選ぶ未来



 荷物は少ない。私物はほとんどなかった。旅に必要な装備と、数少ない私物だけを持って厩舎に向かう。
 早朝の調査兵団本部は人気がなかった。廊下にはリヴァイの靴音だけが響く。たどりついた厩舎にも、わざとらしいほどに人がいなかった。エルヴィンが手を回したのだろうか、なんて邪推する。
 装備をくくりつけた愛馬を撫でる。何度もともに壁外に繰り出し、その度に帰還した、リヴァイの戦友だ。景気づけに身体を軽く叩く。
「これからも頼むぞ」
 応えるように、黒馬はぶるると鼻を鳴らした。吐く息は白い。
 黒馬を駆って冷たい空気を裂き、静かな街中を走る。見渡す先に壁はもうない。『中』にいた巨人がいなくなると、あれだけ堅牢だった壁はあっけなく崩れ去った。そうなっても誰も騒がない。巨人はもはやいないのだから。一年前、人類は勝利した。
 リヴァイが兵団を去ることを決めたのは、一ヶ月前のことだ。巨人どもを駆逐し、人類が自ら壁を越えるようになり、人々の生活も落ち着いてきた。後身も育っている。これからは戦うことに──殺す術しか知らないような男が上にいる必要もないことを、リヴァイは一年の平和な生活の中で実感した。ならばあとはただ、自分が去るのみだ。
 エルヴィンは引き留めなかった。そうか、と頷いただけだ。彼も同じことを考えていると、リヴァイは知っていた。エルヴィンも遠からず兵団を去るだろう。もう、人類に彼らは必要ないのだから。
 自由の翼を脱ぐことに感傷を覚えなかったわけではない。リヴァイはあまりに長くここにいたので。それでも、リヴァイは行くことを選ぶ。たとえあのエンブレムを捨てても、心に背負った自由の翼まで捨てるつもりはないからだ。調査兵は進む。前に、明日に、未来に。……少しだけの心残りを抱えて。
 街の端まで駈けて、かつて壁があったそこを越えたとたん、ぶわりと身体中が総毛立った気がした。壁外に出る度、何度も感じた感覚だった。今日、リヴァイは壁を越えて、どこまでも駆けていく。生あるかぎり。それは、ひどく興奮することだった。
 馬の速度を上げようとして、リヴァイは視線の先に人影を見つけた。正確には、馬に乗った人影を。
 どくん。と、巨人に遭遇しても跳ねたことのない鼓動が跳ねた。
 馬が走る。人影との距離が縮まる。風にたなびく黒髪、少しだけ薄まった頬の傷、リヴァイを射抜く、濡れたような漆黒の瞳。リヴァイの心残りが、そこにいた。
「ミカサ……!」
 主人の叫びに、あるいは心にか、愛馬はよく応えた。減速し、ミカサの横で足を止める。手綱を握ったまま、リヴァイは茫然と少女を見た。
「……なぜ、ここに……」
 リヴァイは兵団を辞めることを誰にも言わなかった。知っていたのはエルヴィンだけ。ハンジでさえ知らないことだ。なのになぜ、エレンやアルミンとともに外に行っていたミカサがいま、リヴァイの目の前にいるのか。彼女たちが帰ってきたという話は聞いていない。当分は帰ってこないはずだった。だからこそリヴァイは、出立に今日のこの日を選んだのだから。
「……団長から早馬が来て、聞きました」
 さざなみひとつ立たぬ静かなかんばせを眺めながら、リヴァイは舌打ちしたい衝動に駆られた。あの七三野郎、余計なことを!
 ミカサに想いを寄せていることなんて、リヴァイは一生言うつもりはなかった。嫌っている、しかもこんなオッサンに好かれたところでミカサはちっとも嬉しくないだろうから。それでも離れることには寂しさを覚えた。兵団にいれば、少なくともたまに会うくらいはできる。だけど去ってしまえばもう、会うことはないだろうから。その上で去ることを決めたのは自分で、後悔もないけれど。
「……あなたを止めるつもりはありません。あなたなんて、どこにでも行ってしまえばいい。あなたの考えも、わからないではないから」
 だろうな、とリヴァイは失笑しかけた。心のどこかで何かに期待していた自分に気づきながら。
「止めるつもりはない……けど、私もついていきます」
 思考が一瞬停止する。ミカサはいま、なんと言った?
「……なんだと?」
「もう耄碌したんですか? 私も、あなたと行くと、言った」
 暴言は聞き流して、繰り返された言葉を咀嚼する。飲み込むと同時に、純粋な驚きが沸き上がった。
「……エレンと、会えなくなるぞ」
 そんなことを言いたいわけじゃないのに、斜め上のことしか言えない自分に苛立つ。なぜ、お前がついてくる。行くあても、戻るあてもない旅に。
「それは、エレンと会えなくなるのはとても、とてもとてもさびしいけれど」
 そこで初めて、ミカサの表情が揺れた。
「あなたに会えなくなるのは、もっとさびしい……」
 全身を、何かが駆け抜けた。ただ見つめ合う。
「あなたが兵団を去ることを話してくれた団長が言っていました。選ぶのは私だ、と……なら、私は選ぶ。あなたを。あなたと生きる道を」
 とん、と、左胸に手を当てて、ミカサは微笑する。
「一年前に、私はこの心臓を返してもらった。ならば今度はこの心臓をあなたに捧げよう」
 好かれていないと思っていた。最初から土台に上がるつもりもなかった愚かな自分に、ミカサは心臓を捧げてくれると言う。ああ、全身を駆け抜けたのは、歓喜だった。一瞬の震えののちに、リヴァイは訊いた。
「初恋拗らせたオッサンを侮るなよ。……二度と返してはやれねぇぞ」
「いらない。私も、自由の翼を背負った人間だ。これが私の自由、です」
 瞼を伏せて、開く。頬がゆるみそうになるのをこらえて、馬をめぐらせる。
「そうか。なら、ついてこい!」
 一馬身遅れて、ミカサも馬を走らせた。二重の馬蹄を聞きながら、リヴァイの心は高揚していた。ミカサにだけ言わせておいて自分は何も言わないなど──男が廃る!
「ミカサ!」
「はい!」
 そのいらえに、リヴァイはシンプルに三音だけを返した。
「──好きだ!」



2015.11.7


 
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