漆のような闇を、ひらり、と何かが舞った。
 最初はそれが何かわからず、ただ眺めていた。けれど次第にひとつだったそれは、ふたつみっつと増えていって、やがて数えきれないほどの数となって闇の中を舞う。
 ──ああ。
 これは花びらだ。薄紅色の、花弁。
 はらはらと暗闇を舞うのは、桜。

 ──……つけて

 桜が舞うかすかな音に紛れて小さく、何かを求める声が聞こえる。

 ──……に来てね、待ってるから

 さらにその声に紛れて、ぱたた、と何かが滴る音も聞こえて、最後に声は、

 ──早く、     ……

 かすれるように、    を呼んだ──……


花の下にて 1



 尾けられている。と、安原修は思った。
 気づいたのは大学を出て、バイト先へ向かう電車に乗った頃だ。初めは気のせいかと思った。何せここは東京で、安原がこれから行こうとしている場所はその一等地だ。同じ方向へ行く人間など掃いて捨てるほどいるに決まっている。
 気のせいではないと確信したのは、目的地より一歩手前の駅で降りたあと。雑踏の中でも明らかなほどに安原の歩調に合わせて、ちょっと挙動不審な誰かの気配が尾いてくる。適当にショーウインドウを覗くふりして尾行者を窺えば、見知った人間の姿を視界の端に捉えた。それで怪しい何かではないようだと判断して足を止める。同時に相手も足を止めた。
「僕に何か用かな、矢沢?」
 先手必勝と振り向くと同時ににっこり笑えば、相手はびくりと肩をそびやかした。その顔が記憶にあるよりやつれ、青白いのを見て、おや? と怪訝に思う。
「あ……その、悪い、あと、尾けたりして……」
「うん、別にそれはいいんだけど。矢沢、最近大学にも来てなかったよな? 顔色も悪いし、体調悪いんなら、無理しないで……」
「……俺っ! お前に相談したいことがあってっ!」
 言いかけた安原を遮って、友人──矢沢亮は叫ぶ。何事かと往来の人々が視線を向けたけれど、安原は気にせずその肩を抱いて、往来の邪魔にならないところまで連れていった。
 唇を噛みしめている矢沢に、安原はもしかして、と言葉を紡ぐ。
「僕の、バイト関係の相談?」
 矢沢は逡巡するようにうつむいたあと、こくりと確かに頷いた。
 安原がバイトしている事務所は、東京都は渋谷区道玄坂にある。そのゆるやかな坂を矢沢と上った先に広場があって、そこから見える赤煉瓦風のタイルが貼られた建物が目的のビルだ。
 喫茶店やブティックの立ち並ぶ一階ではなく、エスカレーターに乗って二階へと向かう。下とは違って静かな二階の奥に、安原が勤めるオフィスの扉があった。
 ブルーグレイの扉には上品な模様入りの摩りガラスが嵌め込まれ、金の洒落た事態で『Shinuya Paycchic Research』と記されている。その上には『SPR』というオフィスの略称が刻印されている。
 一見落ち着いた喫茶店を思わせる佇まいに、安原に同行してきた矢沢が戸惑いの声を上げる。
「ここが……本当に?」
「そう。渋谷サイキック・リサーチ。渋谷心霊調査事務所。──大丈夫。見た目ほど取っつきにくくはないから」
 言って、からころんと軽やかな音を立てる扉を開けた──先では、痴話喧嘩(?)の真っ只中だった。
「だーかーらーっ! ちょっとお茶飲む合間にサンドイッチ摘まむだけでしょー!? これくらいめんどくさがらない!」
「必要ない」
 うがーっとがなり立てる麻衣に、安原の雇用主はさらりと返す。一瞥すらなく、視線は手元の本に落ちたままだ。安原にとっては実に見慣れた、いつもの光景である。
「あんたの精神には必要なくても、身体には必要なんだっつーのっ!」
 その一言に、ぶはっと安原は吹き出した。さすが谷山さん。
 ぶくくくっと押し殺した笑い声に、拳を握ってがなり立てていた少女がはっとこちらを見た。
「や、すはらさん! っと、い、いらっしゃいませ!」
 それから唖然とした顔の客人を見て慌てて取り繕う様がさらにツボに入って身体を折りながら、安原は隣の友人を見上げた。
「ね? とっても気安そうでしょ?」
 本当はとっても気難しいのだけれど、そこは越後屋ヤスハラの腕の見せどころである。


「所長の渋谷一也です」
 さすがに安原が連れてきた客とあっては無下にもできなかったのか、ナルは麻衣にお茶のお代わりを要求してから依頼人に向き直った。
「矢沢、亮です」
 安原さんのお友だちってことは東大さんかぁと感心しながら、麻衣はにこやかにお茶を供す。
「ご依頼だとか」
「はい。……お願いします!」
 矢沢はばっと勢いよく頭を下げた。麻衣はぱちくりと目を瞬く。
芽衣子めいこを……妹を助けてください!」
 そのまま動かない矢沢の背中を、隣に座った安原がなだめるようにさする。
「矢沢。まずは事情を説明しないと、助けてあげようにもできないから」
「そうですよ。話してください。ね?」
 麻衣も励ますように微笑みかける。安原に促されて、矢沢は勇気を振り絞るようにしてナルを見据えた。
「……俺には、菜衣子という妹がいて──」
 矢沢亮。二十歳。家族は父親とふたりきりの、いわゆる父子家庭なのだが、離婚した母親が引き取った、四つ違いの妹がいるらしい。名前を菜衣子といって、麻衣よりふたつ下の高校一年生。
「ご両親、ものすごい泥沼の離婚劇を繰り広げたらしくて、お互い子どもたちを会わせることを良しとしなかったらしいの。それでずっと疎遠だったそうなのね。でも今年の初めにお母さんが亡くなって、妹さん……菜衣子さんをお父さんが引き取ったんだって」
 依頼人が帰ったあとの、依頼内容確認。それを読み上げる麻衣に待ったをかけたのは、矢沢と入れ違いにやってきた滝川だった。ちょうどいい、と引っ張り込まれたのだ。
「ちょい待ち。父親が引き取ったって? そんだけ仲悪かったんじゃ、両家の関係も芳しくなかったろう。普通は母方の祖父母に引き取られるんじゃないのか?」
「なんだけど、もともと子どもたちは仲が良かったし、菜衣子さん自身もお父さんのことは普通に好きだったみたい。ちょうどおばあさんの方が身体を悪くしちゃったとかで、それなら、ってことになったそうだよ」
「ふうん。そんなもんかね」
「んで、まあちょっとぎこちなさはあるけど、それでも親子、兄妹仲は良好だったんだって。だけど夏に──菜衣子さんが交通事故に巻き込まれて、いまも意識が戻らないそうなの」
 夏──いまはもう秋だ。三ヶ月近く菜衣子は眠ったままだそうだ。
「夏に歩行者の列に車が突っ込んだって事故、あったでしょ? あれに巻き込まれたんだって」
「あぁ……」
 滝川が納得したように頷く。
「その妹さんがね、出るんだそうですよ」
 あとを安原が継ぐ。
「庭に、桜の木があるんですって。おうちを建てるよりずっと前からそこにあった立派な木で、春にはそれは見事に咲き誇るんだそうです。……そこに、菜衣子がさんが現れるそうです」
 矢沢は合理的な男だ。もちろん初めは見間違いだと思った。そこは幼い頃妹が好きだった場所で、彼女の身を案じるあまり見た幻覚なのだろうと思ったという。けれどその現象は続いた。時間は決まっていない。ただふと庭の桜に目をやると、そこに菜衣子が立っている。何かを訴えかける目をして、兄を見て、そして消えるのだと。
『妹は死んでない……なのにここにこうして現れるのは、絶対に理由があるはずだと、そう思えてならなくて……っ! もしかしてそれがわかれば、あの子は目を覚ますかもしれない。そう思ったら、いても立ってもいられなくて……そんなとき、安原が奇妙なバイトをしているって聞いていたのを思い出したんです』
 それでSPRを訪ねようとしたけれど、未知の場所に足を踏み入れる勇気が出なくて、それでとりあえず安原のあとを尾けることになってしまったのだと彼は言っていた。
『お願いしますっ! どうか妹を、菜衣子を助けてください!』
「ははあ、なるほどねえ。話はわかったが、よくナルちゃんが引き受けたな。言っちゃ悪いが、それだけ、ってレベルだ。さしてナルちゃんの興味を引く現象だと思えん」
「さすが滝川さん。わかってますねぇ。でも、今回の依頼人は僕が連れてきてしまいましたからね。説得させていただきました」
 にこ! っと微笑む安原に、おさすが……と滝川は苦笑するしかない。
「そんで? 調査はいつから?」
 これにはナルが答える。
「──明日から」



2014.9.4〜


 
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