君のその手のぬくもりを
怪物の中は、ただただ暗かった。じっとりとした深い闇の匂いは、いつか対峙した累の心の匂いによく似ていて、胸が握り潰されるようだった。
夜の海のようなそこを沈めば沈んでいくほど鼻が利かなくなる感覚に眉を顰めながら、けれど、それでもこの中からアリスを見つけるべく進み続ける。
「アリス!どこだ、アリス!」
この中にいるのはわかっている。けれど、闇が深すぎてアリスの匂いが全然わからない。自分が今どこを向いているのかも、どっちに進んでいるかもわからない。音も、匂いも、感覚も、全部が少しずつ闇に飲まれていくようで焦燥感が募る。気が狂いそうだ。こんな、こんな所にあの子は囚われているのか。
気だけが急ぐ。早く、早く、早く。
不意に、闇の中から巨大な何かが襲いかかってきた。
「ッ!!」
間一髪でそれを避ける。けれど、避けても避けても次々に遅い来るそれはどうやら一つじゃないらしい。蠢く影と、シュー…と聞こえる音。ほんの少し闇に慣れてきた目が捉えたのは、巨大な七つ首の蛇だった。
「な…!」
シャー!と鋭い鳴き声を上げて一斉に飛びかかってくる蛇たちを紙一重で避ける。なんたってこんな所にあれ程大きな蛇がいるんだ、とか、怪物といえど体内だろ、とか、言いたい事も思う事もたくさんあったけれど、今はそんな事を考えている余裕は微塵もないわけで。
「ヒノカミ神楽、陽華突!」
迸る炎の軌跡を残して、蛇の胴体に刀を突きつける。けれど、傷は愚か掠り傷さえつかない鱗に目を見張った。
「なら、これはどうだ!!」
ヒノカミ神楽 日暈の龍・頭舞い
暗闇を駆けながら七匹の蛇を同時に斬り付ける。ぶしゃ!と血飛沫が上がるのを見て、これなら攻撃がが通る、ともう一度構えを取った瞬間、蛇の姿がぶれるように空間に広がる。
広がり、収束して、ぱちん!光が弾けた時、さっき俺がつけた傷は、初めからなかったかのように綺麗になくなっていた。
「何…!?」
瞠目する。それから、何度も同じように技を重ねる。けれど、いくら攻撃しようと、首を落とそうと、胴体を傷付けようと、俺の攻撃が全部“なかった事になる”のだから、この蛇は蛇の皮を被った鬼なのではないかと思う。
「くっそおおー!!」
諦めない。諦めたくない。アリスを取り返すまでは、死んでも死にきれない。けれど、いくら呼吸を会得しているからと言っても所詮俺は人間。いずれ限界がくる。だんだんと鈍ってくる動き。疲労が溜まり、足がもつれてしまった。
「しまッ…!」
好機、と言わんばかりに一斉に飛びかかってくる蛇たちに、無理だ、と悟った。走馬灯を見る。今まであった事、思い出、全部が目まぐるしく脳裏をよぎる。最後に、白い髪を揺らして笑うアリスを見た瞬間…
『諦めるのか』
声が、聞こえた。男とも女ともわからない、中性的な声だった。
『本当に、何もできないと思うのか。無理だと匙を投げるのか』
咎めるような、諭すような、怒っているのかいないのかよくわからない声音で声は続ける。諦めるわけないだろう。匙を投げるわけないだろう。例え万策尽きたとしても、ほんの僅かにも何かの手立てがあるのなら縋りたいに決まっている。だけど、その手立てが見つからないんだ。どうしたって蛇たちを捌ききれない。傷だって瞬く間になかった事になる。どうしたらいい。
『ならば、俺が力を貸そう。だから忘れるな。万策尽きたとしても、一万と一つの手立てがなくなったとしても、貴様の心だけは手折れないと言う事を』
背中に暖かい何かが触れる。触れたそこから、体の中に大きな、生命に溢れた力が入り込んできて、俺の体を金色の光で覆った。
『可能性を掴め、竈門炭治郎。ほんの僅かにも可能性があるのなら、心が折れないのなら、手を伸ばし続けろ』
目の前で金色が弾けた。
ザンッ!!
振り抜いた刀が、二匹の蛇の首を跳ねる。先程と同じようにぶれた空間が広がり、収束する。けれど、蛇の首は元に戻る事なく跳ねられたままであった。
悲痛な、怒りに満ちたような鳴き声を上げる蛇を見つめる。
息を吸った。
「ヒノカミ神楽…!」
ーー斜陽転身
怒りに狂った蛇たちの突進を高く跳躍する事で避けながら、体の天地を入れ替える。そのままいくつもの斬撃を繰り返し、蛇たちの体に傷を付けていく。なかった事になんてならない。させない。
「炎舞!!」
俺の中にいる“誰か”が力を貸してくれる。背中を押してくれる。弾ける炎の中に混じる黄金が、漆黒の日輪刀に幾何学模様を描いた。駆け抜け、振りかぶり、そして…
「日暈の龍・頭舞い!!」
残った五匹の蛇の首を、同時に斬り落とす。そうすると、蛇たちの胴体に黄金の亀裂が入り、パリィーーンッ!!と硝子が割れるようなけたたましい音を立てて弾けた。そんな中から現れた白い人影に、思わず駆けだした。
「アリス!!」
鎖と、黒い何かに縛り上げられたアリスが虚ろに歌っていた。感情の一つすら感じられない無機物な歌だ。怪物の外にいた時にも聞こえた、ただの音の羅列。音階の不協和音。
手を伸ばした。
「しっかりしろ、アリス!!」
アリスを繋ぐ黒いものが、俺を近付けさせまいと攻撃してくる。それらを斬って、避けて、ただひたすらに手を伸ばした。
「お前は!兵器なんかじゃない!笑って、泣いて、悲しんで、誰かを慈しむ事ができる人間だ!!呪いでも、怪物でも、なんでもない!!だから…!!」
手を伸ばした。伸ばし続け、叫び続けた。そうしたら、虚ろに揺れる赤い目が俺を見つめた。「アリス」もう一度、名前を呼ぶ。兵器の名前じゃない、俺が知る、彼女を彼女たらしめる魔法の言葉。
「もういいんだ!これ以上は歌わなくていい!傷付かなくていい!アダムの言いなりになんてなるな!!」
アリスの口が、小さく動く。旋律じゃない、言の葉を紡ぐその口は、言葉は、確かに俺の耳に届いた。
正しい事。あるべき形。何も間違いじゃない。
……ふざけるなよ。そんなの、そんなの…!!
「違う!!」
何も正しくない。あるべき形じゃない。人は、みな平等に自由で然るべきだ。例え残酷で、どうしようもなく絶望する運命に翻弄されようとも、人は抗う事ができる。
アリスは抗っていた。人であろうとした。それを踏み躙ったのは間違いなくアダムだ。
アリスが顔を歪める。ここに来て初めて見せた表情に、大きく一歩を踏み出した。
「君は兵器なんかじゃない。笑ったり、泣いたり、悲しんだりできる人間だ。それは君と接してきた誰もが思っている事で、だからこそ善逸も、伊之助も、響たちも、君を助けるために戦っているんだ。…もちろん、俺も」
するり、頬を撫でる。ひんやりとした、だけど、命の灯火を感じる暖かな温もりを感じた。
「帰ろう、アリス」
体を這いずる黒い何かを無視して、アリスは片腕を伸ばした。瞬間、ぶわッ!と黒い何かはアリスを奪われまいと大きく広がる。飲み込まれないよう刀を構えた瞬間、“ばちんッ!”と黄金が弾けた。
『触れるな、人でなし。貴様にはこの力、身に余るものだと知るがいい』
手を伸ばした。伸ばして、伸ばして、小さな白い手を掴んで引き寄せた。
prev * 26/36 * next