神の名



 世界は平和に、そして少しだけ優しくなった。
 これから世界はもっと優しくなるだろう。
 優しい世界が永遠に続くわけではないけれど。そんな時は永遠に来ないだろうけれど。人が人であるかぎり。
 けれど、人は幸せを求めるから。明日を求めるから。
『悪逆皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア』の真実を知る者がいるかぎり、世界は優しい。


 ミーンミーンと蝉が鳴き、カッとすべてを焼き尽くすかのように太陽が照りつける。
 どこまでも豊かな緑が広がる田舎道を、麦わら帽子を被った一組の男女が歩いていた。
 若く見目麗しいようなのに、友人とも恋人とも、かといって夫婦とも見えない不思議な雰囲気を持っている。やがて女の方が口を開いた。
「暑い、ルルーシュ」
「夏だからな、当たり前だろう。それにルルーシュじゃない。いまはマーラだと何度言えばわかるんだ」
 女の言葉に男は不機嫌そうに答えた。
 麦わら帽子に隠れていてその表情はあまり見えない。けれど、自分の少し後ろを歩く緑の髪の魔女にため息混じりに訂正したのは間違いなく、数ヶ月前に命を落としたはずの少年、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだった。
 人々に『悪逆皇帝』と厭われ蔑まれ、『正義の味方』ゼロに討たれたはずの皇子。
 『枢木スザク』としての生を捨ててゼロとなったスザクに、ルルーシュは確かに剣で貫かれた。
 貫かれた場所は肺も心臓もある胸で、おびただしい量の血が流れた。そしてルルーシュは死んだはずだった。それなのに彼は名を変えて、いまここで確かに生きている。
 どうして助かることができたのか、それはルルーシュにもわからない。誰にも。魔女だけが知っていた。
 何度詰め寄っても、誰が詰め寄っても、どうして助かったのか、助けることができたのか、魔女は貝のように口を閉ざして教えてはくれなかった。
 スザクや咲世子のようにゼロレクイエムを知っていた者たちも、ナナリーやカレンのようにゼロレクイエムに気づいた者たちも、ルルーシュが生きていることを泣いて喜んだ。
 自分は生きているわけにはいかないのだと、そう叫ぶルルーシュを彼らは必死に説得した。
 生きてほしいと、きみに、あなたに。生きていてほしいのだと。そして、ルルーシュは生きていくことを選んだ。
 けれどルルーシュは『死んだのだ』。もう表で生きていくことはできない。だからルルーシュは世界の明日をスザクたちに託し、C.C.とともに身を隠した。ジェレミアとアーニャが経営する果樹園の近くに住まいを移して。
 ようやく訪れた平和な世界を噛みしめ、祈り。
 夏がめぐってきた。
 ふたりはジェレミアたちのところに向かっていた。バレンシアオレンジを収穫したので、ぜひ食べてほしいと連絡をもらったのだ。
「ああ、そうだったな。だが、私は暑いんだ。マーラ、なんとかしろ」
 ふてぶてしくC.C.は再度言う。まったく、C.C.は相変わらずだ。それもすでに慣れたことだけれど。
「仕方がないだろう、夏なんだから」
「お前は奇跡を起こす男じゃなかったのか?」
「気候まで変えられるか! まったく、ジェレミアのところについたらお手製のオレンジジュースでも飲ませてもらえ」
「あいつの? 私はそんなものよりピザの方がいいが、お前が言うのなら仕方がないな。そうするとしよう」
「ああ、そうしろ」
「しかしまた、お前は酔狂な名をつけたものだな」
「マーラのことか?」
「それ以外になにがある」
「それもそうだな」
 マーラとは釈迦が悟りを開くための禅定に入ったときに、瞑想を妨げるために現れたとされる魔神だ。魔王、マーラ・パーピーヤス。ほかにも漢訳はあるが、マーラの語義は『殺すもの』であるとも『死』の人称形とも言われている。パーピーヤスは『より悪いもの』だ。
 ほかにもまだ説はあるが、ルルーシュが自らにつけた名は明るいものではない。戒めのように。
 マーラという名を口にする度に、意味を思い出す度に、それはルルーシュの心を縛りつける。
 ルルーシュはふっと自嘲めいた笑みを浮かべ、C.C.を振り返った。
「似つかわしいだろう? 俺とお前、魔王と魔女。魔神、殺すもの、死。すべてが当てはまる。これ以上の名前はないだろう」
「ルルーシュ、お前は……」
 C.C.の顔に翳りが帯びるがすぐに消え、金の瞳がルルーシュを射抜く。
 ルルーシュは怯むように顔を逸らした。
「似つかわしくなどないさ。お前にマーラという名は似合わない。お前は優しい、優しすぎるから」
「C.C.、それは憐れみか? そんなもの、俺は……」
「憐れみじゃない、これは事実だ。お前は優しいんだよ、ルルーシュ」
 やわらかなその声音に、ルルーシュは弾かれたようにC.C.を見つめる。
 C.C.は一体なにを言っている。俺が優しいなどと、意味のわからないことを。
 俺のどこが優しいという。数多の命を奪い、血にまみれ、心を弄んできた俺の。
 そんなルルーシュの思考を読んだかのように、C.C.は語りかける。
「優しくなければお前のように命を賭けてまで世界を壊し、創り変えることなどできない。お前は自分の幸せも明日も捨て、他人の幸せと明日のために在ったのだから。そんなお前が優しくないというのなら、それこそこの世界に優しい人間などいないということだぞ?」
 大げさに聞こえるが、こうでもいわなければルルーシュは認めようとしない。自分が生きていていいことを。
 確かにルルーシュの犯した罪は重い。ルルーシュのせいで大切な人を亡くした人も、ギアスによって名誉を失った人も、命を喪った人もたくさんいる。だが、ルルーシュによって救われた人も確かにいるのだ。
 両極端な言葉だとは思う。だが、それくらいでないとルルーシュは受け入れてくれないだろうから。
「C.C.……」
「お前は生きていていいんだ。それは枢木スザクが、ナナリーが、カレンが、咲世子たちが望んでいることだ。そして私も。聞いただろう? あいつらの叫びを、言葉を」
「……ああ」
 ルルーシュは頷いた。耳に彼らの声が蘇る。

 ──罪だと言うのなら、死ぬことが贖いだと言うのなら、逆に生きて贖え! 俺に『生きろ』というギアスをかけたように、俺もお前にそのギアスをかけてやる! 生きろ、ルルーシュ! 明日を生きるんだ!
 ──お兄様の想いは私たちが引き継ぎます! だからお兄様は見守っていてください! 私たちがまた間違えそうになったら、お兄様が正してください! あなたにすべて背負わせておきながら、勝手は承知しています! でもこれがあなたの生きる意味になるのなら……私はお兄様がいてくださるだけで、生きていてくださるだけでいいんです! いいえ、生きていてほしいんです!
 ──生きなさいよ、ルルーシュ! 逃げるなんて卑怯だわ! 私には『生きろ』って言ったくせに、あんたはさっさと逝こうとするなんて! もういいから! あんたは『ゼロ』を、『悪逆皇帝』を最後まで演じきってくれたわ! 私たちに、私に未来をくれた! 日本をくれた! ありがとう、ルルーシュ! 疲れたんなら休んでもいいから! C.C.とピザでも食べてさ……だから、だから生きなさいよ! 明日を!!

「──そうか。俺に、マーラという名は似つかわしくないか」
 ルルーシュは泣き笑いを浮かべた。
「ああ、似つかわしくないな。全然駄目だ」
「なら、どんな名前がいいと思う?」
「私に訊くのか?」
「人がつけた名前にケチをつけたのはお前だろう?」
 ルルーシュはイタズラが成功したかのように笑いっていた。
 C.C.はくるりとルルーシュに背を向けた。しばらく待てと魔女の背中が言っている。
 待つことわずか数分、C.C.が肩越しに振り返ってニヤリとほくそ笑んだ。
「C.C.?」
「考えたぞ。素晴らしい名だ、私に感謝しろ」
 そしてC.C.はその名を告げた。

「ブラフマー」

 世界を壊し、世界を創り変えたルルーシュにふさわしい、神の名だ。

「ブラフマー、か。語呂がよくないな」
「だが、神の名だぞ? それに、マーラよりはお前にふさわしい名だ」
「そう、か……」
 苦笑を浮かべ、頷きかけたそのとき。
「ルルーシュさま!」
 真名を呼ばれた。
 振り返り、まっすぐに前を見据える。
 視線の先には荷車に乗ってやってくるジェレミアとアーニャの姿があった。
「まったく、ルルーシュと呼ぶなと何度も言っているのに。誰かに聞かれたらどうするんだ」
 言葉とは裏腹にその顔は明るい。この辺りに人はいないことがわかっているから。
 苦笑をこぼし、ルルーシュは歩き出す。C.C.もまた。
 近づいてくるジェレミアとアーニャの姿。ルルーシュを認めたジェレミアの顔には笑みが浮かんでいて、アーニャは相変わらず無表情だったけれどどこか嬉しげで。
 それはルルーシュに、生きていてもいいのだという確信めいたものをもたらしてくれる。
 C.C.の言ったとおりに。
「──ありがとう、C.C.」
 それは本当に小さな声で、聞き逃してしまいそうだったけれど。しっかりとC.C.の耳に届いた。
 C.C.は静かに微笑み。
「やけに素直だな、ぼうや」
「うるさいぞ、魔女」
 がらがらと響く轍の音と、苛烈な大陽の輝きと蝉の声。
 それらを聞き、感じながら、神の名を与えられた少年は魔女に言い返した。



初出 2008
修正 2013.10.16


 
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