前世の話はもうしない
さわさわ。さわさわ。風が吹く度に足元の草花が揺れる。草履越しに踏みしめる土はふかりと沈み、柔らかい。
「ここは…ーー」
俺はなぜ、こんな所にいるのだろう。
今に至るまでの前後の記憶がひどく曖昧だ。見上げると、紺碧の夜空に砂金を撒き散らしたような夥しい数の星々が瞬いている。見上げた夜空も、鼻をくすぐる草原の匂いも、吹き抜ける風の暖かさも、どれもみな本物で、それでも、今自分は“ここにいるべきではない”事は何となくわかった。
一歩、足を踏み出す。
どこに行けばいいのかなんてとんと見当もつかないが、“行かなければいけない”と言う焦燥感が体を動かした。
行く宛てなんかない。ただふらりふらりと足を動かす。
そうして歩いていると、前方に人影が見えた。白い髪を纏め、きっと豪華であろう装束に身を包み、佇むその人はこちらに背を向けてぼんやりと月を眺めていた。白銀の満月だった。
「あぁ、来たのか」
ふとこの場に俺じゃない誰かの声が響く。男とも女ともわからない、どこかで聞いた事のある中性的な声だった。
その声の主ーー目の前のその人を見て、目を見開く。
「アリス…?」
その人は、俺が知る白い少女と全く同じ顔をしていた。
「いや、俺はあいつではないよ。あいつが俺の顔を真似ているんだ」
こっちにおいで。
白いその人に手招きをされるがまま隣に立つ。ちょうど俺たちが立つ場所より先は崖になっていて、どこかの国なのか、街なのか、それでも広くて煌々と明かりがつくそこを見下ろせるようになっていた。
「お前がここに来ることは、何となくわかっていた」
「…ここはどこなんだ?前後の記憶も曖昧だし、夢にしてはどれも匂いが本物だ」
「現実さ。そうだな…強いて言うなら、お前の魂をしばし拝借しただけの事」
「た、魂を拝借って…」
死ぬのだろうか。一瞬そんな考えが頭を過って変な風に心臓が鳴ったが、目敏くそれを見つけたその人は「死なんわ、馬鹿め」と呆れたように吐き捨てた。
だとしても、魂を拝借されたって聞いたら誰であろうと狼狽えるだろう。思ったけど言わなかった。
「ここは現実だ。それと同時に夢でもある。言うなれば、比較的夢に近い現実と言ったところか」
「あの…あまりよくわからないんだが…」
「わからなくてもいい。お前はここに長くいるわけではないのだから」
「……あなたは、誰なんだ…?」
「誰だっていいだろう」
どうやら答えるつもりはないらしい。はぁ、と小さくため息を吐く。「……あいつは」ぽつり、呟いた“あいつ”が誰だかわからなかったけれど、その次に続けられた言葉にようやく合点がいった。
「あいつは兵器だった。神が俺を殺すためだけに生み出した泥人形は、世界をも滅ぼしうる災厄の核だった。エヌマ・エリシュをファウストローブとして纏う事で、想い出と称される脳内の電気信号を戦う力へと錬成し、兵器たらしめる力をさらに増幅させている」
「想い出…?」
「文字通り、自身が見て、聞いて、触れてきた記憶だ。お前にもあるだろう」
「それが燃えると、どうなるんだ…?」
「消えてなくなる。当然だ。燃やしているのだからな。紙が燃えると灰になるだろう。同じ事さ」
「そんな…それじゃあ、アリスの今までの想い出は…!俺と、俺たちと過ごしてきた想い出も…!」
「消えるだろうな」
なんて事ないように言うこの人に怒りが湧き上がる。…だけど、よく見てみるとこの人の手はきつく握りしめられていて、悔しいとか、そういった匂いが鼻を過って、俺の怒りはすぐに鎮火した。なんて事ないわけ、ないんだ。俺も、この人も、悔しい。
「…あの子は、兵器じゃない」
「そうだとも」
苦し紛れに言い放った言葉。だけど、先程と同じような感じで肯定したこの人に思わず顔を向けた。
「何を驚いている?お前が言ったんだろうが」
「いや、まさかそんなあっさり肯定されるだなんて思ってなかったから…」
「俺が肯定せずに誰があいつを肯定する。…神はあいつを“兵器”であり“呪い”と定義したが、俺は逆に“祝福”であると概念付けた。かつてこの世界に立ちはだかった災厄は、ただの幼い少女であると」
「でも、神様なんだろう?神様はたった一人じゃなくて、何人もいる相手にその認識は覆るのか?」
「変なことを聞くんだな、お前は」
「変、だろうか…」
「変だとも。…そもそもの話、相手が多いからとか自分はただの一人だとか、人数で比べる時点でもう負けている。例え一人であったとしても、その一人の想いが神々の思惑に負けると誰が言った?」
まさに目から鱗。一人より二人、二人より三人、それでもだめならもっとたくさん、鬼と戦い続けるにつれ自然と身についた考えだったが…そっか…
ーー『俺と禰豆子の絆は!!誰にも断ち切れない!!』
いつの日か累に言った言葉だ。きっと、そういう事なのだろう。
一度きつく目を閉じて、前を見据えた。俺がやるべき事はわかっている。
「行かなきゃ」
くるり、踵を返す。漠然と、行かなければと思った。どこへ、なんて、確認せずともわかる。あの子のところに、行かないと。
「おい」
数歩進んだところで、不意に呼び止められた。振り返ったと同時に投げて寄越されたのは古びた石版で、なぜ今これを渡されたのかわからずに疑問符を頭上に飛ばした。
「本来エヌマ・エリシュは、世界のあり方を記録した聖遺物だ。七つあるうちの一つだけだが、取り上げていたのがここで役に立つとは思わなかったがな」
「どうすればいい?」
「自ずとわかるさ」
「…なら、一つだけ、聞かせてくれないか」
「なんだ」
「どうして俺に力を貸してくれたんだ?」
ずっと疑問に思っていた。ナンムの中に入った時も、蛇と対峙した時も、暗闇の中に道を示してくれた時も。
アリスと同じ顔をしたその人は鳩が豆鉄砲を食らったみたいにぽかん、と呆けたあと、声を高らかにして笑った。こっちは真面目に聞いているというのに、なんで笑うんだ。「いや、悪いな!なぁに、お前が実にしょうもない事を聞いてきたものだからついな!」しょうもないって言ったぞ、この人。
「では逆に問おう。お前は友を助けるのに理由を持ち出すのか?」
「!!」
「あいつを助けるためにはお前の力が必要だった。それだけの事だ。……もういいだろう、行け」
「…あぁ!」
踵を返し、駆け出した。もう振り返らないし、呼び止められる事はない。行くべき場所も、やるべき事もわかっている。あとは、会いに行くだけだ。
駆け抜ける草原が少しずつぼやけてくる。朝日に白んでいるわけではない。世界が少しずつ空気に溶けるみたいに輪郭がなくなっていく。
「俺が手を貸せるのはここまでだ。あとは、今を生きるお前たちでなんとかしろ」
遠のく声を聞きながら、俺は真っ白な光の塊に飛び込んだ。
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