままとは言えないだろうに。
 オーブでもプラントでも、アスランには優しくないものが多いだろう。いっそどちらでもない、まったく違う場所で生きた方がアスランには優しいのかもしれない。でも、そんなことができるのかはわからないし、何よりアスランが望まない。
 アスランが求めるものはこの世界にたった一つなのだ。普段理性で抑えていてもそれはオーブにはない。あるのは宇宙ソラの砂時計にだけ。
 私はまた間違えたのかもしれない。けれど、間違えたなら正そう。この間違いは正せると信じたい。いや、正してみせる。弱気なんて、本来の自分には似合わないものなのだから。
 すぐには無理でも、いつかお前を帰してやろう。
 この背中を力強く抱きしめてやれる、寂しい思いなんてさせたりしないだろう、唯一の腕の持ち主のところへ。
 カガリは立ち上がって、眠りこけたアスランを運ぶため人を呼びに走った。




2012.12.3
 

 
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