彼が好まないことは知っている。
 煩わしいことも、騒々しいことも。
 興味があること以外は、一切無関心だということも。

 だけど、だけどね。
 ひとこと、一言だけ、言わせてね。


To you only syllable


「おはようございま〜す!」
「おはようございます、谷山さん。今日も元気一杯ですね」
「そっりゃあもちろん、元気が一番ですから!」
「う〜ん、ごもっとも」
 カラリとした秋晴れが感じられるようになった日曜日、先に出勤していた安原とありふれた会話を交わした麻衣はデスクに荷物を置くと早速給湯室に駆け込んだ。
 棚に並ぶ種類豊富な紅茶缶の中から、とっておきのものを選ぶ。以前イギリスからまどかが来た際に「お土産よ、SPRのお偉方からせしめてきたの」とくれたものだった。
 麻衣はそれを、いつもより丁寧に心を込めて淹れた。
 ティーカップにトレイを乗せ給湯室を出ると、安原と視線が合った。アイコンタクトを交わし、麻衣は所長室の扉をノックした。
「ナル、入るね〜」
 返事を待たず、麻衣は扉を開けた。
 英字の本を開く、冬の月のように研ぎ澄まされた美貌の主ににへらと笑いかける。
「モーニングティーだよ〜。今日はまどかさんからもらった、マスカットフレーバーだよ」
 特別な日だから、と心だけで呟く。
「……ああ」
 ナルは短く答え、麻衣が机に置いたカップに手を伸ばした。
 稀少価値が高く、入手困難な最高級ダージリンフレーバーティーをナルは相変わらずの無表情で飲む。
 いつもなら麻衣も何かしら感想を言えよくらい思うのだが、今日だけは違った。
「お変わり必要なら呼んでね」
「ああ」
 本から目を離さないナルに言いながら麻衣はドアノブに手をかけ、告げた。
「ナル、おめでとう」
 麻衣の言葉にナルが顔を上げる。
 その顔はわけがわからないと素直に言っている。
 そんなナルに麻衣はにっこり笑いかけ、所長室を後にした。
「どうでした?」
 所長室から出てきた麻衣に、安原が尋ねる。
 麻衣は胸に手を当てながら答えた。
「あたしの方はミッションクリアです。なんのことなのか、ナルはまだ全然わかってないみたい」
「そうですか。では、次は僕の番ですね。……ふふ、責任重大ですね」
 眼鏡を押しやりながら安原が笑う。
 一瞬眼鏡が怪しく光を帯びたように見えて、麻衣はあははと引きつった笑顔を浮かべたのだった。
「よ、よろしくお願いします」
 麻衣から返事を得られることなく残されたナルは首を傾げるも、とくに気にすることもなく再び本に目を落とした。
 ようやく本国から取り寄せた本だ。なぜだか今日はとりわけ良い紅茶で、さらに読書を楽しめそうだ。
 ペラリ、ペラリ、とゆっくりページをめくる。
 しばらく室内をその音だけが満たしていたが、ふとナルはカップが空になっていることに気づいた。
 お変わりを求め、カップを持って部屋を出る。
「麻衣」
 ナルが呼べば、デスクでぼーっとしていた麻衣が即座に反応する。
「あ、お変わり? いま淹れてくるから」
「ああ」
 麻衣はナルからカップを受け取ると、給湯室へ姿を消す。
「すみません、所長」
 そのまま所長室へ戻ろうとしたナルを、安原が呼び止めた。
「なんですか?」
「ええちょっと、この間の調査データで気になることがありまして。僕の単なる好奇心なんですけど、少し教えていただけますか?」
「……リンに聞いては?」
 早く本の続きが読みたい。
 そのために、できるだけ面倒事は省こうとしてみるが、敵もさるもの、安原はあっさりと続けた。
「生憎とリンさんは外出中なんです。機材のパーツを買いに秋葉原まで」
「では、リンが帰ってきてからでも……」
「いえいえ、やはりこういうことは目の前にいらっしゃるその道の第一人者からお伺いしませんと。僕はもっぱらフィールドワークしかお役に立てませんけど、これは詳しくご説明いただければ有効な使い道が出てくるんです。いろいろと」
 まさに立て板に水。
 背後に後光が射して見えるような安原の笑顔に逆らうのは、ナルでも難しいものがある。

 にこにこにこにこ。
 ………………………………。

 笑顔と沈黙の約一分間に渡る押し問答の結果、ナルは応接ソファに座った。
「どれですか?」
 安原の、勝ちだ。
「ありがとうございます。これなんですけどね〜」
 安原がナルの前にいそいそと数枚の書類を置く。
 ナルが目を通すより早く、麻衣が給湯室から出てきた。
「お待たせ〜」
「僕の分もあるんですか?」
「なにやらナルとお話があるように見えたんで」
「ありがとうございます」
 ナルと安原に紅茶を渡し、麻衣は自分のデスクに戻った。
 デスクからふたりの会話を聞くが、麻衣にはなんのことやらちんぷんかんぷんだ。意味のわからない単語がいくつも飛び交って、高度なリベートを見ているような気がしてきた。
 麻衣がふわぁと思わずあくびしたとき、ドアベルと一緒に脳天気なほど明るい声が入ってきた。
「やっほー」
 色つきガラスの入ったサングラスをかけて大漁旗がプリントされた微妙なTシャツをジャケットから覗かせるのは、滝川だった。──というか、こんな奇抜ファッションで現れるのは滝川しかいないと麻衣は思う。
 うるさいのが来た、とナルは思った。
「麻衣ちゃーん、いつものやつお願〜い」
「はいよ〜」
 トレイをかざし、麻衣は給湯室へ戻る。
 よっこらせ、とナルの対面に座った滝川に冷ややかな視線が送られる。
「──ここは喫茶店ではないといつも言っていますが?」
「いつも言ってても、なんだかんだとナルちゃん黙認してくれてんだろ?」
 にんまり笑えば、ナルはあからさまなため息をついた。
 滝川は苦笑する。
「まあまあ、麻衣のアイスコーヒー飲んだらすぐ帰るさ。俺もこれから仕事あるもんでね」
「……勝手にどうぞ」
 ナルはソファから立ち上がった。
 それを見た安原は瞬時に頭を回転させ、答えを弾き出す。
 まだだ。まだ彼にはここにいてもらわなければならない。
 すべてが終わるまで。
「所長、これの続きなんですけど、ぜひ滝川さんの意見も聞いてみたいんですが」
「おっ、なになに?」
「科学者としての所長と、霊能者としての滝川さんの意見を交えて考えたいと思いまして」
「レポートでも書くつもりか、少年」
「まさか。純真な青少年の好奇心ですよ」
「純真ねえ……」
 安原滝川両名のやり取りに、ナルが口を挟んだ。
「僕は漫才を聞きたいわけではないのですが」
「ああすみません、話をもとに戻しましょう」
 そこへ麻衣が戻ってくる。
「はい、ぼーさん」
「おお、いつもすまんのぅ、娘よ」
「それは言わない約束でしょ、お父っつあん」
 軽く会話を交わし、麻衣はデスクに座った。
 またよくわからない会話が聞こえる。なまじまともな質問なだけに、ナルも無視できないのだ。
(さすが安原さん。あと綾子と真砂子とジョンで、リンさんは最後だから──)
 指折りこれからの来訪者数を数え、麻衣はもう一度席を立った。
 来客予定がわかりきっているのだから、下準備を済ませておこう。
 麻衣が給湯室に入ったのを見て、滝川はアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「わりぃな、俺そろそろ時間だわ」
「そうですか、じゃ、この辺にしましょうかね」
 にこにこと安原がまとめる。
 ナルはようやく終わった、とばかりに肩を竦めた。
「じゃねん」
 ひらひらと手を振り、滝川は扉を開く。
 オフィスを出る際、呟く。
「おめでとう、ナルちゃん」
 ナルが何か思うより早く扉は閉まり、安原も書類を手に立ち上がった。
「滝川さんのお見送りをしてきます。ご教授ありがとうございました。それから、所長、おめでとうございます」
 ペラペラペラペラと話し、安原は素早く滝川を追ってオフィスを出ていった。
 ここでさすがに興味のないものにはとことん疎い、とことん気にしないナルもおかしいと気づく。
 いつもなら人が邪険にしようと居座るのに、この滞在時間の短さ。いつもなら見送りになど出ない安原の行動。そして、麻衣も。
 怪訝に給湯室に目をやれば、扉の影から様子を窺っていたらしい麻衣と真正面から目が合った。
「あ」と麻衣の唇が動く。
「麻衣」
「えへへへ……」
 ナルが名を呼べば、苦笑いを浮かべながら麻衣が出てくる。
「何を企んでいる?」
「べ、別に何も?」
「お前が僕に隠し事ができるとでも?」
 漆黒の瞳に不穏な色が宿る。
 散々読書の邪魔をされて、ナルの不機嫌ゲージが沸点に達しようとしている。
 空気が一気に、心霊現象時ばりに冷えたような気がした。
(だ、誰か助けて〜!)
 麻衣の叫びは天に届いた。
「こんにちはです」
 いまの麻衣にその声は仏の声だった。いや、彼の場合は神の声か。
 とにかく、麻衣は笑顔で振り返った。
「いらっしゃい、ジョン!」
「お久しぶりです。麻衣さんも渋谷さんもお元気そうで何よりどすなぁ」
 凪いだ海のようにどこまでも穏やかなジョンがまるで天使に見えてくる。
「何か淹れるね。何がいい?」
「麻衣さん、お構いせんと大丈夫です。今日は渋谷さんに渡したいものがあって来ましたよって、すぐに帰りますのんで」
「僕に?」
 へえ、とジョンは頷いた。
 小脇に抱えていた封筒を差し出す。
「この間話してはった本です。これを渋谷さんに差し上げましょ思うて」
 少しだけ、部屋が暖かさを取り戻したように麻衣は感じた。
「別に急がなくてもよかったんだが」
「そうですけど、『善は急げ』言いますやろ? そう思ったら、早く渋谷さんにお届けしよう思いまして。──ほな、僕はこれで失礼します」
 ペこりと頭を下げ、ジョンは扉に歩み寄る。それからナルを振り返り、にっこりと言った。
「おめでとうございます、渋谷さん」
 ナルの眉がぴくりと動く。
(ジョンまでなんだ?)
 そのとき、カランと扉が開いた。
「あら」
「まあ」
 入ってきたのは綾子と真砂子だった。
 相変わらずのド派手な恰好と色彩豊かな着物である。
「ジョンも来てたの」
「へえ。松崎さんと原さんはご一緒に来はったんですね」
「たまたま駅でお会いしましたのよ。ですから、一緒に」
 澄ましたように真砂子が答える。
 そこへ、地を這うような声が聞こえた。
「皆さん、よほどお暇なようですね……」
 ひぃっと麻衣が小さく悲鳴を上げる。
(ナ、ナナナナルの不機嫌ボルテージ最高潮だよ!)
(う、うっさいわね、言い出しっぺはあんたでしょ! 用事済ましたらさっさと帰るわよ)
(え、ええ、今回ばかりは松崎さんのおっしゃる通りですわ)
 必死のアイコンタクトだ。
 綾子は己を奮い立たせ、できるかぎり常と同じ態度を取る。
「ちょっと麻衣を買い物に連れていこうかと思ってね。平日も休日もバイトなんて、たまには潤いも与えてあげないとねえ」
「そうですか」
「わたくしも同道させていただくことにしたんですの。それで麻衣を誘いに、ナルの許可をいただきに参りましたのよ」
 ナルの眉間のしわが深まる。ため息をひとつつくと、ナルは頷いた。
「──どうぞご勝手に」
「あら、ありがと。じゃ、行きましょ、麻衣」
「あ、う、うん!」
「ではナル、あたくしたちは失礼しますわね」
 その後はナルが思わずその素早さを調査で発揮しろと皮肉を言いたくなるほど、迅速な行動だった。
 礼儀正しく挨拶をして出ていくジョンに続いて、麻衣が一応礼を述べて出ていく。
 これでやっと静かになる、とナルが思ったとき、ふたつの口唇が言葉を紡いだ。
「おめでと、ナル」
「おめでとうございますわ、ナル」
 そして、カランと扉は閉まった。
 静寂がオフィスに降りる。
(……なんなんだ?)
 あともう少しで何かわかりそうな気がするが、まだわからない。だから不快だ。
 ともあれ、ようやく解放されたとソファから立ち上がったナルは、ふと壁に掛けられたカレンダーに目を留めた。
 数字を追って、気づく。
(……ああ)
 ──そうだ。今日、は。
 思わず瞑目したナルの耳に、またもドアベルの音が届いた。
「ただいま戻りました」
「……リン」
 視線をやった先に立つ長身の部下は、ナルの表情を見て微笑した。
「気づかれましたか」
「暇人ばかりだな」
 即答したナルに、リンは苦笑するしかない。
「あなたがそう言うであろうことがわかっていたから、皆さんああされたんですよ」
 九月十九日。
 今日はナルと──ジーンが生まれた日だ。
 一昨年、麻衣たちはナルの素性を知らなかった。ジーンの存在も。去年はジーンの葬儀から合わせ、そんな暇はなかった。
 だから、今年は。
 そう思ったものの、ナルの性格上誕生日だ云々のごたごたを好みはしないことを麻衣たちはよく知っていた。あれやこれや考え、この方法を思いついたのだ。
 日常の中に言葉を交え、さりげなく。
 ただ一言だけ、けれど確実な一言を。
「ナル」
 リンがナルを呼ぶ。
「誕生日、おめでとうございます」
 その言葉に、ナルは薄く笑んだ。


「いやー、やり遂げたなあ」
「ミッションコンプリートですねえ」
「あんたたちはのほほんとしてられるけどね、アタシたちが行ったときには機嫌悪かったのよまったく」
「もう少しうまく立ち回りたかったですわね」
「でも、渋谷さんにおめでとう言えましたんやし、これでよかったんとちゃいますやろか」
「そうだよ〜。ナルのことだから『余計なお世話』の一言に尽きそうだけどさ、やっぱり誕生日は『おめでとう』の一言が大事だよね」
 SPRのオフィスが入ったビルのエスカレーターの横で、麻衣たちは笑い合った。
「ま、だな。──んじゃ、俺はそろそろ本当に仕事行くわ」
「僕もおいとまさせてもらいます」
「じゃ、アタシたちもホントに買い物行っちゃいましょ」
「いいですわね」
「いいね、あたし秋物で欲しかったのあったんだ〜。今日だけ奮発しちゃお」
「買い物楽しんできてくださいね。僕はオフィスに戻ります」
「……幸運を祈ります」
「祈っててください」
「あ、実は綾子たちが何か飲むかと思ってグラスとか用意してたんです。それで、そのー、それもできれば……」
「片づけておきます」
「ありがとうございます!」
「リンさんによろしくお伝えくださいな」
「よろしくされました〜」
 そうして、麻衣たちは喧騒の中に姿を消していった。


「ただいま〜」 
 一人暮らしだろうと、麻衣は帰宅したら必ずそう口にする。
 帰ってきた麻衣は購入した秋服が入った紙袋を持ち、胸に一束の花を抱えていた。
 紙袋を玄関脇に置いて用意しておいた花瓶に買ってきた花を挿すと、麻衣はタンスに向かった。
 年季の入ったタンスの上に麻衣はそれを置いている。──ナルとジーンの写真を。
 花瓶を写真の隣に置く。
 麻衣は写真の中のジーンに向かって微笑んだ。
「誕生日おめでとう、ジーン」
 花を見つめ、麻衣は囁く。
「これね、サルビアって言うんだよ。ナルとジーンの、誕生花なの。花言葉は家族愛なんだって。ジーンとナルに……ぴったりだよね」
 表現はそれぞれ違っても、家族を大切に想う彼らだから。
 この花を捧げる。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 微笑む彼にそう告げて。
 麻衣は踵を返し、風を入れるために窓を開けた。
 窓から見えた夕焼けに目を細める。
「綺麗な夕焼けだなぁ……」
 夕暮れの涼風が吹き込み、写真の隣に飾られたサルビアを揺らした。


 彼が好まないことは知っている。
 煩わしいことも、騒々しいことも。
 興味があること以外は、一切無関心だということも。

 だけど、だけどね。
 ひとこと、一言だけ、言わせてね。

 あなたを祝福する、この一言だけは。



2010.9.19


 
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