友よ、



「今度、東都水族館に行かねぇか」
 コナンがそう言ったのは、彼ら──少年探偵団が高校生になった年のことだった。
 小学一年生で出会ったときから、五人はずっと一緒だった。成長するにつれ、部活だったり塾だったり、幼い頃のようにいつもとまではいかなかったが、それでも予定が合えば阿笠邸に集まったり、サッカーの試合を見に行ったり、キャンプに行ったり、かけがえのない時間を過ごしてきた。
 だから、五人で遊びに行くのはめずらしいことではない。けれど、コナンから誘いをかけるのはとてもめずらしいことだった。
 最初は驚いた様子を見せた三人も、しかしすぐに破顔して頷いた。次の日曜日に。そう約束をして、五人は別れた。
 浮き足だって帰っていく仲間たちを見送ったコナンと哀も、並んで帰路につく。コナンは現在は工藤邸で暮らしているので、哀と帰るところはほとんど同じなのだ。
 ──黒の組織を壊滅させてから、もうすぐ十年が過ぎようとしている。コナンは、工藤新一には戻れなかった。いや、戻らなかった。
 ARTX4869の解毒薬は完成した。灰原哀は約束したとおり、責任を持って薬を完成させた。それを飲まないと決めたのはコナンだ。工藤新一の人生に未練がなかったわけではない、幼なじみを泣かせたかったわけでもない。だが、江戸川コナンが得たものは大きかった。それらはすべて工藤新一のものではなく、江戸川コナンのものだったから。
 それに何より、小さな仲間たちと離れる、ことができなかった。隣に並び立つ相棒を失うことも。
 西に傾いた太陽が、二人の足元に長く伸びる影を落とす。自分の影法師を見つめながら、哀がささやくように口を開いた。
「話すつもりなのね。あの子たちに、……真実を」
 コナンと、哀だけが知っている、偶然知る立場にいた、真実。
 ああ、とコナンは頷く。あれから十年だ、と呟いて。
「あいつらももう、何も知らない子どもじゃない。あいつらには、真実を知る権利がある。あいつらだから……知っていてもらいたいと、思う」
 哀はコナンの顔を見て、それから、そうね、とだけ答えた。


 迎えた日曜日は、澄んだ青空だった。その空色を映した海に囲まれたテーマパーク。
 ここのメインはあくまでも水族館だが、やはりまず目を引くのは巨大な観覧車だろう。過去に散々な目に遭わされたことのある東都水族館だが、それで諦めるような鈴木財閥スポンサーではない。まったくたくましい。
 そうして見事に再建された観覧車。それはコナンに苦く、切ない記憶を思い出させる。
 行き交う人々、弾ける笑顔。年頃らしくめいっぱいおしゃれをした少年探偵団と、コナンは入場ゲートに向かった。
 まずは水族館を楽しんだ。水槽の中を素早く泳ぐサメに、かつてここで幼なじみと遭遇した事件を思い出す。はしゃいで前を行く三人を見ながら、隣を歩く哀に話せば、でしょうね、とため息をつかれた。
 あなたと出かけるところ、しょっちゅう事件が起こるんだもの。何もなかったらもはや奇跡だわ。事件のほうがあなたを放っておいてはくれないし、本当に、探偵はあなたにとっての天職なんでしょうね。
 褒められているのか、けなされているのか。相棒に苦笑を見せて、コナンは水中を泳ぐ魚たちを見上げた。
 半日かけて水族館を堪能すれば、次は外だ。もちろんダーツにも行った。パーフェクトとは行かないが、高得点を決めたのはコナンと哀だ。おかげで、必要な分だけイルカのキーホルダーをもらえた。
 コナンと、哀と、歩美と、光彦と、元太と、──もうひとつ。
 くたくたになるまで遊んで、最後を飾るのは観覧車だ。小学生の頃と変わらないあどけない笑顔で、ジオラマの街のように小さくなっていく地上を見下ろして歓声を上げる三人の姿を眺めて、微笑む。そうしてゴンドラが頂上に近づいたとき、コナンはおもむろに口を開いた。
「今日はオメーらに、大切な話があって、ここに誘ったんだ」
 真剣なコナンの姿に、三人は目を瞬いて、それから椅子に座る。
「オメーら、昔、ここで出会ったお姉さんのこと、覚えてるか?」
 一拍の間を置いて、もちろんだよ、と応じたのは歩美だった。
「忘れるわけないよ。だって、お姉さんと歩美たちは、友だちだもん。過ごした時間は短かったけど、私たちの、大事なお友だちだよ。これまでも、これからも、ずっと」
「そうですよ、忘れられるわけがありません」
「そうだぜ。それにあの姉ちゃんは俺の命の恩人だしな。あんなかっこいい姉ちゃん、忘れるわけねーじゃんかよ」
 迷いのないまっすぐな答えは、実に彼ららしかった。哀は好ましげに微笑み、コナンを待った。
「ああ、そうだな。お前らは、そういう優しい奴らだもんな。……だから、話しておきたいんだ」
 まぶしげに瞳を細め、コナンは息を吐く。知らず握りしめていた拳に哀がそっと手を添えて、コナンはふっと肩の力を抜く。
「そのお姉さんに会ったあと、この観覧車、大変なことになっただろ。お前ら、あのときゴンドラに乗ってたもんな」
 ゆっくり、言葉を選ぶように、コナンは話の核心に迫っていく。
「ええ、覚えてます。もうダメかと思いました」
「俺、もううな重食えねぇかと思ったぜ」
「でも、コナンくんが助けてくれたんだよね」
 歩美の、いっそ無邪気なくらいに明るい声に、コナンの胸にやるせなさが込み上げる。
 いつか、伝えねばならないと思っていた。
 彼女が、命を懸けて護ったもの。彼女にそうさせたのが何であったのか。歩美と元太と光彦が、純黒だった彼女を純白に変えたことを。
 もちろん、伝えない、という選択肢もあった。思い出は思い出のまま、きっと彼女は彼女の場所へ帰ったのだと信じるまま、そっとしておいたほうがいいのかもしれない、とも。そのほうが、子どもたちの心を守ることになったとは思った。
 それでも、知っておいてほしかった。彼女が命を懸けて護った命、未来、夢。そうして、彼らが彼女に与えた色を。
「違うんだ」
 ゆっくり深呼吸しながら、コナンは話し始める。
「もちろん、俺も観覧車を止めようとした。あのときは、ゴンドラにオメーらがいるなんて知らなかったけどよ。あの観覧車が転がる先には水族館があって、観覧車を止められなければたくさんの人が死ぬ。だから必死で、なんとか止めようとした。でも……止められなかった」
 危機的状況に陥ることは、あの頃よくあった。それでもなんとか、コナンは被害を最小限に食い止めることができていた。あのときは赤井も安室もいたし、絶対に食い止めてみせると、食い止めたいと思っていた。だけど、力が及ばなかったのだ。
「あの観覧車を止めたのは俺じゃない。……彼女なんだ」
 絞り出すように告げた言葉に、三人はきょとりとしていた。
「オメーらが友だちになった、あのお姉さんが止めてくれたんだ。──命を懸けてな」
 コナンの言葉が理解できないほど、彼らはもう子どもではないし、愚かでもない。みるみるうちに青ざめていく表情に、一瞬、知らせるべきではなかったかと後悔がよぎる。その後悔を振り払って、コナンは続けた。
「詳しくは俺も知らない。あのお姉さんが、本当はなんて名前だったのかも。ただ彼女はキュラソーと呼ばれていて……悪い奴らの仲間、だったんだ」
「嘘!」
 叫んだのは歩美だ。
「あのお姉さんが悪い人たちの仲間だったなんて、嘘! お姉さん、いい人だったもん! 元太くんを助けてくれて、歩美たちにいっぱい優しくしてくれて……それに、コナンくんが言うことが本当なら、歩美たちを護ってくれたのも、お姉さんだったんでしょ……?」
 瞳に、いまにもこぼれ落ちそうなくらい涙を溜めて、歩美は訴えた。
「聞いて、歩美ちゃん。江戸川くんは、だった、って言ったでしょ? 過去形なのよ。あなたたちが、歩美ちゃんと円谷くんと小嶋くんが、彼女を悪い人じゃなくしたの」
 哀が言うと、それに頷くように、光彦が歩美の肩に手を添えた。視線を向けた歩美に、光彦が小さく笑う。
「コナンくんの話を聞きましょう、歩美ちゃん。コナンくんが、意味もなく僕たちにこんな話をするわけがありません」
「……うん」
 哀と光彦のフォローに内心で礼を言って、コナンは話を続ける。
「彼女が……キュラソーがいたのは、本当に危険な、真っ黒なところだったんだ。光なんて一筋も射さないような……そんなところだった。キュラソーがそこにいたのだって、全部が全部彼女の意思じゃなかったんだ。けどよ、そんな彼女に光を射し込んで、真っ黒な場所にしかいられなかった彼女を、まばゆい真っ白な世界に連れ出してくれたのは、オメーらだったんだぜ」
 少年探偵団の存在がキュラソーにとってどれほど眩しい光だったのか、真の意味ではコナンにもわからない。居た場所が違うからだ。キュラソーの想いを一番理解できるのは、隣でコナンを支えてくれる相棒だけだろう。
「あのとき、この観覧車が大変なことになったのも、そんな真っ黒な奴らがキュラソーを連れ戻そうとしたからだったんだ。彼女が手に入れた情報があれば、冗談でもなんでもなく、この世界をいいようにできたから。でも彼女はその情報を奴らに渡したくなくて……奴らのもとに帰るつもりがなくて、逃げ出したんだよ。だから奴らはキュラソーを殺そうとして、ここをめちゃくちゃにしたんだ。そのためにどれだけの人が犠牲になろうと知ったことじゃない、そういう、危険な組織だった」
 差し障りのない範疇でも、黒の組織のことを三人に告げるのは初めてだ。キュラソーの存在さえなかったら、ほのめかすことすら一生しなかった。それは三人が子どもだからではなく、知らずに済むなら知らなくてもいいことだからだ。それだけ危険な組織だったし、奴らの組織はもう、潰えたのだから。すべて過去形で語られる犯罪組織について、なぜコナンが知っているのかを追求しないくらいに、三人は大人になった。
「たった一日だったけど……自分にたくさんの光をくれたオメーらを死なせたくなくて、オメーらから笑顔と未来を奪いたくなくて、彼女は、命を懸けてオメーらを護ってくれたんだ」
 堰を切ったように嗚咽を上げたのは歩美だった。両隣の二人だって、鼻をすすっていた。
「ごめんな、つらいよな、悲しいよな。でも、そんなふうに、たった少しだけ過ごした彼女のことを想って泣いてくれるようなオメーらだから、本当のことを知ってほしかったんだ」
 コナンはポケットからイルカのキーホルダーを取り出した。それはかつてキュラソーに渡した未塗装のものほどではないが、それに近しい、白い色をしていた。
「これは、さっき取ったやつだけど……彼女は、最期までこれを持っていたんだ。どれだけオメーらを大事に想ってくれていたか、わかるだろ?」
 声もなく三人が頷く。コナンの隣で、涙など見せまいと踏ん張っている哀の肩を抱き寄せる。
「ちょっと伝手があってな。……彼女の遺骨を、引き取らせてもらって、埋葬したんだ。少し東都から遠いんだけど、海の見えるところだ」
 キーホルダーを揺らして、コナンは笑った。
「これをさ、もう一度、オメーらから彼女に渡してほしいんだ。オメーらは、友だちだろ?」
 たくさんの涙を頬に伝わせながら、歩美が手を差し出した。歩美の手のひらにキーホルダーを落とすと、彼女はそれを大事に握りしめ、何度も頷いた。
「うん……! うん……!」
「本当のことを教えてくれて、ありがとうございます、コナンくん」
「水くせぇぞ! 俺たち、少年探偵団じゃんか。おめぇらだけで抱え込むなよな!」
 あふれる涙をぬぐいながら、歩美が哀を見る。
「哀ちゃんは、ずっと知ってたんだね。コナンくんと二人で、歩美たちが受け止められるようになるまで、待っててくれたんだね。歩美、そんなこと知らなかった。哀ちゃんと歩美はお友だちなのに、気づけなかった。ごめんね、ありがとうね、哀ちゃん」
「歩美ちゃん……!」
 こうなるとコナンはもう歩美にはとてもとてもかなわない。それまでコナンだけが拠りどころのようにしていた哀はベシッとコナンの手をはたき落として、親友に近寄った。察した光彦がコナンの隣に移動して、開いた席に移った哀が歩美を抱きしめる。うーん、麗しきかな乙女の友情。
 はたかれた手をさすりながら半眼になるコナンに、光彦が苦笑する。
「歩美ちゃんにはかないませんね」
「まったくだよ。……光彦も元太も、無理するんじゃねーぞ」
 視線を少女たちに据えたまま、コナンはあえて少年たちを見ないようにした。
「俺と灰原は、偶然知る立場にいて、十年かけて昇華していったけど、オメーらは今日初めて知ったんだ。ちょっとやそこらで受け入れられるもんじゃねぇだろ。大切な人を想って泣くのは、別にみっともなくねーんだぜ。俺はほら、綺麗な海でも見てっからよ」
「……っく」
 小さく漏れた嗚咽は光彦と元太と、どちらのものか。三者三様の嗚咽を聞きながら、コナンはゴンドラが地上に降りるまで窓の外を見ていた。


「うわぁ! 綺麗!」
「これは絶景ですね!」
「気持ち良さそうだな〜!」
 輝く海と流れてくる潮風に歓声を上げる三人に、先を歩いていたコナンと哀が振り返る。
「だろ? だからここにしたんだ。ここを見つけてくれたのは灰原なんだぜ」
「私たちの恩人だもの。彼女に似つかわしい、綺麗なところで眠ってほしいじゃない」
「俺も似たようなとこ見つけてたんだけどさ、ここにはかなわなかったよ」
「行きましょう。彼女も、十年ぶりにあなたたちと会えるのを待ってるわ」
 五人で歩いて、海を覗く場所に、淡いブルーをした洋風の墓石があった。
 組織は、抹殺したメンバーの情報はすべて破棄していた。安室──降谷もずいぶん手を尽くしてくれたのだが、キュラソーの本名も年齢もわからずじまいだった。そのため墓石に彼女の名前も年齢も刻むことはできなかった。だから、代わりに。
「これ、コナンくんたちが?」
 問われ、顔を見合わせ、二人は頷いた。
「素敵だね」
 笑って、歩美が膝を突く。そっと、イルカのキーホルダーを供えた。
「助けてくれてありがとう」
「ずっと忘れませんからね」
「俺たち、友だちだからな!」
 笑顔で、でもちょっとだけ涙声で手を合わせる三人の後ろで、コナンと哀も両手を合わせた。

 あなたが護った未来が、ここにあるよ、キュラソー。


『ありがとう
     僕たちの親愛なる友人へ』



2016.12.31


 
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