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俺がいますよ
お母さんにとってのお母さん、おばあちゃんについて。 私が覚えていることはそんなに多くない。
宮城と東京で離れて暮らしていたからってこともあるけど、お母さんはおばあちゃんとそんなに仲が良くはなくて、宮城の実家に帰るなんて滅多に無かったからだ。
だから、私が生前のおばあちゃんに最後に会ったのは、小学生の頃。 目元の優しい人だったことは憶えている。
その頃、共働きの両親の下で家に帰ってもひとりになることが多かった私を、一番心配してくれたのもおばあちゃんだった。 おじいちゃんが先立ってからおばあちゃんもずっとこの家に一人だったから。 きっと私の寂しさも分かるのかなって、幼いながらに思ったものだ。
今思えば母とおばあちゃんの仲が良くなかったのは、私を家にひとりにしてまで仕事に明け暮れる母を祖母が糾弾し続けた結果だった。
そう思ったら、やっぱりここでも家庭を壊していたのは私なんじゃなかろうか。なんて、自嘲が漏れる。
と、
「なーに言ってんスか!親子が喧嘩すんのなんかよくあることだろ!」
馬鹿言ってんなって呆れた声で言う彼は、言いながら私の右手を握り直す。 ちなみに、私の手は最近じゃ寒過ぎて手袋なしじゃ取れてしまいそうなので、いつも西谷のコートの中にお邪魔している。
狭苦しいスペースの中で絡み合う指先は、今年ばかりは悴み知らずだ。
「……!」
一組の手袋を半分こずつ使って、手を繋いで彼のポケットへイン。そんな技を編み出したのは、私達の手のサイズが一緒で、手袋兼用できちゃうね!なんて笑い合ったのも理由だけれど、一番は冬の寒さの中でもやっぱり直接手を繋ぎたくて。
つまりはバカップルの為せる業だった。
「俺んちなんかいっつもじいちゃんととーちゃん喧嘩してますよ」
「そ、そうなの?」
喧嘩なんて言葉に驚いて眉をあげるけれど、西谷は平然としていて。
「はい!同じ家で生活して、同じ血が流れてんだ。近いからぶつかる時もあるんじゃないスかね」
「な、なるほど?」
私だったらそんな頻繁に祖父と父が家で喧嘩していたら滅入ってしまいそうなものだけれど、そこは慣れの問題なのか西谷ほどの男前にかかれば大した問題では無いのか。
親子喧嘩なんてしたこともない私に、
「それに家族だからこそ遠慮なんかしねぇし、思ってること言えるんスよ。家族にまで気ぃ遣ってたら疲れちまいます!」
家族ってものはそういうものなんだって、教えてくれた。
それを聞きながら、なんとなく。 喧嘩するほど仲がいいなんて言葉もあるくらいだし、そういう円満な家庭ってものもあるんだろうなって、思った。
「ふーん……西谷、他人に気を遣ったりしないくせにそういうこと言えるのね」
そんな可愛くない返しをした私に、
「あ!おい!人が良いこと言ってんのにそういうこと言うんスから!ったくナマエさんはーっ!」
ムッとして唇を立てる西谷。
「あはは、だってー!」
私の為に言ってくれたってことくらいよくわかってる。
けれど、少しだけ悲しくなってしまうのは、じゃあ私と母は喧嘩することも出来ないくらい疎遠な存在なのかなって考えてしまったからだ。
喧嘩なんて出来るならしないで済んだ方がいいと思っていたけれど、なるほどそう考えると衝突を避けずに互いの主張を言い合えるというのは大切なことなのだろう。
簡単には切れない絆だと信じるからこそ、心置きなく振る舞えるのだ。
「じゃあさ、私達もするのかな。喧嘩」
ぽつりと呟きながら彼を見遣ると、
「そうっスねー。するかもしんないですね」
少しいたずらな笑みで見上げる西谷と目が合う。
今日も今日とて逆立った黒髪とさらりと落ちた前髪に、綺麗な瞳。 彼の寒さに少し赤くなった鼻や話す度白くなる息に、ああ、冬だなあ。なんて、季節を想うのだ。
「えー?西谷に殴られたら潔子に言おう」
にやりと笑い返して言えば、
「なあっ!?俺がナマエさん殴るわけないじゃないスか!」
驚いて声を上げる西谷。
「本当かなあ。あんたが悪いことしたら潔子、もとい澤村くんに叱ってもらうからね!」
「な、なんで大地さん出てくるんスか!?」
たとえ喧嘩したって、西谷が私を殴るわけないってことくらいわかってる。
だけど、悪いことしたらチクっちゃうからねって脅せば、西谷は悪いことなんかしてないくせに慌てふためくものだから、そんな彼が可愛くってついつい揶揄いたくなる。
「冷静に考えて潔子に叱られたら西谷バカだから喜びそうだし」
西谷の潔子崇拝は、私と付き合ったところで相変わらずだ。
でも、それは私も潔子にへばりつくのを止められてないから、まあ責める資格ないっていうか潔子だけは特別って思ってるんだけど。
「あ、いやっ!そ、れは……っ」
「否定できないって顔してる」
冷静に考えたらさ、自分の彼氏が自分の親友に叱られて喜んでたらキモいなーって幻滅しそうなものなのに。
「ぐぬぅ、ずいませんっ!」
眉間に皺を寄せたまま唇を歪めて、謝罪を口にする西谷を、
「ハハ、どんな顔してんのよあんたっ」
まあ、彼はそういう生き物だからなー。なんて、許せちゃうというか、愛せちゃう自分がいるんだよ。
私も大概、残念な生き物だよね。
「でも、ナマエさんを傷つけるようなこと、俺がするわけ無いじゃないスか」
散々からかってゲラゲラ笑った後。
少しムッとした西谷が真面目な顔をして言うから、
「……うん、そうかも」
どくんと胸が高鳴る。
唇を引き結ぶのは、彼が私を護ると言って有言実行してくれていることくらい言われなくてもよく知っているからだし、
「そ、そうかもって」 「でも、西谷にしかつけられない傷もあるから」
それでも、西谷だからこそ私に致命傷を与えられるってことも、意識してしまったからだ。
「え?」
西谷の見開いた瞳に私が映り込む。 それを、どうしようもなく愛おしいと思う。
でも、
「それを怖いって思うのは、やっぱりどうしようもないよ」
大切なものほど失った時の痛みは大きくて、その恐怖は彼を大切だと思えば思うほど、ずっとついて回るんだ。
「ナマエさん……」
切なげに瞳を細めて名前を呼ばれると、苦しくて。
「それは俺だって一緒です」
「うん……」
私の心臓は彼のもので。 彼の心臓は私のものだ。
私達は思いを通じあわせたその日に、自分の何もかもを相手に差し出してしまった。
よく恋愛小説とか、ラブソングの一節に、こんな想いをするくらいなら初めから出会わなければよかったって言葉があったりするでしょう? そんな気持ち、すごくよくわかるよ。
私だって西谷にフラれたりしたらきっと同じ事を思うから。
母が幸せの詰まった日々を捨て去ろうとしたように、私だっていつか彼と過ごした宝物みたいな日々を忘れたいと願う日が来ないとも限らない。
でも、西谷みたいな怖いもの知らずな人が、私との別れを恐れるだなんて正直予想外だった。 そんなわけないじゃないスかって、バカなこと言わないでくださいって流されてしまうと思ったのだ。
けど、
「それでもずっと、手を繋ぎましょう」
西谷がらしくもなく私と別れる日を恐れるのだとしたら、それは私を想うが故だし。
「……うん、そうだね」
恐怖を内包したまま、それでも私の側を選んでくれる彼の手を、私は一生離したくないって思うんだよ。
結果なんてさ、きっと人生が終わってみないとわからないんだけど、側にいたくて足掻くことをやめられるわけはない。
だって私達は、今まさにお互いのことが恋しくて愛しくて大好きなのだ。 いつかなんて来るかもわからない別れの恐怖に押し潰されて、絡めた指を解いてしまうほど愚かでも潔くもないのだ。
だけど、照明を落としたベッドの上とかならまだしも、晴れ渡る朝の空気の中で甘ったるい会話をするなんて、やっぱりちょっと照れくさいから。
「手を繋いじゃえば、西谷が私を殴ることもかなわないしね」
照れ隠しににやりと笑えば、
「って!殴らねぇって言ってんじゃないスか!!」
眉を吊り上げる西谷が護るって言ってんだろって怒って、黙らされたわけだけれど。 実はね、私、西谷にだったら一発くらい殴られも許せちゃう気がするんだ。なんて危ない一言は、最後まで胸の内にしまいこむことに成功した。
ほんと、私ってやつは西谷が絡むと意味のわかんないこと平気で考えちゃうから怖い。
*
そんな、なんでもない会話をしながら、子どもの頃家族で辿った道のりを西谷と歩く。
祖母の家から徒歩15分ほどの道のり。 いつもなら歩くのが速い私も、流石に今日ばかりは足が竦んでしまうというか、ついついノロノロしてしまって。
そんな私を優しくリードするみたいに半歩前を歩く彼を見つめながら、思い出す。 小さい頃はお墓で転ぶとそのまま黄泉の国へ連れて行かれると言われて、いつもお父さんの大きな手にしがみついていたっけ。 母はそんな私をひっつき虫って呼んで揶揄うけれど、思い出の中の彼女は酷く幸せそうで。
最後に会った時の悔しそうに噛み締められた唇を思えば、涙が出そうだった。
「ナマエさん、怖いですか」
そう問う声は静かで、いつも喧しいほどに元気なくせに、流石の彼も私の緊張を汲み取ってくれていた。
「……うん」
それでも情けないくらい震えてる手をぎゅっと握り締めてくれる西谷を、心の支えにするみたいに握り返せば、
「大丈夫、俺がいますよ」
コートの中で温かくなるのは、指先だけではなかった。
「……うん」
何処にあるとも知らない心がほんわかして、それに準じて心臓もドクドクいう。
「だから、なんも心配なんかねぇ。もしあなたが傷つけられるようなことがあったら、その時は俺が護ってやるよ!」
俺が護ってやるなんてそんな気障な一言が、どうしてこうも似合うんだろう。
冬の弱い朝日の中。 それでも私の太陽は彼だって思うから。
「……西谷ぁっ!」
その笑顔に飛び込むみたいに抱き付く。と、
「わっ、ちょっ!ナマエさんっ!?」
戸惑いながら、大きく揺れながらも、なんとか受け止めてくれる彼が愛しい。
先祖代々なんて石が並ぶ冷たい墓地で、西谷の腕にぎゅうっと抱き締められる。 すると、ここが何処なのかとかこれから何が待っているのかとか、そんなことの一切をどうでもよく思えてきてしまうのだから、彼は私にとってのあらゆる薬な気すらした。
私はその腕の中に収まると、抗いようもなくドキドキするのに、不思議なくらいホッと息をつけるのだ。
君は僕の薬箱さなんて歌詞の歌があったっけ。本当、西谷にかかったら私の胸に埋まる鉛も簡単なものだった。
この身を蝕む孤独、罪の意識、足元から切り崩されるような想いのする悲しい過去を、乗り越えるために。
「……だから、言いたいことは全部言ってやりましょう」
西谷の肩口に額を押し付けると、愛おしそうに頭を撫でてくれる。 私は彼をいつだって頼りにしているけれど、いつより頼もしいと感じた。
「……うん」
もう、逃げない。 どんなに辛く厳しい言葉を聞くことになっても、今後こそ母の本心を受け止めてみせる。
そんなことを思えるのは、
「ありがと、大好き」
泣きたい時に泣かせて、抱き締めて欲しい時に抱き締めてくれる、西谷が私の手を繋いでいてくれるからだ。
ホラーは得意じゃない。 それでも昼間の墓地なんかに出てくるほど幽霊も暇ではないだろう。
だから。
「……ナマエ」
ミョウジ家代々なんて書かれた墓石の前でひとり佇むその人は、
「お母さん」
幽霊でも幻でもなく、まごうことなく私の母だった。
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