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ねえ、お願い



「とりあえず中入りましょ。ナマエさん、氷みてぇだ」

彼はそう言って私の頭に積もった雪を払ってくれた。

その指先が優しくて。
愛なんて言葉じゃ足りないくらい、彼を好きだと思った。

泣き出した私の肩を優しく抱きかかえたまま、彼は私がバッグから取り出した鍵で室内へ入る。

けど、中も外とさほど変わらないほど寒くて。私はその冷たい空気にまた身震いした。

「お邪魔します」

こんな時でも律儀にそう口にする西谷は、手探りで私の家の電気を探り当てて、私の部屋まで連れて行ってくれた。

その足取りは数えるほどしかうちに入ったことがないとは思えないほど、迷いがない。

それから私の部屋に入るなり、私をベッドに座らせて、頭から毛布を被せてくれる。

「とりあえずあったまりましょ!……ストーブつけますね」

私が、髪をひと撫でして離れていこうとする西谷の手を掴む。と、

「……ナマエさん?」

彼は振り返る。

涙に濡れた視界じゃ、西谷がどんな顔してるのかなんてわからない。

「西谷、」

ただ、私は彼を見上げてて、

「聞いてくれる?いつか話すって、約束した話」

「……もちろん。あなたの話ならなんでも聞きますよ」

彼は私を真っ直ぐ見つめ返してた。





小さい頃、母があまり家に帰ってこないことを私はいつも不満に思っていた。
ある日帰ってきた母を責めて泣いた私に、母は言い淀んで、代わりに父が私に言った。

「お母さんは私達家族のために働いてくれてる。本当はお母さんが一番、家に帰りたいんだよ」

その一言は幼い心にも何かを感じさせて、私はそれから泣かない子どもになった。私の涙は、両親を困らせるだけなのだと思った。

私が幼少期寂しい思いをしたかとか、そういうことは別としても、ふたりはいい夫婦だと思った。
互いに思い合う姿は、今も忘れられない。

でも、いつからだろう。
いつからか父までもが仕事を理由に家に帰ってこなくなり、たまに帰ってきた母はそんな父を責めるようになった。

「お金なんて私の稼ぎで十分。あなたは必要もないお金の為に、家族を犠牲にするの?」

その言葉が、二人の仲を再起不能なほどに追い込んだってことは、間違いなかった。

私は中学三年の夏だった。

総体を終えて、皆は受験のために殺気立ち始めていて。教室の空気は最悪だったのを、なんとなく覚えてる。

「父が女の人とホテルに入るのを、私が見た」

そう言うと、西谷は目に見えて動揺した。

ふたりぶんの脱ぎ散らかしたコートが床に落ちてて、私はベッドの上で膝を抱えて、西谷はその正面に胡座をかいて、向き合って座った。

「咄嗟に写真を撮ったの。何か深く考えがあったわけじゃなくて、ただ、目の前の光景が現実のことなのか、わからなくて」

西谷は、普段の様子が嘘みたいに静かで。

「私は父の不倫の証拠を掴んでしまった」

ただ私の手を、ずっと握り締めててくれた。

「誰にも話すことなんか出来なかった。母にも、もちろん父にも」

クロや研磨にさえ相談せずに、一人で抱える日々は辛かった。けど、私が秘密をバラすごとによって起きてしまうだろう恐ろしい未来を考えたら。
胸に棘が刺さってるみたいにチクチク痛み続けるけど、こんな痛みくらい耐えられるって思った。

「けど、ある日友達が相談してきたの。お母さんの帰りが最近遅いって」

その子は陸上部で一緒にハードルをやってた子で、クロや研磨を抜いたら、多分一番仲のいい女の子だった。

彼女が言うには、春あたりから彼女の母はパートの帰りが遅くなった。
それだけなら別に気にもしなかったのだけれど、帰ってきた母は明らかに家のシャンプーと違う匂いがして、妙に粧し込んで休日に出かけて行ったり、夜中知らない間に出掛けていくことさえ、最近では珍しくないという。

母は不倫していると思う。
そうやって目の前で泣き崩れた友人に、気付けば私も自分の見てしまった父の不倫現場の話をしてしまった。

その時の私は、彼女の押し寄せる悲しみに酷く心を揺らされていて、自分も胸につかえている棘を抜いてしまいたいと思ってしまっていたのだ。

彼女のように、感情の赴くままに泣けたならいいのにって。

そうして、私は携帯にあった父の不倫現場の写メを見せてしまった。

それが、運の尽きだったと思う。

その写真を見た彼女は、酷く狼狽した。

父の不倫相手は、私の友達のお母さんだった。

私達は同じ運命の歯車に押し潰されそうになっている同志だと、彼女は言った。

この辛さをふたりで乗り越えようって、そう言ってくれた。

それなのに。

その次の日、教室へ行ったら私の机は無くなってた。

そして、その日から同じクラスのみならず他のクラスまで。

陸上部の知り合いも、そうでない顔見知りも、私のことを総スカンする日々に変わった。

実際、いじめの内容としては温かったと思う。

陰口、証拠もない噂話、あとは徹底したシカト程度だ。

幸運と言えるかわからないが、男子生徒は特に変わりなく話してくれたし、私には幼馴染がふたりいた。

ふたりはどんなことがあっても味方でいてくれたから。

私は不登校とかそういうこともせずに、特に問題なく毎日を過ごした。

でも、今までクラスの中心で笑っていた私があまり笑わなくなって、女子とは一切話さなくなったのを、担任は見逃さなかった。

そして、すべては公になる。


後でクロに聞いた話によると、
彼女は私と話した後すぐに、クラス中の女子に、私の父が彼女の母を誘惑して不倫関係にまで陥れて、それを知っていた私が父を庇おうとずっと事実を隠していた。その所為でふたりは不倫を続けていたと連絡していたらしい。


母は日本に帰ってきてすぐに、父と離婚を決めた。

父も特に抵抗はしなかった。

私は母についていくことに決まったけれど、親権の話をされた日、母は言った。

「ナマエの口の軽さが、私達の家庭を壊したのよ」

そうして、私は高校を予定していた音駒から、宮城の祖母の家から通いやすい位置にあった烏野に変えることになった。


クロと研磨は、私が母と最後に会った日に、泣きながら道を歩いていたら見つけてくれて。
全部聞いてくれた。二人が察していたいじめの詳細も、私が犯した罪も、母に捨てられることになったことも。

その時抱きしめてくれたクロの肩は震えてて、ああ、苦しいんだって思った。
私の涙は、クロのことも苦しめてる。

そう思ったから、それ以降西谷に変態から助け出されたあの日まで。私は泣いたことなんかなかった。

なのに、今の私は酷く泣き虫だ。

「それはきっと、西谷が私にくれた弱さなの」

私の言葉に、目の前の彼が大きく揺れるのがわかった。

「西谷がいたから、私は今日、お母さんに会いに行けた」

なんで、涙は枯れることを知らないんだろう。
もう泣き過ぎて喉はガラガラだし、目は擦ってないのに痛くてたまらない。

「西谷が私の心を預かっててくれたから、私は泣かずにいられた」

それでも、話さずにはいられなくて。
話せば、とめどなく涙が溢れた。

「……っナマエさ」
「西谷が私を待っててくれたから、私は今生きてられるの」

私は重ねられたその手をそっと引き寄せて、自身の胸に押し当てた。

「ねえ、お願い」
「……ナマエさんっ」

そこには西谷がくれた心臓がどくどくと凄い速さで脈打ってて、見つめた先で彼が戸惑ってるのが、わかった。

それでも。

「私を抱いて、夕」

泣きながら懇願した私に、

「ナマエ」

西谷はただひとこと、名前を呼んだ。

私の目の前には、歪む視界いっぱい、真っ赤に染まった彼がいた。




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