私が愛したのは、一途に幼馴染みを想う、決して振り向いてはくれない人だった。そんな私に「愛している」と告げたのは、姉が愛した人だった。
 かつての私にとって、姉は世界のすべてだった。姉がいてくれたおかげで私はあの組織の中で、黒に染まりながらも、ギリギリのラインであちら側に落ちずに済んだのだろう。
 その姉が心から愛した人。姉を利用していた人。姉が殺される遠因を作った人。そして姉を──心から愛していた人。
 組織が壊滅し、組織の中枢に見事に食い込んだ銀の弾丸を本来の姿に戻し、彼を待つ幼馴染みのもとへ送り出したあと、姉の恋人だった男は言ったのだ。私を愛している、と。
 まるでメロドラマのようだった。道化のようですらある。だが、男が同情や冗談でこんなことを言えるほど器用ではないことも、私は知っていた。
 きっと様々な葛藤が男の中にはあって、それらをきっちり整理した上で、真摯に私に告げただろうことはわかっていた。それくらいはわかるくらいに、私と男は、間に姉を挟む必要があるほど他人ではなくなっていたから。
 男に対して返した答えが、私の本心だったのか、意趣返しのようなものだったのか、それはもう自分でもわからないけれど。

「すべてを捨てて、私と逃げてくれるのなら、あなたの言葉を信じてもいいわ」

 私の言葉に、男は一瞬たりとも迷うことなく、是、と答えた。


トランクひとつ、君と二人


 時計を見る。日本ではそろそろ空が茜色になってもいい頃だが、この英国ではまだ真昼のように明るい。日本より緯度の高い英国の夏は日没が遅く、午後七時程度で日は暮れない。
 閑散とした駅のホームで、哀は煙草の煙を燻らせている男に歩み寄った。
「電車、来ないわね」
「英国だからな」
 英国は時間にとてもルーズだ。時刻表通りに列車が到着することなどあまりない。現に二人は、すでに一時間もとうに来ていていいはずの列車を待っていた。
 風に流れる紫煙を見ながら、哀は赤井の横に立った。きゅっと彼のジャケットの裾をつかむ。
 ホームは閑散としているが、人がいないわけではない。おそらく地元の人間だろう彼らに、自分たちはどう見えているのだろう。
 哀も赤井も、半分ずつだが英国の血を引いている。赤井はいまでこそ米国籍だが、元は英国人だったのだ。けれど二人とも顔立ちは東洋系だから、なおさら浮いていると思う。観光客がいないわけではないだろうが、観光客にしては、哀と赤井の荷物は少なかった。何せ、トランクがひとつだけ、だ。

 ──すべてを捨てて、私と逃げてくれるのなら、あなたの言葉を信じてもいいわ

 哀が出した条件に、赤井は即答した。
「わかった」
 言い出しておいてなんだが、哀は驚いた。
「あなた、意味、わかってるの? 私と逃げるってことは、FBIも、家族も捨てるってことなのよ」
「FBIに入った目的は達せられたし、元々家族不孝な男だ。まぁ、真純は泣かせるだろうし、母さんも怒らせるだろうが、すべてを捨てることで君が俺の言葉を信じてくれるなら、そこに未練はない」
 さらりと赤井は言ってのけ、逆に哀に聞いてきたほどだった。
「君はそれでいいのか? ボウヤや少年探偵団や、阿笠博士は」
「……江戸川コナンはもういないもの。なら、もう灰原哀も必要ないわ。江戸川コナンも灰原哀も、本来は存在しなかったはずの存在だから。最初はさみしい思いをさせるでしょうけど、あの子たちは元の日常に戻る頃でしょう。もう危険なことをさせないためにも。……博士に恩返しできないのは心残りだけれど、私の選んだことなら、きっと博士は送り出してくれるわ。そういう人だって知ってる」
 見上げた男の瞳はグリーンで、哀と同じ色をしていた。ああ、ちょっとしたところに彼との繋がりを感じる。
「……私は、少なくともいまはまだ、宮野志保に戻るつもりはないの。場合によっては、あなた、犯罪者と疑われるかもしれないわよ。いいの?」
「覚悟しよう」
 ……本当に、寸分の迷いもない。
「そう。──だったら、宮野志保も灰原哀も、赤井秀一も諸星大も、そんな人たちのことなんて誰も知らないところへ、私と一緒に、逃げてくれる?」
「──仰せのままに」
 そうして、二人の逃避行が始まった。
 一旦米国に帰国した赤井は、FBIを辞めると同時にアパートも引き払い、全財産をFBIの管轄外に移し、哀を迎えに日本に戻ってきた。哀は阿笠と少年探偵団と、工藤新一に置き手紙を残し、本当に大切なものだけを持ち出して、赤井と日本を離れた。
 いくつかの国を転々とし、すぐには足がつかないようにして、この英国に降り立った。自分の、母のルーツを辿ってみたかったからだ。それも終わって、二人は次を目指して列車を待っていたのである。
 まだまだ来そうにない列車にため息をついたとき、哀は赤井に抱え上げられた。
「……煙草くさいわ。あなた、禁煙したらどう?」
「君がキスしてくれるなら、考えてもいいな」
 哀はつかの間押し黙り、赤井秀一にデコピンをかました。意表を突かれたらしい赤井がきょとんとして、普段ポーカーフェイスな彼の間の抜けた表情がなんだかかわいらしくて、哀は吹き出した。
 煙草くさいなんて、嘘。煙草の香りと、おそらく赤井の体臭とが入り交じった匂いは、どことなく哀を落ち着かせた。
 だから哀は彼のジャケットから煙草を抜き取りながら、リップ音を立てて赤井の唇に口付けた。
「私を愛してくれているなら、煙草は控えめにして、長生きしてくれなくちゃ。ね、パパ?」



2017.1.31

 
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