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馬鹿につける薬
帰り道、西谷に勉強教えようと思った経緯を話していると彼のお腹が物凄い音を立てて、あ、そうかご飯食べなきゃ可哀想だな。なんて気付いたのはもう私の家まで500メートルって所まで来ていた頃。
一旦家に帰らせた。 で、どうせならお風呂も入ってからまたおいでって言ったら、敬礼して走って帰って行って。どんだけ楽しみなんだ、と私まで楽しみになってきてしまう。
それから彼が私の家のインターホンを押すまでに掛かった時間は、驚くことに30分ちょっと。確かに家近いけどお風呂とご飯早すぎない?!
私は簡単にパスタ作ってようやく食べ終えたところで、ぶっちゃけ一時間以上は掛かるだろうと踏んでいたから度肝を抜かれた。 てか、私もお風呂入りたかったのに気合入りすぎだよ西谷。
「お、お邪魔しますっ!!」
まるで戦場に赴くかのような気迫を漂わせて我が家に足を踏み入れる西谷は、いつもと圧倒的に違う所があった。
「おお、髪セットしてない……」
いつも全力で逆立ててある髪の毛がぺたりと頭の形にへたっていたのだ。
「あ、風呂入っちまったんで」
そう言って前髪を少し摘んでみせる西谷に、うっわ、可愛いーって胸がキュンキュンした。
髪下ろしたら印象違うだろうなってことくらいわかってたのにさ、なんていうかたまらん……。
恋をすると人は馬鹿になるのだ。 語彙力もクソもあったもんじゃない。
「そんな見られると照れますよ!ナマエさん!」
無粋に見つめてにやにやしてる私に、ちょっと拗ねたような口調で西谷が唇を立てた。
「え、あっごめんっ」
反射的に謝れば、
「でも!……俺はナマエさんの風呂あがりを期待してましたっ!」
なんだか不服そうに言うのは、私だって出来るならそっちのがよかったーなんて思っていた件。
てか期待しましたとか正直過ぎてもはやいやらしさもないんだけど。
「うん、あんたがあと30分は遅く来てくれたら私もお風呂出た頃だわ」
そうしてくれたら、私のシャンプーのいい匂いで悩殺してやったのになー。なんて、ちょっと残念。
「マジすかっ!?じゃあ今からロードワーク行ってくるんでっ!」
けど、もちろんそういう意味じゃない。
「いや、風呂入ってから汗かくなよ」
「あ、確かにそうっスね!」
うん。本当はそういう話でもないんだけどなあ西谷。
お風呂上がりとかそういうのって、狙ってやるものじゃなくて不意に訪れるからいいものっていうか、言うなればラッキーエロ的なもので……って私は何について真剣に考えてるんだ。
「西谷の勉強がなんとかなりそうなら私はお風呂入りに行く!」
気を取り直して言えば、
「お!おぉおお!!」
目の前で歓声をあげる西谷。 大きな瞳をキラキラさせて喜ぶ姿に、私のすっぴんは潔子ほどのクオリティーは無いのだが……とちょっと怖気付く。
「……えっち」
なんか恥ずかしくて唇を立てれば、
「えっ!?いや、なっナマエさんっ」
西谷も恥ずかしくなってくれる。
私達は、そういう関係だ。
*
西谷に見せてもらったのは、先週の金曜日にやったという小テスト。 苦手なのは現文というから、現文とか私ほとんど勉強したこともないやー。なんて思ってそれを見たんだけど。
「ごめん、ひとつ言っていい?」
テストを見るなり、目に飛び込んできたのは19点という数字。
うわ、こんな点数人生で初めて見た……とか軽く感動した。
でも、私が言いたいのはそういうことじゃない。 今更西谷の点数の低さにビビって顔を引きつらせてるわけじゃないんだ。
「は、はい!なんでも言ってください!俺っ」
私を覗き込む西谷は、一見して凄くいい生徒。なんていうか、指導したら全部ちゃんと守りそうな素直な瞳で見上げてくる。
けど、
「なんでわからないのかがわからない」
予想外の事態だった。
「……え、」
呆然とする私に、西谷も困惑してた。
「いや、現文って言うから……なんか読解問題のコツとか、そういうのかと思ってたんだけどさ……」
「はい」
言い淀む私に、西谷は不安そうに眉を寄せる。 きっと、私がなんて思われているのかって心配になってきたのだろう。
でも、
「あんたバカなの?」
私は机に頬杖をついて、言った。
「……っ!?ナマエさんっ!?ひ、酷ぇっ!」
私の取りつく島もない一言に、西谷はもはや涙目。
「いや、だって、ごめん。なんで問いで訊かれてること無視して回答しちゃうのか私にはわからない……」
西谷の現文の解答欄は、私には理解し難いものだった。
漢字が間違えてるとか、そういうのはまあ想定内。けど、登場人物の心情をよく表す一文を20字以内で抜き出せって問題文に、もっと自分を大事にしろ!バカ野郎!って書いてあるの。何それ……?あんたの感想書けなんてどこにも書いてないでしょ。 でも大胆にも解答欄からはみ出さんばかりの大きさで書いてあるところを見る限り、西谷は自信満々なんだよね。その点のみは凄いけど……。
でも問い無視しちゃったらさ……、問題文が設けられている意味、なくね?これは生協じゃないんだぞ!?
「ナマエさん!そんな顔しないでくださいっ!」
死んだ魚みたいな目で回答用紙を見つめてる私に、何故だか励ますように肩を叩く西谷。
「ん?」
「テストなんか出来なくたって!俺には」 「うるさいバレー馬鹿」
さてはこいつ、私が意気消沈してるのが自分の所為ってわかってないな!?
どんな言葉を続けようとしたのかはなんとなく想像出来た。どうせバレーのことでしょって遮れば、
「ええっ!?ひでぇ!!」
声を上擦らせて肩が飛び跳ねた。
「ごめん。ほんとごめん西谷」
そう謝った私は、もはや落ち込んでいて。
「は、はい……」
西谷は心配そうに私を覗き込む。
「私にはバカの気持ちが分からなかったわ」
絶望してた。 よく考えたら私は、授業で一度教えられたことを何度も努力して覚える人の気持ちもよくわからないような女だった。
「ほんとごめん。私じゃ教えられないわ」
記憶力がいいのは昔からで、今はいい大学入っときたいなーなんて考えから毎日こつこつ勉強するようになったけど、中学くらいまで宿題以外で家で勉強したことないしな……。
「役に立てなくて……ごめん」
西谷が何でできないのかがわからないのは、私側に問題があるのかも。
「何言ってんスかナマエさん」
シュンと肩を落とすと、私の机に座らせた西谷が真っ直ぐに私を見つめた。
「俺は役に立ってくれるからナマエさんを好きなんじゃねぇ」 「……っ!」
その綺麗な目に見つめられると、いつだって見つめ返したくなる。 その淀みない声で呼ばれると、いつだって胸が高鳴る。
「……って、前にナマエさんに似たようなこと言われましたよ!」
ニシシって笑った西谷に、
「うん。言ったかも」
私の顔にも生気が戻ってきた。
「……そりゃ、ナマエさんが俺の役に立ってくれようとするのはスッゲー嬉しいっス!でも、」
いつも私が勉強につかってる机に肘をついて、私を見つめてる彼は30センチ先で、私の悪癖を嗜める様にしょうがない人だなって顔をする。
わかってないなぁって。
まるで、一ヶ月前に私がしたみたいに。
「たとえ何の役にも立たないポンコツだったとしても、俺はナマエさんが好きです」
西谷はそう言って酷く優しい顔をするから。
「どんなナマエさんだって、愛してみせるぜ!」
私は泣きたい気持ちになる。 ああ、この人のこういうとこ、好きって。
「……っ!……ううっ西谷ぁっめっちゃくちゃカッコいいっ」
情けなく歪んだ顔のまま西谷を賞賛すれば、
「……や、やめてください!そんな面と向かって言われたら照れるじゃないっスかぁあ」
至近距離で褒められたのが効いたのか、西谷まで頬を染めてふにゃりと情けない顔つきになる。
そんな顔も好き。
だけど!
「でも、そういうのは赤点取らなくなったら言え!!」
その腑抜けた顔の西谷の肩を鷲掴んで今言うべきは、甘い言葉じゃない。
普通に考えて自分のバカさを省みなさいよ、あんたは!
「っ!……え、あ、はい」
ハッとしてバツの悪そうな顔をする西谷に、躙り寄って間の距離を詰める。
「…………クリスマス補習とかありえないからね」
唇を立てて睨み付ければ、私の不機嫌の原因は伝わる。
「…………はい」
西谷は怒られてるのを粛々と受け止めてて、似合わない小さな声で答えた。
「そんなことになったら私潔子と過ごしちゃうからね」
でも、ここではい、許すよって言ったらきっと彼には何の薬にもならない。
「う……ぐっ……全力を尽くしますっ!!」
だから私はそれも悪くないなあって考えちゃう一つの案を提示。 西谷は流石に狼狽えた。
「うん」
馬鹿につける薬はないって言うけど、私は西谷に薬をつけた。
「頑張ったらご褒美、あげるから」
ていうか、バカを動かす言葉を、私はこれしか知らない。
「……え?!い、いいんすか?!」
目の前にエサを吊り下げて走らせることしか知らない。
だから、
「テストで赤点回避したら、クリスマスは特別な夜にしてあげる」
西谷の頬を撫でて、そのまま綺麗な形の耳をなぞる。と、
「と、特別……っ」
簡単に揺れ動く目の前の少年。
もしかしたら、こんなのはズルいのかもしれない。 赤点なんか取らせたくないって思うのは、私のエゴだから。 そのエゴのためにこうやって、美味しい餌で釣って、西谷を操ろうとしてるのかも。
「だから授業中寝ないこと!努力でどうにかなる漢字とか慣用句とか!暗記くらいはしなさい!でも徹夜はダメ!そんなことして覚えたものは身に付かないし、他のことや体調に支障が出るからね?!」
それでもいい。 私は密かに決めてたんだ。
「は、はい……っ!」 「よしっ」
西谷は告白してくれた日に、心ごと私を欲しいと言ってくれた。
だから。 クリスマス、心ごと私をあげようって思ってる。
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