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私だって愛してる




思い出の中の母はいつでも強く聡明で優しくて、私にとって憧れの存在だった。

けれど、憧れは理解から最も遠いなんて言葉もある。

だから、きっと。
そんな母の弱々しい薄い肩を、私は見て見ぬふりをしてきたのだと思う。

彼女の脆さも危うさも、愚かさからも、私は目を逸らしてきたのだと思う。

憧れはいつの間にか盲信へと代わり、自分を責めることで真実から眼を逸らす私は、そうすることで母を想ってきたつもりだったけれど。

実際には、母の望むいい子でいることで必死に愛されようとしてきただけなのかもしれない。


クリスマスに会って以来、一月半ぶりに会う母は、何処となく痩せたような気がする。

「その子は……」

西谷を見てぽつりと呟いた母に、

「あ、お母さん、彼が」
「西谷夕です!ナマエさんとお付き合いさせてもらってます!」

彼を紹介しようと口を開けば、それを遮るように西谷が言いながら、腰から綺麗に折れて頭を下げた。

こんな時でも彼の体育会系を絵に描いたようなお辞儀に、ほんと西谷はいい営業マンになれるだろうなぁ。なんて思ってしまった。

「……!そう、あなたがナマエの彼氏。なんだか、思っていたタイプとは違うわね」

一瞬眉を上げた母が、戸惑いながらも柔らかい声で笑う。
そんな取り繕ったような声にどうしようもなく悲しくなりながら、

「私は……お母さんとは違うから」

私が返した一言は、きっと母を傷付けることだろう。

「……そう。それもそうね。ナマエは私と違ってしっかりしてるものね。男の好みも似なかったってことか」

その証拠に、自嘲するように呟かれたそんな言葉はあからさまに声のトーンを落として。

「よかったわ」

よかったなんて一言が、胸を抉るようだった。

「……お母さん……」

自分から、母を傷付けるようなことを言っておいて。
それでも、敬愛し続けてきた母の悲しげに伏せられた睫毛に、自身が何かとんでもないことをしでかしてしまったような、自責の念に苛まれた。


「西谷くんって言ったわね」

母が静かな声で、私の隣で白い息を吐く彼を見つめる。

「はい!」

唐突に名前を呼ばれた西谷は、見れば少しだけ硬い表情をしていて。
メンタルおばけの西谷が緊張してるとこなんてそう見れるものでもないので、眼を見開く。

と、

「娘をよろしくお願いします」

そんな一言と共に頭を下げた母に、

「え」
「……っ!?」

西谷も私も、声にならない声を漏らした。

「私が、あんなに傷付けて、こんな田舎に追いやったナマエを、大事に想ってくれてありがとう」

言いながら母は、拳を握りしめていて。あたりには雪の積もった寒空の下で、彼女の指は驚くほど白く。

「お母さん……」

酷く痛々しく感じた。

「白々しいとは思うわ。でも、この子にはあなたが必要だわ。だからどうか、」

だからどうかなんて紡がれた、母の祈るような言葉の続きは、

「だから、ナマエさんのことは俺に任せて、自分は責任逃れして仕事に明け暮れる気っスか」

西谷の静かな声に遮られる。

「……っ!」
「西谷……っ!?」

驚いたのは母だけではなくて、母が肩を揺らすのと同時に私の驚嘆して呼んだ彼の名は冬の空気を裂くように響く。

正直な話、こうして母に勝手に会いに来て、嫌な顔をされやしないかとか。どうしてもビクビクしている自分がいたけれど、

「ナマエさん、すみません。付き添いの分際でこんな風に口出しするなんて出過ぎた真似して。でも、俺はあなたが辛いの我慢して笑うのなんかこれ以上我慢出来ません」

力強い瞳のままそう言った西谷に、横っ面をぶん殴られた気分だった。

「だから、言わせてください」

「西谷……」

いざ、母を目の前にすると足が竦んでしまう私を、嫌なことから遠ざけるんじゃなく、覆い隠すんじゃなく、ちゃんと立ち向かえるように。

「俺がナマエさんの側にいるのも、大事に想うのも、そんなのナマエさんのお母さんに頼まれようと頼まれまいと関係ないっス。俺は自分の意思で好きな女の側にいたいし、惚れてるからこの人の笑顔を護りてぇんだ」

飾らない彼の心の声ひとつひとつに、涙が出そうになる。

「あんたがダメだって言おうが側にいるし、ナマエさんを傷つけて、ナマエさんがもうあんたなんかと会いたくねーってんなら」

西谷が男前なのなんて、今に始まったことじゃなくて。

彼は私と出会った時には既に、ワイルドとさえ表現されるほどに肝の座った漢の中の漢だ。

それでも、初対面の人間に向かってここまで堂々と物申す姿には眼を剥いた。

彼が私を想ってくれていることなんか疑いようもないのに、冗談でも殴ったら〜なんて口にしたことを謝罪しなくてはならないくらい、

「俺はナマエさんを攫って、駆け落ちでも何でもしてやるよ」

西谷の覚悟は固くて、気持ちは重くて、心は大きいのだ。

「……っ」

あの静かな湖畔のような母が、自分の年の半分も生きていないような少年の言葉に大きく揺れていた。

それを視界の端で捉えながら、私は隣で私の手を握ってにやりと口角を上げた西谷に、またひとつ心奪われる。

そのあどけなさの抜けきらない笑みは悪戯な子どものようなのに。
それでも彼が本気で、私となら駆け落ちしてやると豪語していることくらい、疑いようもない。

愛なんて言葉じゃ足りないくらい、私を愛してくれている。

自惚れでもなんでもなく、事実を知るには十分すぎて。

「にし、のや……」

涙がひとすじ、頬を伝う。


私だって、もしも実際誰かに西谷との仲を裂かれでもしようものなら、全て投げ打って西谷とふたり、誰も知らない場所に逃げてしまうくらいのこと、出来てしまうだろう。

親友の潔子、ただ二人の幼馴染、同じクラスの皆とその筆頭のオカン系男子、バイト先や先生に至るまで。
引っ越してきて知った温かな人との繋がりの全てを失うことになるんだとしても。

私にはもう、西谷を失うって選択肢だけはありえない。

そんな恐ろしいことを余裕で考えついてしまうくらいに、私だって彼を愛してる。



それでも、

「でも、ナマエさんはそんなこと望んだりしない」

そんな未来を望んでいるわけがなかった。


彼がいれば何もいらないなんて言える相手に出会えたこと、そんな恋に落ちたこと。

奇跡みたいに眩しくて、この恋を想うと胸に灯る熱は、いつしか私にとって生きる意味にさえなり得るほど深く大きなものになっていた。

けれど出来ることなら、

「……あんたと違って、強くて義理堅くて愛情深い人だからだよ」

私は二つあるこの手で、西谷と潔子の手をひとつずつ握っていたくて。
さらに言うなら、大好きな人達の笑顔に囲まれて生きていきたい。

「あんたにボロクソに言われて、勝手な都合で引っ越しなんかさせられても、あんたを恨むどころかひたすらに自分を責めてた!寂しさも虚しさも押し殺して、たった一人で堪えてた!」

そんな風に我儘なことを考えられるようにしてくれたのは、

「……この子にはあなたが必要?なんだそりゃ。今更どんな顔して母親面してんだよ」

私の心と身体の奥深く。
自分でも理解の及ばない場所に深く根付いて巣食った、他ならぬ私の為に声を荒げてくれている彼。

「ナマエさんには!あんただって必要に決まってんだろッ!!」

寂しい時は寂しいって泣いて、辛い時は辛いって喚いて、欲しいものは欲しいって言っていいんだって、

西谷が教えてくれたからだ。

「……っ!」

彼の言葉に、母の肩が大袈裟なほどビクッと震える。

「ナマエさんは確かに強い人なのかもしれない。だからこそ一人でずっと重い荷物を背負ってきたし、学校でのいじめも幼馴染との別れも、あんたからの仕打ちにだって堪えてきた」

私はきっと、性格が悪くて。
薄々自覚はあったけど、精神とか歪んでて、危ない女なんだと思う。

だって、

「けどな!強いヤツがなんも感じてねぇわけじゃねーんだよ!耐えてこれたからって痛くて悲しくて寂しい想いが平気なわけねぇだろ!!」

大好きな西谷が顔を真っ赤にして、泣きそうなりながら感情を露わにして。
私の為に怒るのを、嬉しいって思うんだよ。

私の為に彼が心を痛めてるのに、ありがとうって言いたくなるんだよ。


「……俺だけしかいらないとナマエさんが望むなら、今日ここにあんたに会いに来るわけない」

西谷が私の手を握りしめたまま、

「子どもが逃げずに立ち向かってんだ!あんたが逃げんなよ!この根性無しがッ!!」

母を真っ直ぐに見据えて声を荒げる。

その言葉が母に届いたかどうかなんて、疑う余地も無かった。

「……っ」

小さく息を詰めた母の傷付いた顔に、胸が張り裂けそうなほど傷んだから。

そんな母を見て、咄嗟に、西谷に彼女をもう責めないでと懇願したい気持ちが生まれる。

母はどこまでいっても私の母なのだ。

確かに今日、言いたいことを言ってやろうと思ってここへ来たけれど、目の前で華奢な肩が揺れると、その細く脆い心をへし折ろうとしているようで、どうやっても胸が痛んだ。

だから、もういいよとありがとうを口にしようとして、西谷の表情にハッとした。

その眉間の皺は深くて、吊り上がった眉は烈火を思わせる。

そこまできて、漸く気が付いた。

私が思っても言えなかったこと。
考えることすら怖いと思っていたことを、彼は代弁してくれたのだと思った。

けれど、違うのだ。
彼は私の為なんかじゃなく、ただ純粋に、自分の怒りとして私の母へ言葉を紡いでいた。


ひとりぼっちの冷たい家に、西谷を初めて招き入れたあの聖夜のことを思い出す。

私を護りたいと、私を傷付けるのなら私の両親のことさえ放ってはおけないと涙を流した彼の姿は、
今でも瞼の裏に焼き付いて離れない。

「……西谷ぁ……っ」

母の傷付いた表情には胸が痛い筈なのに、その痛みを凌駕する程に。

彼の想いが、私の心臓を熱くする。


繋いだ手の指先を優しく解かれて、

「すみません、ナマエさん。あなたは俺のものだけど、それでも」

涙が伝う私の頬を、西谷が親指で拭ってくれる。

「せっかく震える足引き摺ってまで来たんだから、ちゃんと言いたかったことは伝えましょう」

その指先が愛しくてたまらないとでも告げるようで、また涙が溢れるけれど、

「…………うん。ありがと、西谷。大好き」

私は泣きながら笑って、そっと彼の背に腕を回した。

「……っ!」

目の前で恥じらいもなく彼氏に抱き付いた私に、母が少なからず動揺するのがわかったけれど、

「はい。……俺もっス」

そう言って背中をぎゅっと抱き締め返してから、私の背中にそっと手を当てて一歩前へ押し出す。

「じゃあ俺はその辺で待ってるんで、終わったらデートですよ!ナマエさん!」

なんて笑ってくれる彼は、そのまま寺の砂利道を踵を返して走り去って行く。

実を言うと、西谷は今日貴重なオフなのだ。
だから私が母と話し終わったら、私達は初めてのちゃんとしたデートってものに出掛ける。

……なんか、死亡フラグとかみたいで笑えるけど。

それでも。

西谷にこんな所までついてきてもらって、驚くほどの熱い想いでお膳立てまでされて、

「お母さん、私ね、聞いて欲しいことがあるの」

今勇気を出せないなら、私は彼に合わす顔なんかない。

「好きな人が……出来たよ」

だから、母と話さなきゃ。

まともに喧嘩することも出来ずにすれ違って生きてきたこの16年間。

話さなきゃならないこと、話したいことなんか、山のようにあるのだから。




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