C.E.71.Sep.27


「──アスラン!」
 第三勢力もザフトも地球軍も関係なく、負傷者がごった返すエターナルの格納庫に、ボロボロになったストライク・ルージュがキラ、アスラン、カガリの三人を乗せて帰還した。まずキラが出て、次にアスランが操縦席から顔を出す。そこで、凛と澄んだ声がわずかに涙混じりになって、アスランの名を呼んだ。ラクスだった。
「ラクス……」
 アスランも彼女の名を呟いて、両腕を広げる。ラクスはためらうことなく、その腕の中に飛び込んだ。
 その光景を、キラはぼんやりと見ていた。
 アスランの胸に顔をうずめたラクスは、華奢な身体を震わせてアスランの背中に腕を回した。
「…………ご無事で……っ!」
 たったそれだけの言葉が、ラクスの想いを物語っている。アスランにもそれはしっかりと伝わったのだろう、ラクスを二度と離さないとばかりに、力のかぎり抱きしめていた。
 キラの知るかぎり、ラクスがアスランに対してここまで感情を揺らしたのは初めてだ。キラがオーブ近海で、アスランと本気で殺し合ったと──殺そうとしたことを告白したときも、すでに戦う覚悟をしていたラクスは平静だった。本当ならキラは、彼女に責められてもおかしくない立場であったのに、彼女はそうしなかった。
 エターナルで合流してからも、アスランもラクスも一定の距離を保っていた。アスランは一パイロットとして、ラクスは指揮官としての立場を崩さなかった。そんな二人が人目も憚らずに互いの無事を喜んでいる。愛しい人のぬくもりを確かめている。それはとてもうつくしい光景だった。
 ああ、よかったなぁ、と思った。こういう光景のために、僕らは戦っていたのだ。
 大事な友だちと、大切な同志の幸せを願って、キラはいつまでもその光景を見つめていた。──なのに。
 この日を最後に、アスランとラクスは別れた。



C.E.78.Jan.10


「クライン議長! それは本気でおっしゃっているのか!」
 ざわつく議場で、皆を代表した議員が叫んだ。議員の詰問めいた言葉に若き最高評議会議長は、はい、とかつてはその歌声で市民を魅了した涼やかな声で答えた。
「もちろん本気ですわ。もう一度言います」
 胸を張り、議員一人ひとりを見渡して、ラクス・クラインは高らかに宣言した。
「わたくし、ラクス・クラインは今年度をもって、最高評議会議長の任を退かせていただきます」
 再度の宣言に再びざわついた議場で、彼女の背後に控えているキラ・ヤマトとイザーク・ジュールだけは落ち着き払っていた。あらかじめ聞かされていたのだろう。
「もともと議長の任期は一年なのですもの。わたくしは少々、長くこの座にいすぎました。そろそろ潮時というものですわ」
 ラクスがプラント最高評議会議長の任に就いたのは四年前のことだ。本来最高評議会議長の任期は一年であり、持ち回りで選定されるものなのだ。ラクスもそのつもりでいたのを引き留めたのは、議会のほうだった。
 当時は彼女以外にいなかったのだ。疲弊したプラントの──世界の導き手となれる存在が。事実、ラクスは驚くべき早さでライフラインの充填と経済の回復を成し遂げてみせた。外交手腕も見事なもので、各国との和平条約がスムーズに進んだのもそれによるものが大きかった。そんな存在は稀有なのだ。そんな必死の想いで、議会は彼女を引き留め、またラクスも応えてくれた。
「ですが、今年度までというのはあまりに性急では──!」
「後身は育ててきたつもりですし、議員の皆さんも優秀で、何よりプラント想いの方々ばかりです。プラントも世界も、自分の足で歩むことを始めました。それを見届けた以上、わたくしはもうここにいるべきではありません。もともと、この場に立つ資格などなかった人間ですもの」
「何をおっしゃいますか!」
「わたくしはエターナルを率いた人間です」
 はっと誰かが息を呑んだ。
 ただ戦争を終わらせたい。その想いと、幸いであったのか、それができる力が、ラクスにはあった。だから自分のすべきことをした。そのために何を失うことになっても、信念だけは曲げられなかった。そう自分で決めたから。たとえ選んだのがその手に銃を取る道であったとしても。ラクスが選んだ道は、結果的には多くを救うことになった。けれど、裁かれたとしても仕方ない道でもあったのだ。
「そんなわたくしを赦し、受け入れ、贖罪の機会を与えてくださったことには感謝しています。わたくしは石を投げられても仕方のないことをしたのですから」
 一度、ラクスは負うべき責任から逃げた。オーブで、プラントに背を向けて二年もの間過ごしていた。たとえどんなに心が傷ついていても戦うことはラクスが選んだ道で、伴う責任から逃げ出してはいけなかったのに。
 それを気づかせてくれたのは、自分と同じ顔、声、そして優しい素顔を持った一人の少女だった。ラクスよりもプラントを愛していた少女。
 少女の大切ないのちを失って、ラクスはようやく自らの責任と向き合ったのだ。
「……でしたら、そうおっしゃるのでしたら、なおのこと、どうか市民のために……!」
「もう決めたことなのです。どうかご承知くださいませ」
 ラクスの毅然とした態度に、議員の誰もが悟った。決して彼女の決意が揺らがないことを。
 言葉をなくした議員たちをゆっくり見渡して、ラクスが席を立つ。キラとイザークを連れて議場を去ろうとしたラクスの背中に、涙のにじんだ声が飛んだ。
「──そうして、キラ・ヤマトと結婚でもされるおつもりか!」
 叫んだのは、今年度選出された若手の議員だった。多分、やりきれないあまりの言葉だったのだろう。
「フォルクス議員!」
 いさめるように彼の名をイザークが叫ぶ。フォルクスと呼ばれた議員は唇を噛んで、顔を逸らした。
「──いいえ」
 きっぱりと否定して、ラクスは微笑んだ。
「わたくしは誰とも結婚いたしません。キラ・ヤマトとも、……かつて婚約者であった方とも。わたくしが結婚することは、一生ないでしょう」
 世界と渡り合ってきた笑顔には有無を言わせぬ迫力があった。それでもう、誰も何も言えなくなる。
 ラクスは優雅に一礼し、議場をあとにした。


 議場から執務室までの廊下を三人は歩く。時折すれ違う文官や兵士に敬礼しながら、イザークは前を行くラクスの背中を見つめた。執務室の前まで来ると、ラクスが振り返る。
「少し、一人にしていただけますか?」
「了解いたしました」
 議長の要望に頷いたところでイザークは一瞬躊躇するように唇を開閉させ、思い切ったように言葉を発した。
「ラクス嬢、差し出がましいようだが……先ほどの言葉は……あれは、あなたの本心か?」
「イザークさま」
 イザークはラクスをクライン議長ではなく、ラクス嬢と呼んだ。だからラクスもそう応じる。そうして、どこまでも笑ってみせる。
「わたくしは、いつだって本気ですわ」
「……そうですか」
 それきり、イザークは何も言ってこなかった。ラクスは彼の引き際の良さに、またも優雅に一礼した。


「それにしても、まだラクスと僕のことをああいうふうに思ってる人がいるんだねぇ」
 ラクスが執務室に消え、イザークと二人だけになると、キラは心底驚いたように言った。ふん、とイザークが鼻を鳴らす。
「当然だろうが」
 キラ・ヤマト。彼の存在を快く思っていない者はいまだに多い。当たり前だ。キラはコーディネイターとはいえ、元は地球軍のパイロットであり、のちにはオーブ軍のパイロットでもあった男だ。結果的にプラントも救われることにはなったが、この男がザフトに拠ったことは一度もなく、おまけにアカデミーすら出ていない身がいきなり白服で最高評議会議長付きになったのだ。反感を買ったっておかしくない。しかも、だ。ラクスは基本的に人事に私情を挟まない。イザークがラクス付きなのも、彼の有能さやその他のメリットを考慮してのことだ。
 それなのに、キラ・ヤマトだけは違う。唯一ラクスが望んだ。そりゃあ、恋人か愛人かと思われたって仕方ないだろう。どれだけ年数が経っても、そういう経緯があるから色眼鏡が完全に消えることはないものだ。かくいうイザークだってキラのことが好きなわけではないし、気に食わないとも思っている。はっきり嫌いだと言わないのは、そう言う資格が自分にはないからだ。自らもまた誰かの仇であるがゆえに。
「確かにラクスのことは好きだし、大切だけど……僕とラクスはただの同志だよ。この軍服だってラクスが議長の間……一年だけ着る予定だったのに、ラクスの任期が長引いちゃってさ」
 キラは仕方なさそうに呟いて、ひとつ、ため息をこぼした。
「僕はただ、少しでもアスランがしてあげたいだろうことをしようと思ってるだけなんだけど」
 気に食わない男の口から出てきた好敵手の名に、イザークは通路の壁に背中を預けた。
「………………さっき、ラクス嬢が言ったことは、本当に、本心だと思うか」
 ラクスの、かつて婚約者であった男。いまはオーブにいる男。──アスラン・ザラ。
 キラはイザークの顔を見て、自分も反対側の壁に背中を預ける。どうだろう、と首を傾げて、でも、と眉を八の字に寄せる。
「……かも、しれないなぁ。ラクスって、こうと決めたら頑なだから」
「いままであえて聞かずにいたが、貴様は二人が別れた理由を知っているのか?」
 問われて、キラは首を左右に振った。
「詳しいことは、何も。アスランもラクスも、自分のことは黙って抱え込んじゃうタイプでしょ」
「……まぁな」
「そういうとこ、似た者同士なんだよねぇ」
キラは苦笑して、瞼を伏せた。六年前の光景を思い出す。いまもまだ、はっきりと脳裏に描き出せる二人の姿。あんなに求め合っていた二人が、それでも別れた理由。
「二人の間に何があったのか、それは知らないけど……だけど、想像はできるよ。僕はこれでも、アスランとラクスのこと、結構わかってるつもりだから。聞きたい?」
 ぎろりとイザークが睨んできたので、キラは早々に種明かしをすることにした。
「ラクスは言ってたでしょ? 自分はエターナルを率いた人間だ、って。……多分、それが、二人が別れた理由だよ」



C.E.71. Jul.1


 フリーダムの援護によりエターナルはザフトの追撃を逃れ、無事にヤキン・ドゥーエ宙域から離脱できた。遠からず新たな追っ手がかかることは承知していたが、少しでも時間を稼ぐため、航跡をカモフラージュしたエターナルはL4コロニー群を目指した。
 キラが護衛についていてくれ、バルドフェルドもいる。ここにいま、ラクスは必要ない。そう判断した彼女は艦長席を立つと、どこか茫然としているアスランの、負傷していない左腕に触れた。
「L4に着くまで、少し時間があります。医務室で、きちんとお怪我を診ていただきましょう、アスラン。ね?」
 バルドフェルドが頷いたのを見て、ラクスは戸惑いの色を浮かべるアスランを伴って艦橋を出た。
 銃弾は貫通していて、ダコスタが応急処置もしてくれていた。すでに出血も止まっており、そう重傷ではないという軍医の言葉に、ラクスはほっと安堵の息を吐いた。
 顔色が思わしくないのは、怪我のせいだけではないだろう。アスランとパトリックの間に距離があったのは知っていたが、それでもアスランにとってパトリック・ザラはただ一人の父親で、唯一の肉親だったのだ。その父親に、撃たれた、痛み。どんなにか痛いだろう。身体より、心が。
 それなのにその傷を、ラクスはさらに抉ろうとしている。けれども、それがラクスが選んだ道なのだ。
 軍医に視線をやると、軍医は何も言わずに席を外してくれた。ベッドに座ったアスランの左隣に、ラクスも座る。言葉を探して、けれど何も言えずに、ラクスはそっとアスランの肩に頬を寄せた。
「……ラクス?」
 アスランが不思議そうにラクスを呼ぶ声がした。それもそうかもしれない。こんなふうに触れ合ったことなんていままでなかった。自分たちは、まるでおままごとのような付き合い方しかしてこなかったから。
 もっと時間があると思っていた。未来があると思っていた。
「……アスラン」
 ラクスが呼んで、彼が応えてくれなかったことは一度もない。それがどんなときでも彼女が名前を呼べば、アスランは必ずラクスに応えてくれた。
 ラクスの瞳に、アスランの憔悴した顔が映る。彼の軍服を、本来の緋とは違う赤が染めた肩口とを見比べ、ラクスは口を開く。
「いまのあなたに、このことを伝えるのは酷でしょう。わたくしの言葉はあなたを傷つけます。……ですが、遅かれ早かれ、あなたも知ることです。ですから、わたくしの口から直接、あなたに伝えたいと思いますの」
 すぅ、とラクスは息を吸った。
「父が──死にました」
 ハッと、アスランが震えた。
「わたくしも、誰も、父がどんなふうに死んだのかを知りません。……ただ父の死が、誰の命令によるものなのかは、この艦にいる者すべてが知っています」
 アスランの顔がみるみるうちに強張っていく。恐怖か、絶望か、そんな色に染まっていく。
 彼の胸のうちがわからないほど浅い付き合いではない。ラクスは先手を打つように、アスランの手を握った。
「アスラン、どうかご自分を責めないでください。このことについてあなたは何ひとつ悪くないのです。父どころか、あなたはわたくしを傷つけることさえしませんでした。あなたはいつだって、わたくしを守ってくださいました。ホワイトシンフォニーでも、身を挺してわたくしを守ってくださったではありませんか」
「だが……それは……! 俺は君に銃を……、俺の父が君の……!」
 恐慌状態のアスランに、ラクスは懸命に首を振った。
「いいえ。あなたのせいではありません」
 彼が自分を責めることはわかっていた。優しく、責任感の強い彼が、父親の所業を自分のせいのように思ってしまうだろうことは。だけどそれは違うのだと、ラクスは言い募る。
 そう、アスランがラクスを傷つけたことは一度もない。──ラクスがアスランを傷つけたことはあっても。
「アスラン……あなたがとても優しく、責任感が強い方なのをわたくしは知っています。そんなあなたとだから、わたくしは家族になりたいと思いました。……思って、いました」
「ラクス……?」
「それを……どうか、お忘れにならないで……」
 絞り出すように告げて、ラクスはうつむいた。ずっと堪えていた涙がこぼれる。
 ああ、お父様、わたくしは薄情な娘です。お父様の死より、いまから彼に伝えようとしていることのほうが、わたくしを責め苛む。
「……わたくしがシーゲル・クラインの娘であるように、あなたがパトリック・ザラの息子であることは決して変わらない事実です。あなたに責があるわけではないと頭では理解していても、心はそうでない方がいらしても、不思議ではないのです……」
 ラクスは顔を上げた。
「…………お別れをしましょう、アスラン」
 自分で決めて、自分が放った言葉に、ラクスの胸は張り裂けそうだった。ラクスが傷つく資格などないのに。
「わたくしはエターナルを率いることを選びました。この果てない争いの連鎖を断ち切るために。ですからもう、わたくしは、あなたの婚約者であれたラクス・クラインではいられなくなりました。……わたくしはあなたより、世界を選んだのです」
 ラクスの言葉を、アスランがどう受け止めたのかはわからなかった。アスランはしばらくの間虚空を見つめ、考えているようだった。やがてうなだれるように顔を下ろす。固く目をつぶって、アスランは口を開いた。
「俺は……力が欲しかった。もう誰にも、俺と同じ想いをさせなくて済むように。でもそんなのは建前で……本当は、君がいるプラントを守りたかった……君を、守りたかっただけなんだ……」
「……わたくしは幸せ者ですわね。あなたに、そんなふうに想っていただけて」
 こんなふうに本音をぶつけ合ったのは、初めてだった。初めて、あなたの心に触れられたのに。
 そうして、アスランとラクスは初めて抱きしめ合った。ああ、彼はこんなふうにわたくしを抱きしめてくれるのか。
「……ひとつだけ、聞かせてほしい」
「はい」
「俺は君に……幸せを与えてあげられただろうか」
 ラクスは、唇の震えを悟られないように、はい、と頷いた。
「ええ、アスラン。あなたと過ごした時間は、いつだって幸せでした」
「……そう。なら、いいんだ」
 そこからはもう、二人の間に言葉はなく、ただただ、抱きしめ合っていた。



C.E.78.Feb.3


 南海の島国といえど、オーブにも冬は訪れる。モルゲンレーテを出たアスランは冬の夜空を見上げ、はぁ、と白い息を吐いた。
 アスランは現在、モルゲンレーテで技術者として働いている。多分に不可抗力も含まれていたとはいえ、二度に渡ってザフトから離反した身だ。おいそれと故国に戻れるはずもなく、かといってオーブ軍に居続けるつもりもなく、結局のところ、自分の得意としている分野で職を得ることになった。 
 誰もいない自宅へ帰り、明かりを点ける。パッと照らされた机の上には、作りかけのハロがあった。我ながら未練がましいな、とアスランは思う。毎年、ラクスの誕生日が近づくたび、アスランはこうしてハロを作っている。一年目は無意識だった。だけど二年目からは、かつてハロを贈るたびにラクスが見せた笑顔を思い出しながら作っていた。
 クローゼットの奥には、渡されることのなかったハロたちが眠っている。今年も作ろうとして──でももういい加減にしなければ、とまだ完成させていなかったハロに触れる。
 お別れをしましょう、とラクスから言われたとき、嫌だ、と思う心と、そうなっても仕方ない、と思う心があった。ラクスの覚悟は理解できたし、何より、ラクスに銃を向けた自分が彼女とともにあることなど許されないと思った。ラクスが別れを望むなら、アスランにできたのはただ、彼女の意に添うことだけ。それがアスランの想い方。
 そう決めたというのに、こうしてハロを作ってしまうのは、諦めが悪い証拠なのだろう。本当に、これでもう終わりにしよう、と工具を片付け始めたアスランの部屋に、インターフォンが鳴り響いた。こんな時間に来客? と訝しみながら、モニターに歩み寄る。
「……イザーク?」
 モニターの向こう、不機嫌そうに佇んでいるのは、アスランの戦友イザーク・ジュールだった。
「遅いッ! とっとと開けんか!」
 扉を開けるなり怒鳴られて、アスランはむっとした。けれど次には苦笑する。イザークも相変わらずだ。
「入れよ。コーヒーくらいしか出せないけど」
「構わん」
 コートを脱ぎながら入ってきたイザークの視線が、ふと机の上に留まる。イザークの視線の先にあるものが何かを思い出したアスランは、慌てて作りかけのハロを片した。ちら、とイザークを見るが、彼は何も言わず、さっさとテーブルカウンターに座っていた。
 コーヒーを淹れて、イザークに供する。イザークは出されたコーヒーを一口啜ると、何かを考えるように唇を引き結んだ。
 久しぶりだな。こんな夜に、いきなりどうしたんだ? お前、忙しいんだろう?
 会話の切り口はいくらでもあったが、アスランもコーヒーを啜りながら、イザークの言葉を待った。やがてイザークは、ぽつりと呟いた。
「……来月で、ラクス嬢が議長の任を降りることになった」
 びく、とアスランの肩が跳ねる。先ほどまで想っていた女性の名前に、思いの外動じた。
「もちろん、それは問題ない。プラントも、いつまでもラクス嬢一人に頼りきっているわけにはいかないからな。それはプラントのためにならん」
 うん、とアスランは頷く。
 ラクスが稀代の政治家なのはアスランも承知している。しかしだからといってラクス一人に依存しすぎていては、将来プラントは立ち行かなくなる。そろそろ潮時だろうということは、政治に向いていないアスランにもわかる。
「でも、それが?」
 いまはオーブにいる、ただの一技術者でしかない自分に、なぜ多忙なイザークがわざわざ訪ねてきたのかわからず、アスランは困惑する。
「……ラクス嬢が辞任を宣言したとき、議員の一人が言ったんだ。『そうして、キラ・ヤマトと結婚でもされるおつもりか』、とな」
 意味深に、イザークの瞳がアスランを射る。
「ラクス嬢はすぐに否定されたがな。……『誰とも結婚する気はない』、と」
 アスランは、ふたつの感情を抱いたのを自覚した。ラクスが誰かと結婚するかもしれないという焦燥と、ラクスが誰とも結婚しないという──落胆を。
「そう、か。でも、それが俺と、なんの関係があるんだ? ラクスとも、もう四年近く連絡を取っていないし──」
 最後にラクスと会ったのは、シンたちと訪れたこのオーブの慰霊碑の前。それからのラクスは議長職で忙しいだろうからとアスランは連絡を入れなかったし、ラクスから連絡が来ることもなかった。
「とぼけるな。貴様がラクス嬢をまだ想っているのはわかっている。そこの丸いのとてラクス嬢のためのものだろう」
 ずばりと言われ、アスランは口を閉ざす。すべて事実だったので、もとより口下手なアスランは返す言葉がない。
「……俺は別に、結婚がすべてと思っているわけではない。そういう生き方もあるだろうし、それを否定もしない。だがそれは、あくまでも本人が心から望んでいれば、だ」
 どきり、と鼓動が跳ねた。
「俺はまどろっこしいのは好かん。だから単刀直入に聞く。貴様も、ラクス嬢も、なぜ本心を押し殺す?」
「それは──俺が未練がましいだけで……彼女は、もう……」
「ラクス嬢は、いまもまだハロを持っている。わざわざ俺やキラ・ヤマトに頼んで、いまでもメンテナンスを欠かしていない。なぜだと思う」
「だから、それはラクスがハロを友だちだと思っているからで──」
 バン! とイザークが机を叩いた。テーブルカウンターの上のカップが一瞬宙に浮いた。
「御託はいい! 本心を話せ!」
 貴様はいつもそうだ、とイザークは言った。
「他人のことはあれこれ考えるくせに、自分のことは考えようとせん」
「そんなことは──」
 ない、と言いかけて、しかしイザークに睨まれてアスランは口をつぐんだ。
「……貴様とラクス嬢の間にどんな話があったのか、それは貴様らしか知らない。だが憶測くらいはできる。貴様のこともラクス嬢のことも知っているからな。──実にくだらん」
 ハッ、と笑われて、カチンと来た。俺が、俺たちがあのとき、どんな想いで決断したと──!
 そう言い返そうとしたアスランを、イザークは真っ向から睨んだ。
「貴様も、ラクス嬢も! なぜもっと幸せになろうとせん!」
 まっすぐに言葉をぶつけられる。
「いつまで、貴様たちは戦争を続けるつもりだ。いつまで個でなく、全として在り続けるつもりだ。……俺たちは皆、罪を背負っている。あの頃銃を手にした者たちは、皆。それでも罪を背負いながら、明日を生きている。幸せをつかもうとしている。それはいけないことか?」
「そんなことはない!」
「なら、貴様らはどうだ。過去の因縁に囚われたまま、ずっと戦争を続けるつもりか? そこから抜け出すのに何か理屈が必要なら言ってやる。貴様たちが幸せになってようやく、俺たちの戦争は終わるんだろうが」
 アスランは瞳をまたたいた。
 そんなふうに──考えたことなんてなかった。自分たち二人の存在が、親しい彼らの戦争を終わらせる鍵となるなんて。
 だって俺はアスラン・ザラで、彼女はラクス・クラインで。
 ああでも言われてしまえば、アスランはこだわり続けていたのかもしれない。縛られ続けていたのかもしれない。父の呪縛に。
「貴様はアスランだろう。いまはもう一介の技術者の。そしてラクス嬢も議長の座を降りれば、一介の民間人のラクス嬢になる。そんな二人が幸せになることになんの問題がある? 弊害がある? 名か? だったらそんなものは捨ててしまえ。それが足枷になるならな。貴様とラクス嬢を大切に思う者は皆、許してくれよう。必要なら、代わりにジュールでもエルスマンの名でもくれてやる」
 言い立てて、イザークは胸を張った。
「貴様らが幸せにならない未来など、たとえ世界が許しても、この俺が許さんぞ!」
 アスランは一瞬ぽかんとイザークを見て──笑い出した。声を上げて笑った。笑っていないと、泣きそうだったから。
「ああ……そうだな。お前はそういう奴だったよな」
「どういう意味だ」
「──ありがとう、ってことだよ、イザーク」
 俺はいい友人を持った、と思う。こんなふうに叱咤してくれる存在があることは、幸せなことだ。幸せを願ってくれる人がいる。
「でも、ジュールの名も、エルスマンの名も必要ない。俺はやっぱり、アスラン・ザラだから」
 アスランは毅然と顔を上げた。
「ただのアスラン・ザラとして、彼女に会うよ」



C.E.78.Jul.1


 久しぶりに訪れるオーブの海は、ひんやりと心地よくラクスの足を濡らした。海風に思いきりよく肩まで切ったピンクの髪がなびく。ぱしゃん、と月明かりを反映した水を跳ね上げる。
 四月に、ラクスは無事後任に最高評議会議長の座を譲り渡し、ただのラクス・クラインになった。本当ならその足でオーブに来たかったけれど、四年も議長の座にいた身ですぐには自由な行動に出られなかった。あと少しだけ、新しいプラントを見守ってほしいと懇願され、ラクスはそれを受けた。議長を降りることもまたラクスの身勝手であったし、ここで彼らの意向に添っていれば、自分のわがままも聞き入れられやすくなるのではないかと思ったからだった。
 ラクスのわがまま。それは、世界を回りたい、ということだった。新しい世界をこの目で見て回りたい。叶うなら、戦うことを選んだ代わりにやめた歌で、世界を癒していきたい。
 もちろん反対はされた。いくら民間人になるとはいえ、ラクスはそうそう簡単に一般人にはなれない。危険だって伴う。それだけの価値が『ラクス・クライン』の名にはあるのだ。そんなラクスを擁護してくれたのは、イザークだった。反対する──心配する議員たちになんと言ってくれたのかは知らない。ただこうしてオーブに来たいま、察せられるものはある。
 ラクスが官舎で過ごす最後の夜に訪ねてきてくれたイザークに、ありがとうございます、と感謝の言葉を口にすれば、イザークは言った。
「別に、礼を言われるほどのことではありません。……ただ、ひとつだけ、頼み事を聞いていただきたい」
「なんでしょう?」
「地球に降りた暁には、まず、オーブに立ち寄っていただきたい」
 どくん、と鼓動が跳ねた。
「オーブに、ですか?」
 ええ、とイザークは頷いた。
「そこに、あなたの求めているものがあるはずだと、あなたもご存知のはずだ」
 それが『誰』のことかは、言われずともわかった。ラクスの心が揺れる。ぎゅうっと胸が締めつけられた。けじめをつけたはずの過去が迫ってくる。心が、揺れて揺れて、ラクスを追い立てる。
「わた、くしは……」
 声がかすれる。別れを告げたのは自分。彼の優しさに付け込んで、彼の罪悪感に付け込んで、一方的に。そんな自分が、いまさら、言えるだろうか。夢見れるだろうか。
 ラクスの逡巡など、イザークはお見通しとばかりに言葉を重ねていく。
「ラクス嬢。俺はあなたを、友人だと思っている」
「……ええ、わたくしもですわ」
「そしてあいつとも、友人のつもりでいる。だから差し出がましかろうが余計なことだろうが、言わせていただく」
 イザークの瞳が、まっすぐにラクスを捉えた。
「もう──自由になっていただきたい。すべての因縁、すべての枷から。そして幸せになってほしい」
 そうして、イザークは小さく微笑った。
「それが、友人としての願いです」
 そう言われることは嬉しい。そんなふうに自分を思いやってくれる人がいることは幸運なことだ。けれどそう簡単にはいと頷けるほど、あの日の決意は生半可なもののつもりではなかった。なおも逡巡するラクスに、イザークは、さらに言葉を重ねた。
「あいつはいまでも、ハロを作っている。あなたが、いまなおハロを大事にしているように」
 ハッと、ラクスの瞳が揺れた。──いつか手放さなければと思いながら、手放せずにいた、まぁるいピンク色のペットロボット。二人の、思い出の品。大事なおともだち。
「それがどういう意味かわからないほど、あなたは愚かではないはずだ」
 イザークに背中を押され、ラクスはハロを抱きしめて、オーブに降り立った。もとより、最初に降りる地はオーブだと決めていた。友人の国であるし、ラクスにも馴染みのある土地であったから。
 宿泊先は、カガリが快く別荘を貸してくれた。着いた頃にはもう日が暮れていて、ラクスは久方ぶりに見る本物の海に向かっていた。パンプスを脱ぎ捨て、まだ少し冷たい海に足を浸した。
 見上げた空には満天の星空があって、いまにも星が降ってきそうだった。あの星々の中にプラントもあるのだ。
「ラクス」
 ざざん、と潮騒に紛れて、懐かしい声がラクスを包んだ。振り返ると、四年前より精悍な顔つきになったアスランがそこにいた。紙袋を提げた彼は、凪いだ笑みを浮かべていた。ああ、何年経っても、彼は素敵だ。
「髪、切ったんだな」
 言われて、ラクスは短くなった自分の髪を指先で遊ばせる。プラント出発時に、見送りに来た人々は皆、ラクスの思いきりの良さにあんぐりと口を開けていた。そんなに変だったのだろうか。
「ええ、心機一転に、と思いまして。……やっぱり、変でしょうか?」
「いや、そんなことはないさ。新鮮だし、似合っているよ」
 そう言ったアスランの笑顔に、ラクスの胸が高鳴る。なぁ、ラクス、とアスランは話しかけてくる。
「今日がなんの日か、君は覚えているか?」
「……ええ」
 忘れるはずがなかった。あの胸が張り裂けんばかりの想いを。
「今日は七年前、俺たちが別れを決めた日だ」
「そうでしたわね」
 ガサガサと紙袋をあさって、アスランがハロを一体取り出す。起動させると、ハロはラクスの名を呼びながら砂浜を飛び跳ねた。
「俺はアスラン・ザラで、君はラクス・クラインで……それは確かに、変わらない事実だけれど」
 それはかつて、ラクスがアスランに言った言葉。
「……だけど、ただのアスラン・ザラとラクス・クラインとしてなら、なんとかなるんじゃないだろうか? 二人で、一緒にいれば」
 言いながら、アスランは一体一体、紙袋から色とりどりのハロを取り出していく。ハロは「ラクスー」と飛び跳ね、ころころと砂浜を転がった。
 ぱしゃんとためらいもなく音を立ててアスランも海に入って、ラクスの真正面に立った。翡翠色の瞳が、ラクスを映す。
 アスランが最後に取り出したのは、パープルのハロだった。それを大事そうに両手で抱えて、ラクスに差し出す。
「──……!」
 覚えて、いてくれたの。もう十年近く前の戯言を。
「…………わたくしたちの子は、むらさきの、」
「婚約の証はまたの機会にと、言っていただろう? ずっと考えていたんだ。そのとき君に渡すなら、この色のハロにしようって」
 手を差し伸べて、ハロを受け取る。ぽろぽろと、頬を涙が伝った。
「……アスラン。……わたくしを、許して、くださいますか」
「……許しを乞うのは、俺のほうだよ。長い間、君を一人にした」
「いいえ、……いいえ……!」
 アスランはその指先で、ラクスの涙をぬぐった。何度も何度も、優しく。
「俺に、君を守らせてほしい。一緒に、世界を回ろう」
 アスランの言葉に、ラクスはイザークがどう議員たちを説得したのか、確信を得た。確かに、アスラン・ザラほど頼もしい護衛はいないだろう。
「……お仕事のほうは、よろしいのですか」
 アスランが現在の職を気に入っていることは、カガリから聞いていた。それを捨ててアスランは、ラクスのわがままに付き合ってくれるというのか。
「言っただろう? 君を守らせてほしいって」
 アスランは笑って、ラクスの頬に残る涙をぬぐった。
「ラクス、もう一度、始めないか」
 ラクスの涙に濡れた指先がひるがえり、手のひらがこちらを向く。
「まずは手を繋ぐところから」
 手を繋ぐところから、というのが実に彼らしくて、自分たちらしくて、ラクスは笑った。
「──はい、アスラン」
 満天の星空の下、二人は手を繋ぐ。七年ぶりに繋いだ手は、あたたかかった。
 海の静寂に、ハロの合唱と、澄んだ歌声が響き渡る。


 しずかなこのよるに あなたをまってるの

 ほしのふるばしょで



2017.7.11

 
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