月詠の宴

 

 煌々とした青い光りを放つ今宵の月は、本当に美しい。
 遠くから聞こえる宴の喧騒もいつもなら微笑ましく思えてしまうのに、いまはそう感じることができなかった。あのざわめきが耳に障る。
 鹿子もほかの女房も馨子すらそばから追いやって、宮子はひとり、角の簀子に座って月を眺めていた。
 そんな彼女の後ろから、ぺたり、と裸足で簀子を歩く音がする。
「別にきみが気にすることじゃない」
 宮子は背後の足音にびくりと震えたが、馴染み深い声に肩をふっと落ち着けた。
 彼に背を向けたまま、宮子はいいえ、と首を振る。
 仕方ない、とばかりに吐かれたため息のあとにぽん、と頭に置かれた優しい手に、宮子は再度ゆるりと首を振った。


 今宵はまこと美しき月ゆえ、皆で存分に愛でるが良い。
 と、帝の一声で催された上達部の宴。
 帝が参加することはかなわなかったが、せめてお前たちだけでも、と東宮と第一皇子を宴に勧めた。父帝の言葉に、兄弟は静かに従った。
 今宵は無礼講でと帝も東宮も皇子も言ったため、宴は規模は小さいながらも賑やかに進んでいった。
 ふたりのそばには酒の席を好まない彼らを慮った帝から請われた宮子も控えていたのだが、夜も更けると私たちは、と次郎君も蛍の宮も辞去することにした。
 いくら無礼講でとは言っても相手は東宮と皇子、次代の帝と親王だ。やはり遠慮があり、理性が働く。
 それを気遣い、今宵は心ゆくまで楽しんでもらおうと思ったための行動だった。正直なところ、彼らに宴への興味はなかったから。
 しかし、それが裏目に出てしまった。上達部の理性のたがが外れてしまったのだ。
 誰かが言った。

 ──近頃東宮さまは、蛍の宮さまと仲がおよろしいようですなぁ

 上達部は宮子たちなどとうに宴の場から離れているだろうと思い込んでいたが、実はまだ、宮子たちは近くにいた。
 次郎君と蛍の宮、どちらが宮子を殿舎まで送るか押し問答を繰り広げていたのだ。
 こんな暗い中をひとりで帰すわけにはいかないよ、しかし東宮が送るなどもってのほかだろう、皇子が送るのもどうかと思うけどね、あのわたしならひとりで帰れますから、などと論争にもならない言い争いを続けていたときに、上達部の言葉は彼女たちの耳に飛び込んできた。

 ──荷珠香炉の一件以来、おふたりはすっかり仲良くなられて
 ──別に良いではありませぬか。お母御のご身分ゆえにいろいろと複雑なお立場とは申せ、おふたりは真実血を分けたご兄弟なのですから
 ──うむ、それもそうではあるが……やはりのぅ
 ──……宮さまは、『怨霊の孫』であらせられる

 その瞬間、蛍の宮から一切の表情が抜け落ちた。
 次郎君もまた表情を固くし、宮子は本当に目の前が真っ暗になった。
 次郎君と蛍の宮の不仲──。
 そもそもの原因は、蛍の宮の祖父である藤原元方にあった。正確には彼のせいとも言えないかもしれないけれど。
 藤原元方は己の孫を帝にすることを希って、叶わず、怨みを抱いて、死んだ。
 彼の死後に起きたいくつもの奇異な現象は、元方の怨霊の仕業と噂されるようになり、蛍の宮たち家族は冷遇されていた。それが荷珠香炉の一件で噂などたいしたことはないと、さすが第一皇子も天孫であられると、徐々に認められるようになったというのに。
 当初はそこかしこで噂されていたが、最近では次郎君と蛍の宮の睦まじさに噂する者も減ったと思っていたのに。

 ──いつ、東宮さまを害するかと……

 宮子は愕然とした。
(何を言ってるの? 宮さまが、次郎君を害する……?)
 ざわざわと、なおも上達部の声はやまない。
 宮子はおろおろと蛍の宮を見上げるが、彼は無表情のまま次郎君を見た。
「すまないが、ぼくは行く。彼女はきみが送ってやれ」
「それはわかったけど……蛍の宮、」
「大丈夫だ」
 弟の言葉を遮り、蛍の宮はくるりと踵を返し、桐壷のほうへ歩いていった。
 それを見送る次郎君にできたことは唇を噛み、戸惑う宮子の腕をつかんで、わざと足音を立ててその場から離れることだけだった。
 宮子は送り届けてくれた次郎君からきみも気にしないで、と言われたが、それは到底無理な話だった。
 先述の通り人払いをして、宮子はぼんやりと空を見上げていたのだった。
 そこへ来た、蛍の宮の訪い。
 頭をなでる優しい手に、じんわりと涙が滲みそうになった。
 彼はわたしを心配して、見にきてくれたのだ。
 一番つらいのは、自身のはずなのに。
「……どうしてきみが気にするんだ」
「だって……わたしは次郎君と宮さまがどんなに仲良しか……知っていますもの。怨霊の孫だなんてこと、根も葉もない噂だってことも……宮さまは優しい方です」
 ついにべそべそとし始めた宮子に頭に乗せられた手が奮え、蛍の宮はいつかのように畳紙を取り出した。
 ぐっと宮子の顔をこちらに向かせ、苦笑する。
「汚い顔だな。ほら、これで早くちーんとしろ」
「う……えっ……宮さ……」
 べそべそと頷き、宮子は彼の手から畳紙を受け取った。
 いつかのように鼻をかんだ。すると、蛍の宮が自分の袂でごしごしと宮子の頬をこすった。
 手荒さに宮子は顔をしかめるが、その優しさにまた涙腺がゆるみそうになる。
 せっかく宮さまが拭いてくださってるのに。
 こする手を止め、蛍の宮は言った。
「何度も言うが、きみが気にすることじゃない。あんなこと、言われ慣れている」
「で、でも……っ」
「きみは言わないだろう? ぼくのことを、『怨霊の孫』だと」
 言われた宮子はぽかんと蛍の宮を見、すぐに意味に気づいて叫ぶように答える。
「言いません。絶対に!」
「だから、それでいいんだ」
 蛍の宮は微笑する。
 ずっと、怨霊の孫だと噂されてきた。快くない視線にさらされて。減ったとはいえど、その視線は決して消えないだろう。
 きっと、終生つきまとう。
 けれど、彼女は違う。いつもまっすぐに自分を見てくれる。
 蛍の宮を蛍の宮自身として。
 それがどんなに救いなのか彼女は知らないし、教えてやる気もない。
 ただ、東宮が彼女に惹かれた理由はよくわかる。惹かれないほうが難しいというものだ。
 ──多分、ぼくも。
「きみが信じてくれている。ぼくが決して東宮に害を与えないことも」
「あ、当たり前です……っ!」
 蛍の宮は憤慨する彼女の頬から、すっと手を引いた。
 見えない闇に声をかける。
「そして、きみもぼくを信じてくれてるんだろう? ──東宮」
「え?」
 宮子が驚くのと同時に、是と答えがあった。
「もちろんだよ、蛍の宮」
 闇からするりと次郎君が現れる。
 手には酒瓶を持って。
「相変わらず、きみは聡いね。子猫の君がきみのために泣いてるから、せっかく華を持たせてあげようと思ってたのに」
「華を持たせるつもりだったのなら、最初から気配を丸出しで来るな」
「ぼくはきみほど武芸に富んでないから」
「あ、あの」
 目の前でぽんぽんと交わされる会話に、目を丸くしていた宮子はようやく口を挟んだ。
 ふたりの視線がこちらに向けられて、頬が赤らむ。
 もしかしなくても、いまの会話はすべて次郎君にも聞かれていたのだ。
 蛍の宮に対する侮辱に怒ったから、彼にああ言ったけれど、次郎君にも聞かれていたとなるとなんだか気恥ずかしい。
「わ、わたしは、部屋に戻りますから、あとはその、ご兄弟で仲良く……」
「何言ってるの、子猫の君。せっかくだから、宴のやり直しといこうよ」
 次郎君は酒瓶を掲げた。
 ちょろまかしてきたんだ、と次郎君は悪戯っ子のように笑った。
「月見酒といこう。子猫の君にお酌してもらって」
「東宮ともあろう者が、そんなこそ泥の真似事など……」
 ため息をついたが、蛍の宮も笑う。
「だが、悪くはないな」
 そして、宮子は問われる。
「どうかな? 子猫の君」
「一献、ともに」
 宮子が彼らに返す言葉はひとつだけ。
「はい、もちろん」


 月の光が降り注ぐ。
 月だけが見ている。

 月詠の宴を──。



2010.8.30


 
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -