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猫化



私には、憧れの人がいる。
正確には憧れている“キャラ”であり、この字面からお察しの通り、私の憧れの人はとある漫画に登場する主人公の男の子なのだ。

私はそれほどアニメや漫画には詳しくないけれど、オタクの友達が強くおすすめしてくれたから気になって電子書籍で買ってハマったのがきっかけだった。
飛び抜けてイケメンというではない。どっちかと言うと地味で素朴などこにでもいるような男の子だけどその子には超能力という特別な力を持っていて、だけど、決してその力を振りかざさず、力に驕らず、溺れず、強力な力と向き合っているような芯の強い子だ。


影山茂夫くん。通称“モブ”くん。
私が好きなキャラの名前である。

超能力を無闇に使いたくないモブくんの意志とは裏腹に色んな出来事に巻き込まれていき、それらを通じて色んな人たちと出会い、一人一人が持つ考えや価値観などに翻弄されつつ、様々な感情を抱きながら成長していく話である。
そんなモブくんに私は感情移入して泣いたり、笑ったり、同じように考えさせられたり、そして、モブくんの言葉、彼の師匠である霊幻新隆の言葉に漫画を通して私の心は救われていたんだと思う。

モブくんのようになりたい。モブくんのような強い人になりたい。モブくんのような生き方がしたい。霊幻新隆がモブくんに言ったようないい奴になりたい。憧れは強くなるばかりで、もし現実にサイコヘルメット教があったなら私は迷わずに入教していただろう。それほどまでに私はモブくんに対して強い感情を持っていた。
もはや崇拝にも近い憧れだ。ズブズブとモブくんにどハマりしていく様を私の友人は面白そうに、けれどここまで私がハマるとは思っていなかったらしく軽くドン引きしながらも日々モブくんについて熱く語る私を暖かく見守ってくれていた。


…見守ってくれていたはずなんだけどなぁ。


「ねぇ律、猫って何食べるの?」

「目は空いてるけどまだこんなに小さいから、ミルクとかの方がいいんじゃない?」

「そっか、じゃあ牛乳持ってくる」

「いいよ、兄さん。僕が取りに行ってくるから、兄さんはその子乾かしてあげて」

「ありがとう、律」


ぱたん、とドアが閉じられたのと同時に暖かい温風が私の体をつつみ、おずおずと緊張気味な大きな手が背中に触れた。

私は夢を見ているのだろうか。いいや、きっとこれは夢だ。夢に違いない。じゃないと大好きな彼にこんな風に優しく背中を撫でられ、あまつさえ体を乾かしてもらえるだなんてありえない。

低い視線。色の少ないぼやけた視界。毛むくじゃらの体。そして何より、私の背中を撫でるのは私が憧れてやまない大好きなモブくん。

私は今、猫である。何言ってるのかさっぱり分からないと思うけど、正直な話、私も何一つわかっていない。だって、気付いたらダンボールの中で、雨が降りしきる狭い裏路地にぽつねんといたのだから。
いや、そりゃあモブくんの猫になりたいなぁなんて思ったことは正直何回かあるけども、だとしてもよ。
いや、嬉しいよ?嬉しいんだけど実際に本当に猫になってしまうとそれはそれというか。

こうして猫になるまでの経緯はおろか、記憶すらない。あの路地裏で1人、寒くて、冷たくて、どうなっているのか、どうしたらいいのかわからなくてこのまま死んでしまうんじゃないかっていう恐怖にミーミー鳴いているところに現れたのがモブくんだった。


「熱くない?」

「みゃあ」

「そっか」


大丈夫だよ、と言ったつもりだったけれど、私の口から発せられる言葉はどこまでも猫の鳴き声だった。せっかくモブくんが近くにいるのに言葉を交わすことはできない。当たり前だ。私は今猫で、モブくんは人間なんだもの。こうして好きなキャラと出会えたのならお話ししてみたいとか、握手してとか、そんな欲が出てくるわけだけど、生憎どれも無理な話であった。悲しすぎる。


「ん…こんなもん、かな…?」

「兄さん、牛乳持ってきたよ」

「ありがとう」


ほら、飲みな。
浅い器に注がれた牛乳が目の前にことり、と置かれる。ほんのりと湯気がたっているのを見ると、わざわざわざわざあたためてくれたらしい。猫ってあったかいもの飲んでも大丈夫なのだろうか…。
それと、この牛乳が私のために用意されたことは嫌でもわかる。わかる…けど、だけど、私はさっきまで人間だったんだ。今は猫になってしまってはいるけれど、だとしても、それでも犬猫がするような感じで牛乳を飲むことは憚られた。なけなしの人間としてのプライドだ。
「飲まないね…」「警戒してるのかも」中々牛乳を飲まない私に不安そうに、心配そうに眉を下げる影山兄弟に果てしなく申し訳なくなってきた。いたいけな少年たちにこんな顔をさせてしまっているのが私だという事実が心臓を突き刺す。
…仕方ない、これはそう、どうしようもなくお腹がすいたから。いたたまれないとか、そんなんじゃない。せっかくの好意を無下にしたくないだけ。

なんて、誰も聞いていないであろう言い訳をつらつらと胸中で並べながら牛乳に顔を近付け、ぺろり、ひと舐めしてみた。


「あッ、飲んだ!飲んでくれたよ、律!」

「よかったね、兄さん」


ああああ……尊いかよこの兄弟…。一口飲んだだけでこんなに喜んでくれるならいくらでも飲んであげるよ…。人間云々のプライドは早々にどこかへ行ってしまった。
口が小さい分少しづつではあるけれど、どうにか不慣れな中一生懸命に牛乳を飲んでいるとそれだけで嬉しいのか「よしよし」「まだいっぱいあるからね」なんて言うものだから、調子に乗ってしこたま飲んでしまったのはまた別の話。


「かわいいね」

「そうだね。…でも、どうするの?」

「どうするって?」

「お腹を空かせてたとはいえ餌付けまでしちゃったし…元の場所に返すって言ったって…」

「え…そ、それはさすがにかわいそうだよ…。飼うって言ったら、お母さん怒るかな…」

「さぁ…言ってみないとわからないけど…」


…あぁ、これから私をどうするかで悩んでるのか。できることなら私はここで飼われたい。だって、推しの家だよ。いたいじゃん普通に考えて。だけどそれで困らせてしまうのは本望じゃない。モブくんのお母さんがダメだと言うのなら潔く出て行って人間に戻れる方法を探すしかない。…そんなものあるのか謎だけども。


「…説得してみる。だって、こんなに小さな子猫をまた放りだすなんてできないよ」

「…兄さんならそう言うと思った。仕方ない、僕も母さんたちを説得するよ」

「いいの?」

「もちろん」


よかったね、お母さんたち説得するの律も手伝ってくれるって。
なんて笑いながら私の頭を撫でるものだから、どこまでも優しくてあったかいモブくんの手のひらに泣きたくなってしまった。
さっきは人間に戻る方法をって思ったけど、このまま猫になったままモブくんたちに飼われるのも悪くないかもしれないな、なんてゲンキンな私は思ったり思わなかったり。



後日、私の首に鈴がついた赤い首輪が着けられていることは今の私はまだ知らない。