HQ | ナノ
星の無い夜 後編
その光景は、私にとって、欠片も予想していなかったものだった。 これまでの経緯や状況を鑑みれば、いくらでも考えられた展開だったのに。
浮かれた私の脳内は、都合のいい幻想ばかりを抱いていて。 刻一刻と変化してく状況をちっとも理解できていなかったんだ。
どうやらその勉強会は学校で開かれるんではないらしい。
バレー部のコーチをしてくれてる坂ノ下商店の息子さんの厚意で、スペースを貸してくれるのだとか。
だからバレー部一年生の四人とマネージャーの仁花、それから完全に部外者のくせにさっき忠の口からご紹介に預かった私の六人は、学校から坂の下までをのそのそと行列を作って歩いていた。
「ミョウジさん?あぁ、誰かと思った。山口の幼馴染か」 「影山ー!お前せっかくあんな美女まで教えてくれるってのに名前忘れるとか!」
その先頭を行くのは問題のおバカコンビ。なにやら彼らは一年生にして既にレギュラーで、しかもチームの攻撃の要を担っているのだそう。それなのにこのコンビがバカ過ぎて。赤点を取って追試になれば遠征に行けるわけもない、さあどうするって話なわけだ。
へえ、あんな頭悪そうな人たちが部活では優秀なの……なんてとてもじゃないけど私は彼らに好印象を抱いていなかったけれど、まあ確かに二人とも運動神経は良さそうだ。
当然のことながらスポーツと勉強の優秀さは別だと思われた。
まあ、その二人が先頭を行くのは納得っていうかわかるんだけど。
その二人の後ろを歩くのは、
「へー!じゃあ5組はもうテスト範囲終わってるんだ?いいなー!そしたら復習とかしてくれてる感じ?」 「それがねー復習してくれるならいいんだけど、ガンガン先へ進んで行ってしまってて……今全然テスト範囲じゃないところ勉強してるの!」
古典の進行状況なんて身の無い話で楽しく談笑してる、忠と仁花。
なんでこうなるの?って感じ。 だけど気付いたらこういう並びになってしまってたっていうか。 今更目の前を歩くふたりのところに突撃していくこともできなくて……、
「…………」
「…………」
最後に余った私と月島が、わいわいと楽しそうな四人の後をついて行く。
私たちの間に会話は無い。
ただ、あるのは重い沈黙と、
「……チッ」
私のいっそ狂いそうな苛立ち。
「…………ハア」
そして、それを受けた月島のため息だけだった。
どうしてこうなってしまったのか。
目の前を歩く忠と仁花は本当に楽しそうで。
忠って女の子とそんなに仲良く話せるタイプでも無いのに、少し前に入部したはずの仁花とはもう打ち解けた様子だし、 仁花も緊張しいでいつもネガティヴな発言しまくってるのに、なんか忠とはもう気兼ねなく話せるようだった。
私はもっと危機感を抱いておくべきだったのだと思う。
忠が私以外の女の子と仲良く話すようにになれる未来を考えておくべきだった。
なんだか、仁花って正直可愛いけど、でもやっぱり子どもっぽいっていうか。女としての魅力値で私が負ける部分なんか一つも思い浮かばなかったから、完全に油断してた。
結果、
「なんかここテストに出ないのかーって思ったらやる気出なくて」 「そうだよね!しかも多分すっかり忘れた二学期の頃にテスト範囲でしょ?それ嫌だなー」
身長差30センチ越えの可愛らしい高校生カップルみたいな二人を後ろから眺める羽目になってしまった。
それだけで、十二分過ぎるほどに憂鬱だった。 やってられなかった。
正直、今すぐ帰りたいと思う程度には目の前の光景から逃げたかった。
なのに。
「なんで今日来たの」
「別に、月島には関係無いでしょ」
「どーせ山口に頼まれたらなんでも聞いちゃうんでしょ」
「…………」
よりによって私の隣を歩くのは、私の天敵、月島蛍だなんて。
「ほんと、昔から、バカだよね」
「…………」
昔からなんて台詞、どうしてあんたが使うのよ。 少し前なら、そう言えた。
「……まあ、別に、僕には関係無いけどさ」
「…………」
月島の気持ちなんかを知らなければ、あんたなんかに関係無いでしょって無視すればそれだけでよかった。
けど、
「そんな顔して好きでいて、何が楽しいわけ」
この男がどんな気持ちでそう言ってきてるのか、もう知っていたから。
「……楽しくなくても逃げれないものでしょ、恋なんて」
私は答えて、隣を歩く月島を見上げた。
そうするとそこには、思いの外悲しそうな顔をしてる、私を好きな男がいた。
*
私がいなくても勉強会は問題なんか無さそうだった。 仁花も5組で頭は良かったし、まずバカ二人は教える人を選べるようなレベルのバカじゃ無かった。 英単語の暗記もロクに済んでない状態で教えてくださいって言われても意味がわからないんだけど……と、私はお手上げ状態だったけれど、どうやら忠と仁花はそんな二人の面倒を見るのにも慣れているらしい。
凄いなぁ。心広いなぁ。 私なら、今すぐこのバカ二人引っ叩いて帰りたいところなのに。
忠も仁花も、優しい人だから。 根気強く、粘り強く、丁寧に教えてあげていた。
そうなると、実際私の出番など無くて。
初めはバレー部の皆さんのお勉強会をぼうっと見つめていたのだけれど、そのうちに見ているのが辛くなってくる。
完全に私は蚊帳の外だったし、なんか仁花は教室で見るより生き生きしていて可愛いし、その隣に並ぶ忠も嬉しそうに彼女に笑いかける。
あの、昔から変わらない優しい笑顔で。
私と忠じゃあんなに身長差無いからなー。可愛いよね、仁花。護ってあげたくなるっていうか。
私みたいに性格悪いの取り繕ってるわけじゃ無いし、いつも低姿勢なとことか被害妄想強めなとことかも、愛せるし、ねー。
なんて、忠の隣を奪われたことに対する嫉妬で頭が痛くなってきて。
嫌な思考から逃げるように、外へ出た。
それから何の気なしに空を見上げるけど、そういえば天気予報で明日は雨だと言っていた。 雲が厚くて、星どころか月すら見えなかった。
なんだか私の心のようだなんて、センチメンタルに浸って、ため息を漏らす。
と、
「……どうしたの。勉強、教えてやらなくていいの」
突然、隣から声を掛けられる。 ゆらりと夜の闇から現れるのは、見上げる長身、色素の薄い髪、トレードマークの黒縁の眼鏡。
「げ、あんたまだいたの」
それは、なんだか早々に姿が見えないから帰ったものと思っていた月島だった。
なるほど、坂ノ下商店の自販機の前にいたから、姿が見えなかったらしい。
「……別にいいでしょ。僕がいつ帰ろうと僕の勝手なんだから」
なんて不服そうにムッとした彼に、
「……それもそうだね」
なんだかもう、無駄に突っかかる元気も無かった。
「…………」
月島は目を見開いてから神妙な顔をして、私を見つめる。 きっと私が珍しくこいつの嫌味な口調に文句をつけなかったから、驚いていたのだと思う。
「…………」
でも今の私はそんな月島の表情の機微になど心を割く余裕すら無かった。
どうしてこうなったんだろう。 忠が仁花を好きになったらどうしよう。二人はお似合いだった。少なくともこんな、今、嫉妬の炎で友人を焼き尽くさんばかりの心の醜い私なんかよりは。
そんな暗い思考に呑まれて、また真っ暗な空を見上げようとする私に、
「別に山口が特別谷地さんと仲がいいわけじゃないよ」
月島はなんだか、いつもより少しばかり柔らかい声で言った。
「え……」
その声に驚いてもう一度彼を見るけど、そこにいたのはいつもの、何を考えているのかわからないような無表情の男。
「谷地さんはなんならあのバカ二人との方がよく一緒にいるところ見るけど」
けれどその声はやっぱり、いつもの人を煽るような苛立たしいものとは違って。
「……なにそれ、慰めてんの?」
月島が人を慰めるようなこととかあるんだ。
私は信じられないものを見たような顔をしてしまった。
「……別に。ただ、バカの勉強見飽きて疲れてちょっと休んでたら、隣で誰かさんのため息がうるさいからそういうのやめてほしいだけ」
指摘されて気まずいのか、少し早口に言う月島が、なんだかおかしくて。
「……そっか。ありがと、月島」
私は気付いたら頬を緩めて、笑っていた。
「……っ!?」
多分、その表情と言葉が、普段の月島への態度と大幅に異なるものだったからだろう。 彼は大袈裟に肩を揺らす。
「な、何よ、私だってお礼くらい言う日はあるから」
月島が驚くとか本来なら見ものだったのだろうけれど、それが私のお礼の言葉の所為ともなると心境は複雑だった。
失礼な奴だなって唇を立てれば、
「き、君がそんなこと言ってくるとか明日は槍でも降るんじゃないの……」
未だ目を見開いたまま、月島はそう言った。
その言葉をほとんど無視して、私は今度こそ空を見上げる。そして、
「…………明日は雨だよ。天気予報くらい見なさいよ」
星の無い空。希望の無い恋。 祈るように手を伸ばすことが、怖くてたまらなくなる瞬間がある。
それは、私の心が弱いからなの?
好きな人が他の女の子と仲良く話しているだけで、この世の終わりのような心境になってしまうだなんて。
私がメンタルヘルスに問題を抱えてる気持ち悪い女だから、なのだろうか。
今も背後の空間で繰り広げられてる騒がしい勉強会の様子から意識を逸らそうと試みては、結果的に自分の心の歪みを思い知らされて。 また一歩憂鬱になる。
と、その時。
「……っなんで、山口なの」
私の横顔を長らく眺めていた、月島が呟いた。
「え?」
また、首だけで振り返って彼を見る。
「小さい頃からずっと、少しも疑わずに来たから、君は今更他の選択肢なんか無いのかもね。でも、」
と、眉間に皺を寄せて酷く傷付いたような表情の彼がいた。
「なんで、山口?」
そう問う口調は、何故だろうか。 私に何故忠なのかと問うているのに、まるで自身に問い返すようにすら思えて。
「……つき、しま?」
どうしてこんな女を好きなのかと、考えているように見えた。
けど、次の瞬間、
「……ハア、せっかく取り持ってやってんのにそんな顔されるこっちの身にもなってよ」
盛大にため息を吐いて、愚痴を口にした。
そして突然、
「……あーもーほんと、最低」
そんな言葉とともに、間近に迫る均整の整った綺麗な顔。
「……え、ちょっつきし」
咄嗟に腕を伸ばして、制止しようとした。 だって、あまりに近すぎたから。
けど、その抵抗が私の全力だったかというと、多分違う。
月島はそんなことだけはしないはず。だからきっとこれはブラフだ。 どこかでそんな風に思って、形ばかりの抵抗となってしまった。
その結果、私が抱き続けていたそんな幻想じみた考えを、彼は一息に破壊して。
驚いて半開きの唇に、一瞬触れる幼いキス。
「……っ!な、んで……っうそっ」
思わず飛び退いた。 その腕を振り払って、顔を背けて、一瞬、でも確実に触れてしまった唇を、手の甲でごしごし乱暴に擦った。
それでも、湿ったような感触は消えない。
すると、意識の外で目から水が流れ落ちてくる。
頭はまだ、月島に何をされたのかってことを理解しきれていないのに。
涙が、嗚咽が、起こった事実を帳消しにしたくて、込み上げて止まらない。
そんな、全身で月島とのキスへ拒絶の姿勢を見せる私に、
「……ハッこんなキスひとつで泣くとか、どんだけ山口が好きなの」
彼は嘲るように鼻で笑って、私を見下ろした。
「……っひ、どいっ」
信じられなかった。
あの日確かに私にキスしようとして、でも寸前でちゃんと思い留まってくれた月島が。 こんな風にあっさりと私の唇を奪うような真似をするなんて。
そして何より私自身が、月島は私の初恋の思い出を守ってくれる。だから、こんな風にキスされることは無いと、心の何処かで信頼してしまってた。
何よりも大嫌いな、月島を。
そのことがどうしようもなく、ショックだった。
「酷い?そんなの今更でしょ。君を脅してあんなことしてる時点で気付くべきでしょ」
その通りだった。 弱みを見せたのは私の方とはいえ、沈黙の代償に大切な初体験を要求してくるなんて、
「……さいっ、てーっ」
最低な奴のすることに他ならないのだった。
最近私の恋に少しばかり手を貸してくれていたし、あれからあの夜のことも黙っていてくれていたから、何故だかそれを恩のように感じてしまっていた。
けど、元々そういう約束だったし、むしろあの写真をもしかしたらまだ持っている可能性すらある月島が、最低な下衆野郎だってことなど疑いようも無かった。
そう認識を改めて月島を睨む私の前に、
「……うん。最低でいいよ。けどさ、」
彼はいつぞやのように、携帯の画面を向けてきた。
「……え、」
小さく、息が漏れる。
「僕は確かに抱かせてくれたら山口に言わないでおくって言ったけど、今後君を脅さないとは言ってないよ」
なにせその携帯の画面に写っていたのは、
「う、そ……なにその、写真……」
月島のベッドに横たわり、目を閉じる私の姿。
「君がスヤスヤ寝てる間に、ちょっとね。まあ、別にこうやって誰かに見せるつもりなんか無かったんだけどさ」
布団こそかけられているものの、乱れたシャツの大きく開いた胸元。覗く淡い色の下着の色。寝乱れたにしてはあまりに節操の無い格好。
全身の血が上手く巡らなくなるような、錯覚を覚えた。
「気が変わったよ」
にやりと笑った口元は、どこまでも冷たくて。
「……っ!」
背筋が恐怖で震えるのが、わかった。
「山口の机にキスしてる写真、まああれくらいなら山口も気持ち悪いなーで済ませてくれるかもね。でも、」
そんな怯えるように縮こまる私を見下ろして、月島は酷く愉しそうに笑って、
「自分の幼馴染が自分の友達に簡単に股開くような女だって知ったら、どう思われるのかな」
そして泣いている私を蔑むように。 自分の交渉のカードが如何に私にとっての決定打になり得るのか、語る。
「……っそん、なっ」
息が上手く吸い込めなかった。 込み上げる嗚咽は収まる気がしなくて、もはや、胃の内容物までもせり上がって来ようとしていた。
「……幻滅、されたく無いでしょ」
言いながら私の頬に触れた月島の指は、この、夏前の暑い夜だっていうのに。
ひやりと冷たくて。
「……っ!」
まるで蛇か何かの舌に舐められたようだと、思った。
「だったら、僕にお願いした方がいいんじゃないの?あの日みたいに、なんでもしますって」
堪えきれない笑いを滲ませたまま、月島は私の頬を流れる涙を指で押し拭う。
「さい、てー……っあんた、……人間のくずだわ」
その指先が優しいことなんか、今の私には少しの慰めにもならない。
「……ハッ、そんなの、今更でしょ。で?どうするの?」
どうするのなんて、初めから選択肢など用意されていないような質問を口にする月島は、
「抱かせてくれるなら、秘密は守るけど」
言いながら私の前に手のひらを差し出す。
まるで親愛の証の握手を求めるようなそんな優しさを装った笑顔。
その手を掴んだら、契約成立。 言われるまでもなく、わかりきっている。
跳ね除けられたのなら、どれほど良かっただろう。
「…………ほんと、死んでよ、月島」
吐き捨てながら重ねた私の手は、月島の大きな手のひらの中で。
「……うん。なら、殺してみなよ」
まるでようやく捉えたとでもいうように、強く強く、握り返された。
[*前] | [次#]
|
|