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まるで大地が揺れたような音だった。大部屋の配膳やら姐さんたちのお色直しに忙しなく動いていた矢先の出来事で、あまりにも大きく轟いた音にその場にいた全員が固まった。


「な、何…?今の音…」


恐る恐る、と言ったように芸妓の姉さんが呟く。音からして北の部屋。何だか嫌な予感がした私はその場にお膳を置いて部屋を飛び出した。
何事かと部屋から顔を覗かせている姐さんたちを押し退けながら走って、辿り着いた先で目の当たりにした光景に絶句する。
吹き飛ばされたかのように散乱する襖や小道具と、廊下に佇む蕨姫姐さんに床に額を擦りつけんばかりに頭を下げる旦那さんと、向かいの部屋に顔中から血を流して気絶している善子ちゃんを見て血の気が引いた。


「ぜ、善子ちゃん!!」


慌てて駆け寄って抱き起こす。呼吸はあるものの、血を吐いたのかべったりと口周りに付着した血が、一体どれ程の力で殴られたのかを物語っている。「冬姫」淡々と私の名前を呼ぶ蕨姫姐さんを睨みあげた。


「あんまりだよ姐さん!!善子ちゃんまだ入ったばかりなのに!!」

「その子があたしの癪に触るような事をするからじゃない」

「だからって…!こんな力いっぱい殴る事ないでしょ!?」

「…随分庇い立てするんだね、冬姫」

「ッ…だって、善子ちゃんは私の…お、お友達…」

「…へぇ」


瞬間、蕨姫姐さんが纏う空気が変わった。心臓が縮み上がりそうな程冷えきった空気に、蛇にでも睨まれたような錯覚に陥る。そこで初めて、私はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる蕨姫姐さんが怖いと思った。
ぴたり、私と善子ちゃんがいるすぐ側で姐さんが足を止める。善子ちゃんを抱く腕が震えて、だけどそれを姐さんに悟られたくないと思って無理矢理に抑え込んだ。


「あんた、あたしが言った事を忘れたの?」


冷たい、冷たい、氷みたいな声だった。


「自分がされた事も、言われた事も忘れて、また同じ事を繰り返して、お前はいつからそんな愚かな娘になったんだい?」

「…善子ちゃんは、あの子たちみたいな事しないよ…きっと」

「無理ね」

「ッ…」

「何度期待した?今度こそ、今度こそってくだらない希望を持って、いざ面と向かってみればどうだった?思い出しな。お前が何を望んで焦がれたとしても、お前を望んで焦がれる人間はいない。所詮人間なんて皆同じなんだよ」


唇を噛んだ。だって、蕨姫姐さんが言う事は全部正しかったから。今でこそ京極屋の姐さんたちは私の事をかわいがってくれるけれど、それは“今”だからこそだ。私の幼少期を知る遊女はもういない。だから、ここで働く遊女や禿、男衆たちは今の私しか知らない。…旦那さんと、女将さんと、蕨姫姐さんを除けば。
旦那さんは私の事を気にかけてはくれるけれど、それでも目の奥に燻る恐怖や畏怖の色があることを知っている。唯一女将さんだけが…お母さんだけがありのままの私を好きでいてくれた。愛情をたくさん注いでくれた。
……だけど、その女将さんももういない。死んじゃった。

俯けば、かわいいお顔を血で汚した善子ちゃんが目に入る。…願うだけ、祈るだけ無駄なんだろうか。善子ちゃんなら大丈夫って、本当の私を知っても受け入れてくれるかもしれないって縋りついた私は、きっと自分の都合のいい事をしている。


「あたしだけだよ」


蕨姫姐さんの冷たい手が頬に触れる。そのまま顔を上げさせられ、目が合う蕨姫姐さんの不思議な色彩の瞳に囚われるようだった。


「あたしだけがお前をわかってやれる。あたしはお前を恐れたりなんてしない。思い出してごらん。いつだってそうだっただろう?」


姐さんの声も、目も、気配も、まるで蜘蛛みたいだ。じわりじわり追い詰めて、気付けば全身を雁字搦めにされている私は姐さんの蜘蛛の巣に引っかかる獲物だ。
蕨姫姐さんは間違っていない。私を本当に思ってくれているのは、もういない女将さんを除けば彼女だけなのだから。


「………………うん」


だから私は頷いた。結局は自分の保身のためだ。自分から求めたくせに、手放して、なかった事にして。本当…嫌な人間だ。偽善者だ。
腕に抱く善子ちゃんをそっと畳に横たえる。本の少し過ごしただけだったけど、善子ちゃんと一緒にいた時間はすごく楽しかった。この思いに嘘はない。震える足を無理矢理動かして、ゆっくり後ずさって、それで…


「ごめんなさいッ…!!」


私はその場から逃げ出した。