愛の血脈
「号外〜! 号外だァー!」
号外の叫びとともに、新聞が空を舞う。世界中の国に、街に、村に。それはフーシャ村にも降り注いだ。
マキノは、じいっと誰もいない酒場にいた。戦争の始まりから終わりの瞬間まで、ずっと。
「マキノさん、エースが!」
バァンと扉を破壊しそうな勢いで、村人の一人が転がり込んでくる。ハァ、ハァ、と息を切らした村人の手には、新聞がクシャクシャになって握られていた。その瞳からは止めどない涙が溢れていた。
カツン、とマキノはカウンターを出た。カツン、コツン。ゆっくりと歩み寄る。
「……ッ、エース、が……!」
もう言葉にならない様子の村人から、マキノは新聞を受け取る。そこに踊る文字に、唇を噛んだ。
──ポートガス・D・エース、死す。
覚悟は、していた、つもりだった。だって彼は海賊だから。自分は、どうしようもなく海賊に惹かれてしまうようだから。
だけど。
新聞に写る、エースの写真。不敵な笑みを浮かべた手配書の写真に、ポタポタと雫が落ちてはインクをにじませた。
だけど覚悟なんて、全然できていなかった!
「……エース……!」
何があったのかなんて、こんな新聞じゃ本当のことはわからない。ただ、エースが、二度と帰らないことだけがわかる。
そうしてマキノは、声を上げて泣いた。
「好きなんだよ」
海へ旅立っていったきり一度も帰ってこなかったエースが、ある日突然フーシャ村に帰ってきた。村長であるスラップに見つからないように、こっそりとマキノを訪ねて。だからマキノも、海を望む村の外れでエースと会った。
海での冒険や大切な仲間たちの話をするエースは生き生きと輝いていて、マキノはそんなエースを見るのが嬉しくてしょうがなかった。楽しい時間はあっという間に過ぎて、エースがそろそろ、と腰を上げた。見つかるといけないから、と一人去ろうとしたエースはしかし立ち止まって、先の台詞を、マキノに告げたのだった。
「え……?」
マキノは当然きょとんとした。エースはガシガシと頭を掻いて、あーちくしょう、と悪態をついた。
「言うつもり、なかったんだけどな。やっぱ会うとダメだな」
エースの瞳が、マキノを捉える。
「もうずっと、ガキの頃から、好きなんだよ、マキノ」
エースの手が伸びて、マキノを抱き寄せる。ぽふんと頬に触れた胸板は厚くて固くて、ああ、もうあの小さかったエースではないのだと思わせた。そう思ったら、マキノの顔は真っ赤になった。
──好きだ、と。エースが、私を。
「……あなたなら、もっと若くてかわいい子がいるわよ」
「はぐらかさねェでくれよ。こっちは一生一代の大告白のつもりなんだからさ」
はぐらかしたつもりはない。だってこっちはもういい年したおばさんで、エースはまだ二十にも満たない若者で。マキノじゃなくたって、エースなら選べるはずだ。身内の贔屓目なしに、エースはそれくらいいい男だと、マキノは思っている。
「……でも、私は、」
「マキノが赤髪に惚れてたのは知ってるよ。……ずっと見てたから」
思わぬ人の名前を出されて、マキノはびくりとした。もう十年も昔の、実らなかった──実らせなかった、淡い恋心。
「その頃からずっと、俺ァ、マキノに惚れてんだ」
ドクン、ドクン、と跳ねる鼓動が、自分のものか、エースのものか、音が重なりあって、もうわからない。エースは本気なのだと、マキノは理解する。
「エース……」
マキノが、エースの本気を感じ取ったのを察したからか、エースはマキノの身体を離した。ニカッ、と笑う。
「俺は海賊だから、マキノになんの約束もしてやれねェけどよ。知っててほしかったのかもな、俺の気持ち」
クルッときびすを返したエースの頬は、確かに紅潮していた。
「返事はいらねェ。俺にそんな資格、ねェからな。ただ、忘れないでほしいんだ。マキノはとびっきりのいい女で、俺が惚れた女だってこと」
そう言って立ち去ろうとするエースの背に、マキノは叫んでいた。
「待って! エース!」
足を止めたエースに、マキノは腰に手を当てて言い放つ。
「自分だけ言いたいこと言って、私には何も言わせないつもり? 勝手ね! 人の話は最後まで聞きなさいって、昔教えたでしょう!?」
クッ、とエースが身体をかがめた。笑っているらしかった。
「あー、ホント、マキノには一生かなう気がしねェや」
振り返ったエースの笑顔に、マキノの胸が高鳴る。……ああ、本当に、エースはもう子どもではないのだ。
「……一日、時間をちょうだい。ちゃんと考えるから」
それが、真剣に思いの丈を打ち明けてくれたエースへの誠意というものだ。
エースはまさかそんな答えが返ってくるとは思ってもいなかったようで、目を丸くしていた。それから帽子を目深にかぶって、頷く。
結果として、マキノはエースを受け入れた。
酒場でお客さんの相手をしていても、エースの顔がちらついて離れない。酒場の女主人として口説かれることもままあったけれど、こんなふうに、特定の誰かが頭から離れないなんてことはなかった。──かつてこの村に滞在していた海賊さんと、エース以外は。
それが意味することなんてひとつで。
子どもの頃から惚れていた、なんて言われて、ときめきを覚えるなというほうが無理な話だ。
「いいわ」
マキノがイエスを伝えると、エースは口をあんぐりと開けた。
「ほ、本当か? 本当に?」
そうおろおろするエースの姿は、とても白ひげ海賊団の二番隊隊長を務めるほどの男には見えなくて、マキノは声を立てて笑った。
「俺ァ、マキノを置いていくぞ。幸せになんてしてやれねェ。……俺を選んだことを後悔する日が、いつか来るかもしれねェ。それでも、」
エースは、どこか泣きそうな顔で言った。
「俺は、マキノを望んでも、いいんだろうか」
そんなエースの想いを、このときのマキノは知らなかったけれど。
「覚えておきなさい、エース。女はね、案外強いのよ」
笑って、マキノがエースを抱きしめてあげると、エースはグッと息を呑んで、マキノを掻き抱いた。
「やめてダダンさん!!」
マキノはバッと背後にガープを庇い、叫んだ。
「手の届く距離で二人を救えなかったガープさんが……!! 一番つらいに決まってるじゃない!!」
ダダンに向けて叫んだ言葉だったが、それはマキノが、自身にも言い聞かせる言葉だった。
誰も恨んではダメ。エースは、自分の生きたいように生きたのだから。
だけど次から次へとエースとの思い出が胸に溢れて、涙がこぼれる。たまらず、マキノは駆け出した。
「マキノ!」
駆けて駆けて、村の外れまで走る。そこはエースに告白された場所だった。散々泣いたのに、涙が止まらない。
エースの素性は、新聞で知った。ああだから彼はあんなに、あんなにもマキノを想ってくれながらも、触れることをためらっていたのか。
ねぇ、エース。私はあなたといられて、あなたを愛して、幸せだった。幸せだったのよ。そこに後悔なんて、ない。
うずくまって、泣いて泣いて、マキノは不意にえずいた。最初は泣きすぎたせいかと思った。けれどふと、ハッと気づく。そろそろと腹部に手を当てる。
一度だけ、エースと関係した。ずっと惚れていた、というわりにちっとも手を出してこないエースに焦れったくなって、ここはお姉さんがリードしてあげようじゃない、なんて思って。マキノだっていい年した女なのだ。好きな男に抱かれたいと思うのは当然のことだった。
エースはしっかりしていて、避妊はきちんとしたはずだった。しかし、百パーセントの避妊方法なんてない。
まさか。
マキノは天を仰いだ。
「エース……!」
あなたは私を置いていくけれど、代わりに半身を私に残していってくれたの?
「マキノ……」
かけられた声に、マキノは振り返った。そこにはガープが一人で立っていて、マキノを見ていた。
「……エースの子か」
ビクリとする。ガープが海兵であることを思い出しながら、自分たちのことを知っていたことに驚く。
「エースがマキノ、あんたに惚れとったのは村中が知っておったわい。知らんかったのはあんたくらいだ」
「そ、」
それは……どうリアクションしていいかわからない。
「どうするつもりじゃ、マキノ」
ビリビリとした、波動のようなものがガープから伝わってくる。マキノは一瞬怯んで、だがキッとガープを見据えた。
「産みます」
女はね、案外強いのよ。そう言ったわよね、エース。
「この子は鬼の子でも、悪の血を引く子でもありません。私と、エースがこの世に生きた証です! ちゃんと、私とエースに! 望まれた子です!」
マキノは立ち上がる。
「誰にも、この子は奪わせません! 海軍がこの子の血を絶つというのなら、私はどこまでだって逃げおおせてみせるわ! エースのお母さんだって、エースを産むまで頑張ったのでしょう!? 私だって、同じことをするわ!」
ハァ、ハァ、と息を切らせるマキノに、ガープはポロリ、と涙を一粒落とした。どかっとその場に座り込む。
「ほんに……女は強いのぅ……」
片手で目元を覆って呟きながら、ガープは泣き笑った。
「マキノ……わしゃあ、何も知らん。何も聞いとらん。それでええ」
「ガープさん……」
「身体をいとうんじゃぞ。ええな」
ガープはそれだけを言うと、どっこいしょと立ち上がって、去っていった。マキノはその背中に深々と頭を下げる。
「……お母さん、頑張るからね」
──やがて一年と数ヵ月を経てフーシャ村にて産声を上げた赤ん坊は、アン、と名付けられた。
2017.7.24