「わたくし、死ぬるときは老衰か、夫のためと決めておりますの」
薙刀を構えたまま、女はあでやかに笑んだ。
「ですから、わたくしにはいまここで、あなた方から辱めを受けるつもりも、些細な怪我をするつもりも死ぬつもりも、毛頭ございませんの。ああそれから、これでもわたくし、数々の修羅場をくぐり抜けてきた夫からお褒めいただく程度には腕に自信がありましてよ? ──さあ! 怪我をしたくないのなら、さっさとそこをおどきなさい!」
毅然として背後に己の侍女をかばった女は、群がる不埒な男たちに啖呵を切った。
──数刻後、男たちは全員、ぐるりと川沿いの木に縛られてうなだれているところを川へ遊びに訪れた子どもたちに発見された。
竜の伴侶
「Ha,やるじゃねぇか!」
それが報告を受けた奥州筆頭伊達政宗の第一声であった。
やるじゃねぇかではありません、とともに報告を聞いた小十郎が口を開く。
普段着の小袖と袴姿で政務に勤しむ政宗と、その政宗の脱走防止のために傍らに控えていた小十郎がその報告を受けたのはほんの少し前。
小十郎はわずかに感じ始めた決して気のせいではない頭痛をこらえながら、くつくつと笑う政宗を見やる。
「仮にも奥州筆頭のご正室たる方が、ならず者どもを直接しばいてのして、あげくに木に縛りつけるなど……」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。それこそ奥州筆頭の正室らしいじゃねぇか」
「……それは確かに、そうなのですが」
彼らが受けた報告はお忍びで出かけた政宗の正室愛姫が、出先で絡んできたならず者どもを返り討ちにしたというものであった。
政宗はさすがだと面白そうに笑っているが、お忍びの愛姫の護衛に気を揉んでいた小十郎にとっては頭の痛い話だ。目立たぬように忍の者を彼女の護衛につけたのに、その護衛が手を出す間もなく自身ですべて片づけられるとは。
しばらく笑っていた政宗は、手にしていた筆を硯に置くと、すっと音もなく立ち上がった。
「どちらへ」
それを見た小十郎が短く尋ねる。
政宗は障子に手をかけ、短く答えた。
「愛のところだ」
小十郎は息をつくと、静かに軽く頭を下げた。
「できるだけお早いお戻りを、政宗様」
「それは愚問ってもんだぜ、小十郎」
愚問。
この場合それはつまり、後は任せるということの同義語。
たん、と礼儀正しく障子が閉められて、政宗の足音が遠ざかる。
足音が完全に聞こえなくなった頃、小十郎は先ほどよりも大きな息をついたのだった。
かつての時代、貴族の正妻は北の殿舎に住み、それゆえ北の方と呼ばれた。
誰が言い出したのかはとうに忘れたが、それにあやかって、愛の私室も屋敷の北にある。
淀みのない足どりで部屋の前まで来た政宗は、「入るぜ」と一言断りを入れてから障子を引いた。
室内にいた数人の侍女が頭を下げ、政宗を迎え入れる。その侍女たちの中央に愛はいた。
癖のないまっすぐな黒髪をうなじでひとつに括り、こちらを見上げる二重の瞳は黒曜石のような輝きを宿して、病弱のそれとは違う白いおもてと薄く紅を掃いたやわらかな唇は夫の姿に弧を描いた。
「政宗様」
凛とした、けれどどこかやわらかさと甘さを秘めた声。
一呼吸その余韻を楽しんで、政宗は右腕を上げた。
心得た侍女たちがするすると部屋を出ていく。
最後のひとりが障子を閉めて立ち去ると同時に、政宗は手近な座布団を引き寄せて腰を下ろした。
「そろそろいらっしゃる頃だと思っておりました」
「hum,城下で一暴れしてきたって?」
肩肘をついて子どものように目を輝かせる政宗に、愛はのんびりと答える。
「まあ、一暴れだなんて。わたくしにはそんなつもり、ございませんでしたのよ? ただ、あちらさまが少々下品な方たちだったもので──……」
※ ※ ※ ※
「姉ちゃんたち、綺麗な顔してんなぁ」
にやにやと下卑た笑みを浮かべ、男たちはお忍びで城下の探索を楽しんでいた愛とふたりの侍女に近づいてきた。
お忍び、とはいっても、実は愛の素性は少なくとも城下の商店が立ち並ぶ一画ではある程度知れているといってもいい。
時折店を訪れ、身をやつしていても高貴な振る舞いと衣装。商いに優れた者は、愛の美貌と言葉の端々から素性に当たりをつける。だが、察しはしても、決して口にはしない。媚びも売らない。あくまでひとりの『娘さん』として接する。
これは暗黙の了解だった。
伊達の城主の気性を少しでも知っていれば、彼女が望まない行動を取るなど自殺行為としか言いようがない。
「ちょっと付き合えよ」
酒気を帯びた数人の男たちはこの土地の者ではないだろう。東北の訛りがまったくない。
どこか南西から流れてきた、もののふ崩れか。
伊達軍というのは総じて柄が悪そうである。心根は優しくも見た目は恐ろしげな、屈強な男たちばかりだ。奥方付きとはいえ、何かと兵たちと出くわすことが多い侍女たちはその容姿に慣れざるを得なかった。
その甲斐あって、男たちの外見などにはつゆほどにも動じない侍女のひとりが主の前に出た。もうひとりの侍女は細長い布袋を持っており、視線だけはぎっちりと男たちを睨みつけている。
「無礼者! 誰がお前たちなどに付き合うものですか! 酒が飲みたければ勝手に飲めばよい!」
侍女の言葉は当然の反応だったが、この手の輩は皆得てして気が短い。
案の定、男たちはいきり立った。
「……んだとぉ!?」
「……っ、お離しなさい!」
腕をつかまれ、侍女は背筋を走った悪寒をこらえて手を振り払おうとする。が、残念ながら女の力では男に敵わない。
男がさらに力を込めたとき、ぴしゃり、と鋭い音が空を切った。
「……ってぇ!」
男が手に感じた小さな鋭い痛みに顔をしかめ、忌ま忌ましく思って女たちを見やれば、閉じた扇を持った愛が侍女を背後にかばうところだった。
ぎり、と男は唇を噛む。
あれで叩かれたのか。女のくせに生意気な。
「いまなら何もいたしません。怪我もしくは捕縛されたくないのなら、いますぐここから立ち去りなさい」
愛は冷静に口を開く。
向こうはこちらをただの娘と思っているが、自分はれっきとした伊達家当主の妻なのだ。小十郎のことだ、どこかに護衛を忍ばせているだろう。
となれば、目の前の男たちが捕縛されるは必定。
親切心から言ったのだが、事情を知らない男たちからすれば女にこけにされたあげくおめおめと立ち去れるはずもなく。
愛に手を叩かれた男の隣にいた男が、刀を抜いた。
瞬間、愛たちを助けるわけでもないが立ち去るわけでもなかった通行人の中から悲鳴が上がる。
手入れすらあまりしていなかっただろう刀は、それでも人を傷つけられる程度には鋭さを保っている。
「……女相手に、太刀を抜きますか」
さすがに抜き身の刃に怯える侍女たちに大丈夫だと目だけで教える。
「……ここまでこけにされたんだ。姉ちゃんたちにはお詫びに楽しませてもらわなきゃなぁ」
言葉と表情だけで、男たちが何を考えているかわかった。
その下劣さに愛は柳眉を寄せる。
力にものを言わせて、女を弄ぶ。
それは何より愛が──政宗が嫌うことだった。
「千代、渡して」
「姫様!」
渋る侍女に、愛は振り返って笑う。
「大丈夫です。──わたくしを誰だと思っていて?」
はっと千代と呼ばれた侍女は肩を震わせた。そして、素直に持っていた布袋を愛に渡す。
「ありがとう」
妙なまでに細長い布袋の紐を解くと、鈍くきらめく刃が覗いた。
男たちがぎょっとしたのが気配でわかった。
布袋を地面に落とし、出したそれを構えて愛は微笑む。
「ただの女と侮ってもらっては困ります」
その気迫と薙刀に、男たちは目に見えて怯む。
お忍びの際、愛は必ず薙刀を持って出かける。散々お忍びに反対する小十郎へ、自分の身くらい自分で守れますという意思表示だ。こうして小十郎を悩ませるところは夫婦そっくりである。
「わたくし、死ぬるときは老衰か、夫のためと決めておりますの」
薙刀を構えたまま、愛はゆっくりと笑みを深めた。
※ ※ ※ ※
そこからは政宗と小十郎が受けた報告の通りである。
そのまま立ち去ればよかったのに、愚かにも愛へ刀を向けた男たちは返り討ちに合い、愛は近くの店で縄を購入し、男手を借りて川沿いの木にぐるりと男たちを縛りつけたのであった。
「こんなところですけれど……政宗様?」
愛は話の途中から肩を震わせ出した夫の様子を窺う。
政宗はこらえきれなくなったのか、声を上げて笑い出した。
「っく、あははははは! さすが俺のwifeだな!」
「まぁっ、政宗様ったら、笑いごとではございませんわ! 愛が、どんなにか頑張りましたのにっ!」
ぷくぅっと頬を膨らませる愛は年相応の顔で、政宗はついついからかいたくなってしまう。
「愛は、ほかならぬ政宗様がおわしますお城の下で、醜いことが起きるのが許せませんの。だから頑張りましたのにっ、もう!」
ぷいと顔を背ける妻に苦笑して、政宗は愛の身体を抱き寄せた。口からは拒絶の声がもれるが、本音ではない。
「わかってる。愛は俺のために頑張ってくれたんだよな。……よくやってくれた」
「もうっ、ずるいですわ、旦那様ったら」
そんなことを言われたら愛は天にも昇る心地になってしまって、起こってなどいられない。
ちなみに、その白いおもてを紅潮させた愛の愛らしさをこの政宗が知らぬはずもなく。
空気は何やらpinkなものに。
「愛……」
「政宗様……まだお昼ですのよ?」
「気にすんな」
「ご政務は」
「小十郎がいるだろ」
「もうっ……しょうのない方……」
──この後の展開は推して知るべし、である。
2014.7.8