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いち




高校進学と同時に、私は住み慣れた街を離れた。というのも、同時期に父親の転勤が決まったため、それに合わせて私が高校を地元じゃない別のところを受験したのだ。
新しい家。新しい街。新しい学校に胸を膨らませながら、荷解きを程々に私は早々に街に繰り出し、何となしに入り込んだ路地裏の先で見つけた赤い建物に興味本位で入り込んでしまったのが事の始まりであった。

建物をくぐり抜けた先には、昼間にも関わらず誰もいない、閑散とした店々が立ち並ぶばかり。
どれもこれも、全部食べ物屋ばかり。美味しそうな匂いが鼻をくすぐるものの、どうにも食べるになれなくてそのまま町を素通りした。

変なところだなぁ、なんて思いながら町を歩いていると大きな橋が現れた。映画村なんかにありそうな立派な橋だ。その橋の向こうに、お城かと思うほどこれまた大きな建物が聳えていて、私は吸い寄せられるように橋を渡った。
誰かに呼ばれているみたいだった。こっちにおいでと、手招きされているよう。意識はあるのに、どこか薄らぼんやりしていて、橋の下を電車が通り抜ける音を聞きながら“油屋”と書かれた暖簾が下がる建物の中にふらふらと脚を踏み入れた。

それを境に、私はそこから…否、“この世界”から出ることができなくなってしまったのだった。





この世界に迷い込んで早半年。私は産屋敷と言う方の計らいでこの湯屋で働かせてもらっている。後から蛞蝓女たちに聞いたのだけど、働く際に契約書にサインをして名前を奪われる、までがワンセットらしいのだけれど、どういうわけか私は名前を奪われずに羽炭のまますごしている。

ここは産屋敷湯屋。八百万の神様たちが疲れを癒しに各地からやって来るお湯屋だ。

初めこそよそ者だの、人間だのと冷たく当たってきていた蛞蝓女や蛙たちも、今では軽口くらいは言い合えるくらいにはなれたと思う。…まぁ、それでも未だに当たりがきつい人とかは少なくはないのだけれど、その程度で心が折れる私ではない。仲良く、とまではいかなくとも、それなりに話くらいできるようにはなりたいな、とは思う。

……私は、いつまでここにいればいいのだろうか。ふとした瞬間に考える。言われるがままにここで働いてはいるものの、私はこの湯屋に何か借金があるわけでも制約を結んでいるわけでもないのだから、帰ろうと思えば帰れる。…はずなのだけど、どういうわけか産屋敷様は私をこの世界から出してくれない。どうして出してくれないのか。そして、向こうでは私はどういう扱いになっているんだろう。行方不明?失踪?それとも…自殺…?
ぶんぶん、首を振った。考えたって仕方がない。帰りたいと想う気持ちはあるけれど、それと同じくらいにここでの生活を存外気に入ってたりする私がいる。


「急げ!準備しろ!」

「札はどこだい!?あれがないと汚れが取れないんだよ!」

「おい、羽炭!こっちを手伝ってくれ!」

「はぁーい!」


蛙に呼ばれてしまった。手早く袖をたすき掛けして袴の裾を絞る。表の灯りがともるまでそう時間がない。急いでお湯を張らないと。


「番台!薬湯の札ちょうだい!」


ここは湯屋。神々が集う人ならざる異界の一角に聳える天楼で、今日も私は元気に働いているのだった。