PDL | ナノ
世界の終わりに思うこと
たとえば世界が丸いってことを、知識としていくら知っていたって、実感するような瞬間はごく僅かだ。
だって人間はチンケな存在で、空を飛ぶ事も出来なければ同時に二箇所に存在する事だって出来ない。
だから、私は今ここで生きていくしかなくて。
私の世界は、住んでいるこの街にぎゅっと凝縮されているのだ。
程よく田舎で、でも駅前の商業施設で大抵のものは手に入って、たまに数駅先の大きな駅までお買い物に出ることはあっても、基本的には家と仕事場の往復が主な行動範囲ってところ。
1LDKなんて、高校生の頃の寮とかに比べたら城みたいなものだなって思っていたのに。 数年も住めばそこはすっかり物で溢れて、おしゃれな家具屋さんで買ったソファーも、人気の雑貨屋さんでそこそこした秋色のクッションも。いつのまにか生活感という埃を被ってしまったようだ。
リビングダイニングは10畳もあるのに、なんだかその半分くらいに思えるのは、収納力で背の高い本棚を選んでしまったのが敗因だろうか。 実用性は申し分ないのに、オシャレに気を遣うと一気に劣等生になってしまうこいつには同情を禁じ得ない。
まるで、私みたいだ。
名の知れたブランドでも無ければ、デザイン性は普通。新品でも無いけれど、まあ使えないことはない。実際使ってみたら、案外気にいるかもよ?って感じ。
だけど、きっと世間の大多数は見向きもしない。中古の女だ。
JKだったりJDだったことはあっても、今やOLとも呼べるか危うい事務の仕事をしている。 まあ、オフィスなんて呼べるような立派な場所ではないにしても、生きるには十分な手取りと福利厚生を受けているし、職場に不満はない。
輝かしくこそはなくてもきちんと正社員雇用だし。私と同じ、特別取り立たされることこそしなくても悪くないお仕事だ。
毎日朝7時に起きて、9時に出勤。 18時には定時で上がって、帰り際スーパーでお惣菜をチェック。安ければ惣菜で済ませて、安売りがまだならテキトーに食材を買い足して帰途につく。 ありふれたアラサー女のありふれた日常だ。
ただ、本日は金曜日。世にいう華の金曜日である。 会社の同僚は所帯持ちばかりのため、金曜だからって皆で連れ立って飲みに出かけるようなことはない。
けれど、こんな平凡を絵にかいたような私にも、予定くらいはあって。
たまにはまともに料理をすることだってある。
帰り道、
「あれ、ナマエチャン。今日荷物多すぎない?」
家の前で待ち構えていたのは、よく知った男だった。
「……靖友」
あの靖友がサラリーマンするなんて言った日にはスーツなんて似合わないとゲラゲラ笑い転げた筈なのに、就職して数年もすれば様にもなってくる。 派手にならない程度の縦縞のスーツにある腕まくりの跡が、私の知らない靖友の時間を知っているのだろう。
――昔は、あんなに一緒だったのに。
「買い過ぎたら呼べっていつも言ってんダロ」
「へへ、ごめん。でもお肉ちょー安かったんだよ!」
言いながら片手で耳を塞いでいたイヤホンを外す。
どうしてかな。 どんなに好きな歌手の声も流行りのロックも、綺麗にバックミュージックに変わってしまう程度には、この男の声は特別だ。
イヤホンで塞いだところで、靖友の声は聴き分けられてしまうのだから。
「ん……まあネ。っつーか、夜道でイヤホンやめろって何回言えば」 「はいはい。ありがとありがとー!」
この男は私のことをか弱い女の子かなんかみたいに思っている節があって。 口うるさいとも言えるほどに何かと心配してくる。
元ヤンのくせに。とか、今や真面目に社会人している自分の彼氏に対して失礼極まりないことを思ってしまう。 と、同時に、いかにも大切にされているようで頬が緩んだ。
お小言を聞き流しながら走り寄ると、先ほど買って来たスーパーのビニール袋を掲げる。 合挽肉が100グラム79円という赤い文字を見かけたので、夕飯はハンバーグかな。なんて思って500グラムも入ったパックを購入。
一人の時には絶対に買わないけれど。
「やっぱさぁ……合鍵渡そっか?」
「なんで」
「私が帰ってくるまで外で待ってるなんて、やっぱアレかなぁって」
アパートの階段を上がりながら、こっそりその顔色を覗き込む。
「アレって何だヨ?」
なのに、バッチリ目が合って。 睨むような目付きをしているところを見るに、機嫌を損ねたのかもしれない。
その反応は、実を言うと予想がついていた。
合鍵を渡そうとすると、いつもなのだ。
「家の前に人相の悪い男が立ってるって通報されちゃわないかなって」
「あぁ……ン?もしかして喧嘩売られてたり?」
彼がそんな風に眉根を寄せると、どうしても人相の悪さが際立って。 知らない人は本気ですごまれているんじゃないかってビビってしまう。靖友の上司にはちょっぴり同情するなぁ。
「嘘ウソ!でも私が残業の時とか不便じゃない?合鍵」 「いらねーヨ」
「…………」
明確にいらないなんて言われると、自分のことを言われたような気分になって。 どう足掻いても沈み込んでしまう心は、世界の終わりを恐れている。
「ナマエチャン家のデコボコの鍵、合鍵作んの高いって言ってたじゃナーイ?」
デコボコの鍵なんて靖友が呼んだうちの鍵は、ディンプルキーというらしく。 ピッキングされにくい代わりに、合鍵を作るのに五千円もかかるらしい。それもお渡しは二週間後だ。
複製しにくいということは単純に防犯に効果があるということだ。
「……うん」
けど、いくら通常の鍵よりも値が張るとはいえ。
「不動産屋からも作んないでネって言われてんでしょ?」
「うん。まあ、ね」
「解約の時にめんどくさいし、合鍵なんかいらねーヨ」
不動産屋から釘を刺されているとはいえ。 毎週のように遊びに来ているのに、私が帰るまで家に入れないっていう不便を鑑みたら、作ってしまったほうが都合はいいのに。
「…………」
鍵なんて重いのかな。 そう、考えてしまう弱さは、過去の傷跡が疼くから。
今や痛むことこそなくなっても、傷ついた過去が消えてなくなることはない。
その傷を癒してくれた靖友にまで、いつか捨てられる日が来るんじゃないか。
最低な未来を想像しては、息ができない錯覚に陥る。
と、
「……ま、ナマエチャンが早く帰ってくりゃいいんじゃないの?」
「!」
頭を軽くポンポンしてから室内へ足を踏み入れた靖友は、分かっているのだ。 昔から、私の顔色を一目見て心中を見透かすのが上手かったから。
愚かな私を宥めるのだって、誰よりも上手いのだ。
「俺も通報されたかねェしー?」
お道化た声は柔らかい響きに満ちている。
早く会いたいしねぇ、なんて笑いかけると、驚いた顔をした靖友が視線を逸らして。 否定はしないのをいいことに、私はまた微笑むのだ。
傾いた地軸で回りながら、今でも思う。 世界の終わりには、いっそこの男に殺してほしいって。
*
靖友の勤務先は、私の住む町から電車で40分ほどの小綺麗なビル街にある。 そこからほど近い場所に1Kを借りている彼は、毎週のようにこんな田舎町へと通ってくれているわけだけど。
週末忙しくてそっち行けなそう
まあ、たまにはこんな時もある。 靖友の働いている部署は時折週末に出張があるのだ。大変だとは思うけど、その分の代休はきっちりあるのだし。 お給金はいかほど貰っているのかなんて詳しくは訊いたこともないけれど、まあ、あんなところに(靖友が住んでいる街の家賃相場は、私の街の倍はする)部屋を借りようと思う程度には貰っているのだろうし。このご時世、十分に優良企業だとは思う。
だから、元ヤンながらちゃっかりそんないい職に就いた彼に、お仕事頑張ってねー。なんて彼女らしい一言でも、と思ったわけだけど。
りょーかい!仕事?
悪い。そんな感じ
はて、そんな感じとは? いったいどんな感じのことなのか。
疑問には思いながらも、
あらあら、頑張ってねー!
ツッコむ勇気はなくて。 大変ね。なんて物わかりのいいフリをするのである。
靖友の住んでいる街は知っている。 私の街から電車で50分。乗り換えが上手くいけば45分で行ける時だってある。
決して遠い距離じゃない。 何なら毎朝もっと遠い会社まで出勤している人だって珍しくはないだろう。
なのに、私は彼の家に行ったことが無くって。 実を言うと住所だって知らない。 そのことに深い意味なんかないのかもしれない。 実際、毎週末のように家に来る靖友に荷物を郵送することなんかないし。
けど、ね。
来週時間ある?
いつもは私の予定なんか聞いて来ないくせに。
久々に箱根トカ行かない?
いつもは金曜の夜に家に来て、ご飯食べて一緒に眠って、お昼まで寝て。ぐうたら過ごしたら日曜の夕方には帰っていく。まともなデートなんて計画したことないくせに。
そんなことを言い出したのはいつもと違うことをする必要があるからなの?
考えないように努めることと、常に考え続けているのは同じことだから。そんな愚かな足掻きをする気にもなれない。
うん
悲しみに押しつぶされてしまいそうになりながら、それでもこのやり取りが電話でなくてよかったと思う。
涙は人知れず頬を伝って。 この取り立てて称賛されることのない悪くない部屋に、砕けて消えた。
*
待ち合わせにしよっか。なんて言い出したのは、私のほうだった。 じゃあ駅でと言われたのに、駅に着いたら懐かしくなってしまって箱学行ってるね。と送ったきり、携帯を見ることもしなかった。
まあ、着信で震えたら気が付くだろうとタカを括って。懐かしの箱根学園を横目に山岳ラインを目指すことにする。
歩くにも辛い急勾配を、運動不足の脚でのろのろと登ってゆく。
道すがら、こんな坂を皆は自転車で登っていたのだから、今考えたらキチガイもいいところだなあ。などと考えてしまって。 当時は毎日顔を見合わせたチームメイトの顔が浮かぶ。
福ちゃんは相変わらず堅物で、一緒に朝まで飲もうと誘ってもいつも終電で帰ってしまうらしい。とんだシンデレラだと、福ちゃん大好きな靖友はいつも嘆いている。 新開は相変わらずよくモテて、先日までモデルのなんとかちゃんと交際していたとか。靖友も芸能人とどこで知り合うのかと疑問を投げるものの、訊いたところではぐらかされて終わってしまうらしい。 東堂は早々に実家の東堂庵を継ぐものと思っていたけれど、早く嫁をもらって落ち着けとうるさい両親を必死に説き伏せて未だ独り身のままでいる。俺が結婚しては世の女性が嘆くだろうと言い張るその自信に満ちた口調が容易に想像出来てしまう。気付けば口元に笑みが漏れた。
現実逃避と言われてしまえばそれまでだけれど、道を歩くだけで私たちの青春が今でもそこにあるような気がした。
「……綺麗」
夕日が綺麗な山岳ラインだ。 それでも、昼間だって風の通り道は心地よくて、苦労して登ってよかったと思える程度には景色だっていいのだ。
だからって、こんな時間でも道端をフラフラしていたら、靖友は怒るかもしれない。
女なんだからーって、昔みたいに。 なんかあったらどうすんだって言う口調は荒っぽくても、きっと誰よりも私を心配して怒ってくれるのだ。
そんな不器用な優しさが、永遠に続いたならよかったのに。 うっかり悲しくなりそうになって、そっと息を吐いた。
瞬間。
「ナマエ……?」
ふと、名前を呼ばれて振り返ると、そこにはサイクリングジャージに身を包んだ細身の男が立っていた。 黒髪は闇夜に鋭い目付きは獰猛な野生の獣のようなのに、驚きに満ちた顔でこちらを覗く黒目に敵意はない。
揺らめく黒い瞳とそれを縁取る長い下睫毛が微かに震えていて。 動揺しているのは私だけではないようだ。
「靖友……なんだ。ちゃんと箱根着いてたんだね」
心底、驚いていた。 何せ靖友との待ち合わせは駅だったから、こんなところで出くわすとは思っていなかったし。 待ち合わせの時刻は確かに過ぎていたけれど、それでも彼から連絡はなかったから。 どうせまた寝坊したとか、面倒くさいから家で待っとく。とか言われるんだろうと考えていたのだ。
けれど、あまりにビックリしすぎて、いっそ事実がストンと胸に落ちてきて。
「着いてるなら連絡くらいくれればいいのに」
ふふふ、なんて笑ってしまう。 おかしなくらい思考はクリアで。
大丈夫。 脳内で唱え続けなくてもきちんと冷静でいられていた。
「ナマエチャンこそ、なんでこんなトコにいんダヨ?」
「ん?んー……懐かしくなっちゃって?」
懐かしくなってしまったからというのは、本当のことだ。
でもそれだけじゃないってことも、多分靖友には伝わってしまっていた。
「…………そーかよォ」
しばし無言のまま私の顔を見つめた靖友は、呆れたようにひとつ呟いて、ガードレールに音もなくビアンキを立てかけた。
「靖友、箱根の山見たら登りたくなっちゃった?」
そのままガードレールに浅く腰掛けた彼を横目に見ながら、クライマーみたいだね。なんてお道化てみせたけど、
「まぁなァ……よくもまあこんなトコ登って、いっつも迎えに行ったもんだと思ってよォ」
「あはは……それはもうほんと面目ない」
「……別にいいんだけどネ」
ここがそういう場所だって事実からはどうにも逃げ切れない。
ここは始まりの場所だ。 終わりの歯車が噛み合って、ゆっくりと回り出してしまったあの日を思い出しただけで。 今でも泣きたいような後悔と幸福に包まれるのだ。
「…………」
「…………」
元来、沈黙が苦手だ。 例えばこれが他の人相手だったなら、きっと気まずさに耐えかねて適当な話題を見繕っているところだけれど。
靖友との間に流れる沈黙を苦手だと思うのは、その鋭い眼光に、醜い心の内側まで見透かされてしまうような気がするから。
「……ねえ、靖友」
「ん」
ほとんど耐えかねた形でその名を呼ぶと、短く返ってくる何気ない返事。
そんななんでもないことにすら心が揺れてしまいそうになるのは、きっと――。
思い切り息を吐いて、空になった肺に精一杯空気を取り込む。
「私、靖友と違ってさ?趣味もないし、友達も多くないよ」
「ンァ?俺だって別に多くねェけど」
私の彼と違ってという一言は、言葉の前半にしかかかっていない。趣味がないって点のみだ。 靖友が友達が多いわけがない。
友達が少ないってのはただの自身への悲観に過ぎない。
「周りにも、いつもテキトーにへらへらしてるってバレてるし」
これでも、高校を卒業するくらいまでは結構友達の多いタイプだって自負していたのだけれど。
驚いたことに、高校を卒業して地元を離れると、連絡を取り合う相手なんて0に等しかった。
元より表面上のテキトーな関係だったのだろう。 私はわざわざ休日にアポを取ってまで会いたいと思わせられるほど面白い人間ではないし、遊ばなくなったら相手の記憶にも残らないような女なのだ。
当たり障りのない、うちのダサい家具と一緒だ。
「んん……?なんの話」 「私から靖友を取ったら、きっとなんも残らないと思う」
だから、靖友だって。 いつか私から離れて行ってしまうんだろうってことはわかっていた。
「なんだそりゃア…………俺になんて答えてほしいんダヨ」
戸惑ったというよりは、眉間に皺を寄せたその姿は苛立ちに他ならない。
そりゃそうだ。 別れようと思っている女から追い縋られたところで、その手を離せと振り払われるだけだろう。
それでも、
「……同情だって、いいよ。昔みたいに大好きって思ってくれないなら、私を……っ」
脳裏には一緒に過ごしたあらゆる季節が鮮やかに蘇って、春には桜、夏には花火。そんな季節の移ろいの全てにこの男が存在がした。
ボロボロと流れ落ちた大粒の涙がどれほど不恰好なものでも、
「いっそ、殺してよ……っ」
どうやっても取り繕えないほど深い部分に、靖友はいた。
「……おいおい」
何を言ってるのかと思われていることだろう。
たじろいだその気配に胃が痛んで、首を絞められたでもないのに喉の奥がキュッと締まるのがわかった。
「泣くなよ、ナマエチャン。昔っからよォ、ことあるごとに泣きやがって、卑怯だろ」
そんな呆れた声は、なんだか昔のようだった。言いながら私の方へと歩み寄った靖友が、そっと頬を流れ落ちる涙を拭う。
苦しくなるほど甘く響く低音。密かに私をこの恋へと突き落とした優しい指先。
「あーッ!くそが!東堂の野郎の言うことなんか聞くんじゃなかった」
「え、」
東堂なんて聞き覚えのある懐かしい名前に、ぽかんと目を見開く。と、
「そんな顔させたくてこんなとこまで誘ってんじゃナイんだけどォ?」
苛立ったような、困り果てたような表情で眉根を寄せる靖友が真っ直ぐにこちらを見ていて。
「ど、ういう……?」
戸惑いながらもその瞳を見つめ返せば、ただ静かに頬を撫でられる。
「…………」
意味深な沈黙と共に私の涙を拭う彼は、昔からそうだ。 元の性格は決して素行のいい方ではなくて、その瞳はギラギラしたまま。 それでもまるで壊れ物に触れるように、優しくしてくれるから。
「……靖友?」
悲しくて、苦しくて、この優しさを手離せなくなってしまうのだ。
いっそ、このぬくもりを失うくらいなら今日を最後の日にしたいと思ってしまうほどに。
「……俺が別れ話でもしたがってると思ったァ?」
ぽつり、呟かれたささめきは掠れていて。 風が泣いているようだとさえ思った。
「いつかナマエチャンは、俺が終わりを始めただのって言ってたけど」
強くなる風に揺れた私の長い髪を、靖友がそっと耳にかける。
耳の横でくしゃりと髪を撫でられると擽ったくて。
「だとしたら、世界が終わっちまうまでは一緒にいるってのが道理ってやつじゃないのォ」
細めた視界で、彼はその頬を微かに染めて目を逸らす。
「え、っと……?」
どういう意味?なんて首を傾げると、
「週末だけじゃなくって、毎日飯作ってくれナァイ?」 「え……っ」
耳に飛び込んだのは想像もしていなかった言葉だった。
え?ええ?? なんだかそのフレーズって、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど?とか、なんで靖友はこんな照れてんの?とか。 頭の上の疑問符はますます増えていく一方で。
「そんなに泣くほど俺が好きなんだったら、」
困った顔で笑った靖友が腕を引いて、飛び込んだ先の胸の中。
「死んでも離すんじゃねぇヨ」
ぶっきらぼうな愛情に満ちた殺し文句に、文字通り殺されてしまったのかもしれない。
「……っ、うんっ」
勘違いだっていい。 こんな幸せな勘違いなら、一生真実なんて知らなくていい。
そう、お花畑みたいな脳ミソのまま彼の背に強くしがみつくと、じんわりと伝わる体温がやけにくすぐったい。
涙を拭いたら、目の前には大好きな人の笑顔があって。 勘違いなんかじゃないって証明するみたいに、左手の薬指に銀の指輪をはめようとするものの上手くはめられない靖友に、笑い声をあげた。
「そっちは憶えてないだろうけど、俺はナマエチャンに初めて話しかけられた日のこと、今でも憶えてるんよ」
「へ……?」
「少しは惚れられてるって自覚したらってコトだよ」
口先だけの悪態。頬にかかる吐息。
「バァカチャンが」
誓いのキスにしてはあまりに呆気ない、一瞬触れて離れる唇。
でも、女の一生を決めるのは、案外こんなものなのかもしれない。
靖友は、新居の2LDKも、式場も下見してきたし、なんなら今夜は東堂庵に部屋まで取ったのに。勘違いで泣くんじゃねえよと文句を言ったけど。
泣き止めない私は、泣きながら笑った。
「バカはどっちよ」
[*前] | [次#]
|
|