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新開悠人と兄の彼女
先輩と初めて会った時のことは、実はあんまりよく覚えてない。
「初めまして、ミョウジナマエです。隼人くんの弟さん?」
確かそんな風に挨拶されたのくらいは憶えてるけど。
綺麗な人だなって印象くらいはあったかも。 でも俺からしたらモテる隼人くんが家に彼女連れてくるのなんか初めてでもなかったし、別になんてことない挨拶だった。 だから先輩に対してその時思ったことでちゃんと憶えてることは、隼人くんの彼女にしては肉付き悪いなーって思った事くらいだ。隼人くんの彼女はそれまでもっと胸の大きな人だったし、先輩は男の俺とさほど変わらなく見えるくらい女性的ラインには恵まれてなかったから。 ガリガリじゃん、とか、そんな失礼なことは考えた。
まあ、どうせまた一時の気まぐれだろう。そう思った。
けど二人の交際はその後もずっと続いた。具体的には現在二年一ヶ月。隼人くんの交際期間としては異例で、現在も新記録更新中だ。
多分先輩は隼人くんのタイプじゃないのに、なんで隼人くんはあの人と付き合ったんだろう。 気になって訊いてみたことがある。
そしたら返ってきた答えは、
「まあ、間が良かったんだよ」
思ってた以上によくわからないものだった。 聞けば先輩は隼人くんのひとつ歳下のマネージャーで、ふたりとも同時期に前の恋人と別れて、なんとなく距離を縮めて、なんとなく付き合うことになったらしい。
なんだそれ。
なんとなくで二年も一緒にいるものなのかよ。
隼人くんは今年大学生になった。 箱学を卒業して一人暮らしをしているからふたりは遠距離恋愛になって、たまにしか会えていないみたいだ。
それと時を同じくして俺は箱学の一年になった。 先輩は隼人くんのひとつ下の泉田さん達と同い年でまだ箱学にいるから、今や部活で毎日会う俺の方が隼人くんよりも顔を見合わせていると言っても過言じゃない。
けど、先輩は一途なもんだった。 隼人くん以外興味ないみたいに見える。
そして隼人くんも、たまに部屋に遊びに行っても特に他の女の影もない。 多分、離れていてもふたりの心は繋がっているんだろう。
隼人くんが大学行ったらすぐ別れるかと思ってたのに。 俺は予想が外れて内心がっかりしてた。
たまに考える。
たとえば隼人くんより先に俺と出会えていたら、先輩は俺を好きになってくれたんじゃないか、とか。
俺が隼人くんと同い年で隼人くんと同じ時期に箱学に入れていたら、未来は変わっていたんじゃないか、とか。
バカみたいに、考える。
好きになったきっかけは些細だったと思う。 先輩にとったら何気ない一言だったんだろうその言葉を。
俺は今でも、たまに夢に見る。
隼人くんがトイレにたった席で、何気ない世間話をしてた。 箱学来るなら後輩だねって言われて、はあ、俺、この人のこと先輩って呼んだりするのかーって思いながら、話は自転車の話になった。
先輩は自転車競技部でマネージャーがしたくて、箱学に進学したらしい。 だから、箱学じゃスター扱いのうちの隼人くんと付き合ったのか。そう、思ったのに。
「へえ!クライマー?私クライマー大好きだよ!」
少しも曇りのない満面の笑みで言った。 王者箱根学園のエーススプリンター新開隼人の恋人のくせに。
隼人くんはスプリンターなのに。 それも全国区の超有名でかっこよくて、無茶苦茶モテる偉大な人の彼女のくせに。
「え?隼人くん?隼人くんはスプリンターだけどさ、私はクライマーのが好きだよー」
なんでそんなこと言うんだろう。 戸惑って問えば、もう一度クライマーが好きだと答えられた。
そして、
「もしかしたら走りは悠人の方が好きかもなー。ハハ、隼人くんには内緒ね」
なんて無邪気に笑って、鼻先に人差し指を立てたその人は、本当にただスプリンターよりもクライマーって生き物が好きなだけで。 きっと一瞬で通り過ぎてしまうスプリントより、選手の表情までも見れてしまう息遣いの伝わってくるクライムの方が見応えあるって思ってる。 その程度の意味の、どうってことない一言だったんだってことくらい、わかってる。
だけど、俺にとったら隼人くんよりも俺を選んでくれたような。 そんな気持ちにさせてくれる一言で。
たとえ先輩が、その言葉通り隼人くんの走りより俺の走りに魅せられたとしても。 だからって俺を好きになるわけじゃない。わかってる。 走りに魅せられて好きになってくれるんだとしたら、先輩はスプリンターの隼人くんと付き合ってないだろう。
きっと二人には何か他の理由があるんだ。蚊帳の外の俺には、とてもじゃないけどわからない何かが。
全部わかっていたけど、その言葉は俺の宝物になった。 先輩は俺の中で隼人くんの彼女から、俺の好きな人になった。
なんでこんな人好きになっちゃったんだろう。 もしかしたら先輩は、あの日のことなんか憶えてもいないだろう。
でもそんな一言に、俺はどうしようもなく縛られてる。
「悠人の方が好き」
そんな一言が頭の中で何度も何度も、リフレインして。
マネージャーとしての先輩はいつも完璧。部員数の多い箱学のマネージャーなんてきつい仕事ばかりなのに、一つも弱音を吐かない。 主将の泉田さんにも物凄く信頼されてる。少しのミスもなくテキパキ仕事をこなす姿は、隙がなくて怖いくらいだった。
でも、素の先輩が本当は結構間抜けで凶暴で鈍くって、完璧なんかとは程遠い人だってことを箱学に入る前に俺はもう知ってしまってた。
でも先輩が俺に花のような微笑みを浮かべることはない。 それは隼人くん専用。彼氏だけの特権。
隼人くんに向けてるものと同じものを俺にくれるわけがない。
彼氏にだけ晒す弱み。恋人にだけ見せる柔肌。いっそ隼人くんさえも知らないような先輩の顔を、見たいと思った。
だから、隼人くんの部屋。 今日は俺も来るって聞いていたはずなのに、無防備にもソファーで寝転んだまま寝息を立ててるその人に跨って。
白い首に噛み付いた。 先輩の薄い柔らかな皮膚に、跡が残ればいいのに。
そう思って、痛がる顔見たさの犯行だった。なのに先輩は怒るばかりで、痛がりもしない。
首筋からはうっすら血が滲んでいたのに。多分、俺に優位を取らせないための虚勢だったんだろう。
それでも尚、組み敷いた先輩はあまりにもか弱くて。なんかよくわかんないけど、ぞくぞくした。
「絶対、隼人くんより俺の方が先輩を好きですよ」
そう言って笑ったら、あからさまに動揺する先輩を可愛いと思う。
「証明しましょうか、答えは」
多分この人は、大好きな隼人くんとそっくりな顔した俺に戸惑ってるんだろうなってことくらいは気付いてる。 先輩曰く、俺たちは顔だけはそっくりだから。
そんな風にしか先輩を揺らさないことに悔しさがないかと問われれば、もちろん悔しい。けど、
「Yesですか?」
俺がそう言って笑えば、
「……っ!」
目の前で真っ赤になる先輩。
なんかもう、そんなのはどうだっていい問題に思えた。
俺がこんなに先輩だけ見てきたんだから、先輩もたまには俺だけ見てくれてもいいんじゃないかって、そう思いませんか――ナマエさん。
「やだやだっ隼人くんっ助けて……っ」
俺の下でイヤイヤと頭を振る先輩に、ようやく男に押し倒されてるって自覚してくれたな、なんていっそ達成感すら込み上げて。
嫌だって言われてんのに、煽られた。
「隼人くんはあと二時間は帰ってこないですよ。諦めたらどうですかァ?」
そう言いながらさっき噛み付いた首の痕に口付ければ、
「……っこんなことしても何にもならないよ!早まるな悠人!」
ビクッと肩を揺らして怯えながら、でも気丈にも俺を説得しにかかってくる。
「そんな言葉、男の下で言ったところで特に効力ないんじゃないですかァ」
早まるななんて言葉は、俺の前で無防備に眠りこけてた自分にでも掛けてやれよ。
「……っぁ、」
首筋にキスしながら、鎖骨に指を這わせる。それだけで小さく漏れる声に、嗤うなって方が無理な話だ。
「隼人くんより俺の方が先輩を好きだってこと、気付いてください」
タイミングが良かったから付き合ったあなた達でもこれだけ上手くいくのなら、先輩を好きで好きで大切な兄貴からでも奪いたいと思ってる俺となら、もっと上手くやっていけるんじゃないのか。
「あっ……ちょっ、こら!」
服の裾から片手を滑り込ませれば、さすがに焦った先輩が俺の腕を止めようと制止する。けど、
「今だけ、隼人くんより俺のこと見てください」
その腕は所詮女の人の腕力。
「……っ、」
その腕を無力化して、Tシャツの裾をたくしあげる。と、レース地の下着の下に、控えめな胸。
そこに口付けた。
「好きです、先輩」
心臓直接なら、伝わるかな。そんなバカみたいな俺の強行に、
「……わかった」
先輩は抵抗を止めて腕の力を抜いた。
そして、
「……え?」
その細腕がなにを思ったのか、覆い被さっていた俺の背中に回されて、ぎゅっと力強く引き寄せられて。 途端に俺は先輩の上に落ちるように、抱き締められていた。
「悠人が隼人くんより私のこと好きなんだって言うなら、好きな女泣かせないでよ」
「……っ」
その言葉に、言い返せない。 ただ、あんなにガリガリじゃんって思ってた先輩は、こうして引っ付いてみたら何処もかしこも柔らかくて。
「助けてよ、悠人」
縋るように耳元で懇願されるともう、好きな人の願いを無下にする気にはならなかった。
「……なんすかそれ……っズルいですよ。せっかく掴んだチャンス、なのに」
抱きしめられながら、恨みごとのように言った。
「チャンス?」
先輩はトンチンカンだ。 さすが今まで俺の好意に一切見向きもしなかっただけある。
「先輩に俺を見てもらえるチャンス、だったのに」
でもそういうところも好きだ。そうため息を吐く俺に、
「何言ってんの悠人。私はいつもあんたのこと見てるけど」
逆にあんたバカ?って声で放たれる、まさかの告白。
「え」
「だってあんたの登坂ちょうカッコいいもん」
驚いて起き上がって、先輩の顔を見れば、なんでもない顔で言われる。
「…………」
好きな人にカッコいいなんて言われただけで呆然とする俺に、まあ性格の悪さを少しも隠せてないライディングだけどさ。なんて笑う先輩は、
「私、自転車乗ってる時だけは、あんたのこと好きよ」
好き、なんて言葉とともに俺を抱き寄せた。すとん、と音がするみたいに、またその上に落ちる。 今まさに襲われかけてんのにそんな顔すんのかよ。なんで隼人くんを好きなくせに、ライディングは好きとか言うんだよ。つーか怖いんだろ、腕バカみたいに震えてんじゃん。なんで抱き締めてくるわけ?意味わかんねー。
けど、一番意味わかんないのは俺だ。
もう、先輩の気を引くために喧嘩売るみたいに話し掛けたり、隼人くんとの仲邪魔するために部活のオフ日に隼人くん家押し掛けたり、こうやって強引な手に出るのはやめよう。
そう思わされてた。
これからは正々堂々、隼人くんより俺を好きにさせてやる。
決意した、次の瞬間だった。
「……ナマエ?悠人?」
その声はやけに現実味がなく、部屋に響いて。
「おめさん達、何やってんだ」
あと二時間は帰る予定のなかった隼人くんが、部屋の入り口から、ソファーで抱き合う俺たちを見ていた。
先輩が俺を突き飛ばして隼人くんに告げ口するまで、残り一秒。 先輩の瞳には、確かに俺が映った気がする。
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