せかいとあうはなし



「リヴァイ?」
 がやがやとした雑踏の中で、決して大きくはない呟きははっきりとリヴァイの耳に届いた。
 顔を上げた瞬間、視線の先に立つ男の青い瞳と目が合った。太陽の光を受けて輝く、金の髪。きりりとつりあがった太い眉を八の字にして微笑むさまを知っている。その男の名は、
「……エルヴィン」
 手にしていたスマートフォンが滑り落ちて画面がひびわれたが、そんなことを気にしてはいられなかった。目が、エルヴィンから逸らせない。アッシュグレーの瞳を何度もまばたかせて、食い入るように見つめる。
 動けなかった。それはエルヴィンも同じなようで、大柄な男が雑踏の中に佇んでいるのはさぞ邪魔だろう。幾人かが怪訝そうにエルヴィンを見ては通りすぎていく。まるで世界にふたりだけのような心地で見つめ合うふたりを現実に引き戻したのは、明るい男の、リヴァイの知らない声だった。
「スミス部長! あっちに空いてる店がありましたよ!」
 栗色の髪の若い男がエルヴィンの肩を叩く。エルヴィンがはっと視線を逸らしたので、リヴァイも硬直から解放された。
「いま、ニコールとリックが席を取っています」
「あ、ああ、そうか」
「行きましょう。俺、もうお腹ペコペコですよ!」
 そう言って男が腕を引いたので、エルヴィンは慌てたようにその場に踏みとどまった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 あ、はい、と頷く男を置いて、ずんずんとエルヴィンがリヴァイに近づいてくる。懐から名刺ケースを取り出して、一枚抜き取る。リヴァイの前に立ったエルヴィンは、ずいと名刺を差し出した。どこか頭がフリーズしていて動けないリヴァイに焦れたのか、リヴァイの手に名刺を握らせた。
「私の連絡先だ。連絡をくれ」
 それだけを言って、リヴァイの手を名残惜しそうに離したエルヴィンは踵を返した。栗色の髪の部下のもとまで戻るともう一度振り返り、大きく右腕を上げる。
「必ずだぞ! リヴァイ!」
 エルヴィンが部下と一緒に雑踏に消えていくのを、リヴァイは呆けたように見ていた。
 それからどれくらいそうしていたのか。ふとリヴァイが落としたスマートフォンが拾い上げられて、あきれた声が降ってくる。
「……なに、してるんですか」
 のろのろと声の主を見上げる。
「少し遅れそうだったから連絡したのに出ないから、何かと思ったら、どうして携帯が壊れてるんですか」
「……ミカサ」
 ようやく出たリヴァイの声は震えていた。それに気づいたミカサが、驚いたように目を丸くする。
「…………エル、ヴィン、に……」
 察しの良い少女は、それだけでリヴァイに何があったのか理解した。
「……そう、ですか」
 大事に握り込んでいた手を開いて、少しだけくしゃくしゃになった名刺が現れる。ミカサが手を出すと、リヴァイは名刺を見せてくれた。
 エルヴィン・スミス。この名が彼にとってどれだけ大事なものかを知っているのは、この場においてはリヴァイとミカサだけだ。
 一緒に書いてある会社名や役職はどうでもいい。ただエルヴィンの名前と、連絡先である携帯番号を確認するとミカサはしわを伸ばすようにしてから、名刺をリヴァイに返した。
「える、び……!」
 感極まった様子のリヴァイの肩に腕を回して、覆うように抱き寄せる。ミカサより小柄な年上の男は、抵抗もなくミカサの胸に顔をうずめた。
 抱き合う男女を好奇の目が見ていくが、リヴァイは気づいていないし、ミカサも気にしなかった。
 リヴァイとミカサには、いわゆる前世の記憶というものがある。壁に囲まれた、巨人のいる世界の記憶だ。
 ふたりは物心ついた頃から一緒にいた。施設で育ったのだ。気づけばミカサはリヴァイにくっついていて、リヴァイもなにくれとなく世話を焼いていた。記憶が戻ったときも、そばにいたのはリヴァイだった。リヴァイに対する複雑な感情も、今生で培われた兄妹のような絆の前ではあえなくほどかれていった。リヴァイもそうだったのであろう。
 それ以上に、ふたりにはお互いにしかわからないものがあった。それが『エルヴィン』と『エレン』だ。
 彼らはリヴァイとミカサにとって、なにものにもかえがたい唯一無二の存在だった。友愛とか恋愛とか、そういうのとは違う。そんな軽いものではない。言葉としてはとても言い表せない。あえて言うなら、彼らはリヴァイとミカサの『世界』そのものだった。
 その世界とリヴァイは対面したのだ。感動なんて言葉では片付けられない感動が、リヴァイの胸には溢れていた。それを正確に理解できるのが、唯一ミカサであるのだ。
「あの野郎……相変わらず馬鹿みてぇにでかくて、クソみてぇにいい男だった」
「……はい」
「俺を……覚えていやがった」
「……はい」
 わずかに鼻を啜る音が聞こえた気がした。私は優しい、ので、聞かなかったことにしてあげよう。
「……次はお前の番だな」
 ミカサはゆっくりと目を閉じた。
「今日は、フレンチが食べたいです」
「任せろ」


 ミカサが彼女の『世界』と出会うのはまた別のお話。



2015.11.4


 
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