「十年、待つから」
 曇天の空から雨が降りしきっていた。傘も差さずにいた彼はずぶ濡れで、少しためらってから少女の壊れそうなほどに華奢な身体を抱きしめた。濡れた地面に膝をついて、まるで万感の想いを伝えるかのような抱擁。そしてもう一度、囁いた。
「返事は、十年後に聞くよ」

 それまで、さよならだ。


十年後のラプソディー


 ピピピ、と音を立てる目覚まし時計を、哀は据わった目で止めた。のっそりと起き上がる。早起きは苦手ではないが、もとが夜行性なだけにどうしても低気圧になってしまう。
 のそのそとベッドから下りて、中学生になると同時に与えられたひとり部屋で伸びをする。制服に着替え、鞄をリビングに放り込んでから洗面所に向かった。身支度が済むと、朝食と阿笠の昼食、それから自分の弁当を作り、新聞を取って、それを読みながら阿笠の起床を待つのが彼女の日課だった。
 今日もいつものように新聞をめくって、指はそこで止まった。食い入るように紙面に躍る名前を見つめる。

『工藤新一、パリにて迷宮入りの難事件を解決』

 ──昔と違って、彼がメディアに露出することはあまりない。だからこうして彼の軌跡を目にするのは久しぶりだった。工藤新一。この四文字から目を離せない自分に気づいて、哀は自嘲の笑みを浮かべる。
「あんな勝手な人のこと気にするなんて、私って馬鹿ね」
 全部自分の言いたいことだけを言って、哀には何も言わせず、目の前から消えてしまった人。
 哀は十年前のあの日のことを、高校生になったいまでも昨日のことのようにはっきりと思い出せる。忘れるわけがない。新一と会った、最後の記憶なのだから。
 黒の組織を壊滅させたあと、解毒薬は無事に完成した。哀は新一が無事に戻ったのを確認し、その後の経過も順調なことを見届けると、すべてのデータをこの世から完全に消し去った。
 そのことに動揺したのは、ほかでもない新一だった。
「お前……なんで……っ!」
「……最初から、こうすると決めていたの。宮野志保はアポトキシンを飲んだあの日に死んだわ。私は、これからを灰原哀として生きていく」
 新一はそのあとも何か言いたそうにしていたが、最終的には納得してくれた。
 自分で選んだ道だったのに、最初は少し寂しく思ったものだった。これでもう、新一の隣に対等に立つことは二度とないのだと。高校二年生の彼と、小学一年生の哀の、その圧倒的な差。
 実際、もとに戻った彼は復学し、みるみるうちに渇望していた生活を取り戻していった。蘭と正式に付き合うことになったと告げたときの、幸せそうな顔といったら。
 ふたりの生活サイクルの違いは、そのままふたりの距離になっていった。最初に感じた寂しさも薄らぎ、哀も新しい人生を前向きに生きていこうと決意した、一年後の出来事であった。
 雨が降っていた。その日は、帝丹高校の卒業式の日だった。
 せっかくの日なのに残念だが、翌日にでも何かお祝いを作ってあげようと考えていた。さすがに当日は蘭たちと祝うだろうし、でも息子のように思っている新一の門出を阿笠も祝いたいだろうと思ったからだ。本音を言えば、哀も少しだけ、祝ってあげたかった。
 だから明日のための食材の買い出しにでかけようと阿笠邸を出た哀の前に、ずぶ濡れの新一が立っていた。
「工藤くん!?」
 哀は驚いて、とっさにやるべきことが見つからなかった。すぐに思い立って彼を中に入れようと雨に濡れて冷たい手を引っ張ったけれど、当の新一が動こうとしない。小学生では高校生を引っ張れない。そんなときばかりもとに戻らなかったことを歯痒く思ったりして、そんな自分に嫌気が差しながらも懸命に新一を引っ張った。だのに彼は動かない。
「工藤くん……!」
 苛立ち混じりに再度彼の名を呼んだ、そのときだった。
「灰原……」
 新一が哀を呼んだ。ひどく切ない声で。
 思わずやるべきことも忘れ、その場に立ち尽くす。見上げた新一は、泣きそうな顔で微笑んでいた。
「工、藤くん……?」
「俺さ、オメーが解毒薬は飲まないって知ったとき、結構ショックだったんだぜ」
 雨に打たれながら話し始めた新一に異様さを感じ取ったものの、哀にはどうすることもできない。ただ彼の話に耳を傾ける。
「勝手だけどな、なんとなくオメーは、もとに戻っても俺のそばにいてくれるんだと思ってた。一緒に事件を解決したりして、憎まれ口叩き合ったりして……不思議だよな。もとに戻って、蘭のところに帰るんだって思ってたのに、俺、そんなことも考えてた」
 新一の手が伸びて、哀の手をつかんだ。
「俺、気づいちまったんだ。……オメーが好きだってことに」
「な……!?」
 言葉を失うほどの衝撃だった。息が詰まる。
「……何を言ってるのよ。あなたには、蘭さんがいるでしょう? 彼女と付き合うことになったって、あんなに嬉しそうに私に報告したの、忘れたの!?」
「蘭とは別れたよ。一ヶ月前にな」
 何がなんだかわからない。──哀は、確かに新一が好きだった。それはいまでもそうなのだと思う。けれどあの優しい彼女を泣かせてまでどうにかなりたいと思うほどではなかったし、そんな覚悟もなかった。いつしかゆるやかに彼への想いも移ろっていくのだろうと思っていたのに、まさかこんな。
「……そんな顔、すんなよ。悪ぃ、お前を困らせるつもりはなかったんだ。ただ……最後に、お前に俺の気持ち、言っときたくてさ」
「最後……?」
 混乱する哀に、新一はさらなる追い討ちをかけてくる。
「俺、留学する。数日中には日本を発つよ」
「な……によそれ。わけがわからないわ!」
 思考が追いつかない。何も知らない。何を勝手に話を進めていくのだろう、彼は。
「灰原」
 もう一度、新一が哀を呼んだ。やっぱり切なげな、いとおしげな声で。
 いつの間にか哀は傘を取り落としていて、全身を雨に任せていた。
「十年、待つから」
 言って新一は、少しためらうようにしてから跪いた。哀を抱きしめる。優しく、けれどしっかりと。
「返事は、十年後に聞くよ」
 茫然と新一の肩越しに曇天の空を見つめていた哀の耳に、その言葉は忍び入ってきた。
「……それまで、さよならだ」
 囁くと新一は哀を離し、立ち上がって踵を返した。
「待っ……!」
 待って! と口をついて出かけた言葉を飲み込む。呼び止めて、それで哀は何を言うつもりだ。
 時間が必要だった。少し考える時間が。明日。明日になったら、もう一度ゆっくり話そう。
 ……けれど。
 翌日から哀は高い熱を出し、数日寝込むことになった。そうして床上げできるようになったときにはもう、工藤新一は日本を発っていた。一応阿笠には挨拶していったようだが、西の名探偵などは何も知らされておらず、哀と同じように茫然としていた。
 それから、十年。新一は一度も日本に帰ってきていない。いや、もしかしたら帰ってくることもあったのかもしれないが、少なくとも哀の前に現れたことは一度もない。
 新一は世界を転々としながら探偵を続けている。どこにいたとしても、彼は結局探偵なのだ。そのことに哀は安堵めいたものを感じている。
 哀は新一の記事を指でゆっくりとなぞった。
「好きなんです。灰原さんのことが、昔から」
 光彦からそう告白されたのは、ほんの数日前のことだった。
「ずっと灰原さんのことを見ていました」
 ふたりきりの教室に夕日が差し込んで、言わばムード満点。哀は動じることなく、ありがとうと答えた。
「気持ちは、嬉しいわ。でも」
「……やっぱり、僕じゃ駄目なんですね」
 光彦のさみしげな微笑に、哀はそっと瞳を伏せる。
 少年探偵団は哀にとって、本当に本当に大切な存在だ。それはもう聖域のようなもので、決してぶれることなく哀の胸にある。
「あなたの心にいるのはコナンくんですか? それとも……新一さんですか?」
 哀はそこで、初めて動揺した。
「円谷くん、あなた……!?」
 そのことに光彦も気づいたようで、少し首を傾げながら続けた。
「……言ったでしょう? 灰原さんのこと、ずっと見てたんです。だから灰原さんが誰を追っているのかもわかります」
 そうして、邪気のない笑顔を見せた。
「彼のことを灰原さんがどんなに好きかも、だからわかっちゃうんですよ。応援しますからね、僕は。絶対幸せにならなきゃ駄目ですよ?」
 ──あんな、勝手に言いたいことだけ言って、哀には何も言わせてくれないまま姿を消した男より、光彦の方が何倍にもいい男だ。それがわかっても、結局哀が好きだと思う相手は今も昔も変わらないのだ。哀の女としての幸せは、東洋のシャーロック・ホームズとともにある。
「私の気持ちなんてずっと前に決まってるんだから。……早く帰ってきなさいよね、馬鹿」
 哀は愛情込めて、新聞をぐしゃりと握り潰した。


 朝食が終わり、阿笠への健康指導が終わってから灰原は玄関に向かう。玄関を開けると、雨が降っていた。
「隠喩的ね……」
 くすりと笑って、灰原は傘を広げた。
 ふっと門の方を見やって、どきんと鼓動が跳ねた。
 曇天の空から雨が降る。その中に、傘も差さずに門柱に背を預ける人影。
 ──まさか。
 バシャッと雨水を跳ね上げて、哀は人影に走りよった。
「工藤くん!」
 その声に新一はゆっくりとこちらを向いて、雨に濡れたその顔を見せた。にかっとどこか子どもっぽく笑う。
「よお、灰原。久しぶりだな。綺麗になったじゃねーか」
「……何よ。ちっとも姿を見せなかったのはあなたの方じゃないの」
「悪ぃ。……それくらい離れてみて、それでもお前が好きかどうか、知りたかったんだ。結構さみしいもんだったよ、お前がいない毎日は」
「自業自得でしょ。人の話も聞かないで、何も言わせず勝手に行っちゃったのはあなたなんだから」
「わかってる。──なあ、灰原」
 新一の声に真剣身が帯びる。深いブルーの瞳が哀を映す。
 ああもう、本当にしょうのない人ね。
「返事、聞きに来たぜ。……聞かせてくれよ、あの日の答え」
 哀は答えなかった。言葉では。
 傘を放り出す。全身を雨に打たれるままに、哀は新一の腕の中に飛び込んだ。




2014.8.25


 
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