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飛べない鳥
先輩を初めて見た時。 上手く言えないけど、彼女は世界の神秘そのものな気がした。
地球が丸いことだとか、遥か彼方頭上で輝く星のこととか。 高校生になっても、空がどうして青いのかなんてことの答えも、俺は知らないままだったけど。
昼休み。 屋上の鍵が空いてるって気がついて、その扉を開けた先。
雨の切れ間に差した日の光りに照らされて煌めく長い髪に、息を呑んだ。
風に揺れる何にも染まらない黒髪。 微かに降る小雨に濡れて肌の色の透けたブラウス。
静かに振り返ったその人に、翼が見えたなんて言ったら、きっとみんな笑うんだろうな。
翼が出せるのはお前の方だろって。
「……綺麗」
それでも、女の人にそんなこと思ったのなんか初めてだった。
一目惚れなんて言っても、疑り深くて捻くれ者の先輩は信じてはくれないだろう。
きっと意味わかんないって怒ったみたいに言って、それからちょっと頬を赤くして、バカなんじゃないの。とか、言うのかな。
よく私なんかって卑下するように言う先輩が、世間的に見たら平凡な容姿の人なんだってことくらい俺だって言われなくても知ってるけど。 それでも俺にとったら世界で一番綺麗だよって、口で言っても信じてもらえないんなら、一体どうしたら伝わるんだろう。
好きだよって何度言ったら、信じてもらえるんだろう。
一つ年上の彼女は、毎日自分のお弁当を作ってきていて。 いつもお昼を一人で食べてるみたいだったから、野良猫かなんかみたいにそのおかずを欲しがることで、なんとか接点を得た。
初めは緊張してるっていうか警戒してるみたいだった先輩も、少しずつ気を許してくれるようになって。
そんな過程をもどかしく思いながらも大事に思えてた。
そんなある日。
「ナマエさん」
なんの気無しの言葉だった。
いつも先輩って呼んでたのに、特に意味もなく彼女を呼んだ。
「え……な、に?」
でも、その呼びかけに応えた先輩の頬が、一瞬にして真っ赤に染まるのを見たら。
もうダメだった。 気づいた時には先輩の長い髪はコンクリートの上に広がっていて、俺はその赤い唇に噛み付くみたいにキスして。
「ま……なみっ」
重ねた唇から先輩が満更でもないってことがわかってしまえば、転げ落ちるように。
俺は彼女を自分のものにしてた。
戸惑いながら俺を受け入れた先輩は、もしかしたらただ流されただけなのかもしれないけど。
それでも二人で過ごす昼休みは幸せだったし、何気ない会話も、いつの間にか二人分作ってくれるようになったお弁当も、先輩だって憎からず俺を想ってることくらい明らかだった。
なのに、
「別れよっか、私達」
それはいつも通りの穏やかな日々に降って湧いたように。
「え、」
唐突に告げられた別れの言葉。
驚いて何も言えなくて。 喉の奥から辛うじて漏れた声は、声なんて言えないくらい小さな音でしかなかった。
でも、自分から別れを切り出しておいて俺の顔を見た途端に、
「なん、で」
なんでなんて呟いた先輩は、きっと俺以上に驚いてて。
こんな笑えもしない冗談言う人じゃないことくらい知ってる。 俺のこと好きって言ってくれたことがなくたって、それでも何ヶ月も好きでもない男に弁当作ってくれるほどお人好しじゃないんだよ、先輩は。 だから、別れようと思うだけの何か理由があるんだろうってことだって、予想は出来るよ。
けど、
「……冗談、だよね?」
冗談だって言って欲しかった。
答えなんかわかりきっていても、それ以外言葉を知らないみたいに俺の口から零れたのはそんな決まり文句で。
「冗談でこんなこと言わないでしょ」
先輩が口にしたのも常套句。 それでも欲しかった答えは得られなくて、心臓のあたりがどうしようもなく痛くなるんだから、先輩は凄いって思う。
多分、この人はいつでも俺のことを殺せる。
「先輩、俺のこと嫌いになったの」
追い縋るみたいに、せめて理由が知りたいと考えて。 俺は何かやっちゃったのかなって考えながら問えば、何がそんなにショックだったのか知らないけど、先輩はこの世の終わりみたいな顔をしたまま。
「そうだね。嫌いになったみたい」
俺を思考から追い出すみたいに、視線を逸らした。
瞬間、わかってしまった。
先輩がまだ俺のことを想ってるって。
「そっか」
呟きながら胸の内から湧いてくるこの気持ちはなんなんだろう。
好きなくせに別れようなんて言うこの人が許せないし、先輩がそんな風に追い込まれるような状態のまま放置してた自分にも腹が立つ。
「ねえ、先輩」
冷たいコンクリートを見つめたまま奥歯を噛み締めてる彼女に、俺の想いは届かないのか。
「本気なら、俺の目を見て言えますよね」
そんなこと、もうどうだっていいと思った。
ただ、誰も足を踏み入れていない雪原に足跡を残すみたいに。 罪深くも胸躍る行為が、先輩としたい。
そう思った。
長い長いキスの後、
「ばか、ひとがせっかくっ」
息も絶え絶えにそう言った先輩は、やっぱり何よりも綺麗で。
その世界の不思議を詰め込んだみたいに揺らめく瞳を、独占したい。
ただそれだけの思考で、
「本当に嫌なら、ちゃんと顔を見て、ちゃんと抵抗してね」
先輩を抱いた。
花は野に咲くからこそ美しい。 鳥は大空に舞ってこそだってこともわかってる。 それでも風が吹くたびにその髪を想うから、月が昇るより早く彼女が欲しい。
「ごめんね、先輩」
狭い腕の中に閉じ込めてしまっても、彼女はやっぱり美しくて。
「俺、先輩のこと……もう離してあげられないよ」
囁いて柔らかな頬に落としたキスは、天使の翼を手折るように罪深くて。 涙のしょっぱい味がした。
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