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傘を差して魔が差す



薄暗い空からポタポタと雨が降り始めたのは、六限も終わりにさしかかった頃だった。
窓には吹きつけた雨が水滴となって残る。

今日も図書室で勉強して帰ろうか。
しかしテスト期間のせいで図書室が混み合っていて参る。

普段から利用しているのだから優遇して席を確保するサービスが欲しいくらいだ。
そう脳内で愚痴ってから数秒後、混み合う図書室で勉強するくらいなら家の方がよっぽどまともな環境と気づいて、今日のところは帰って勉強することに思い直した。

明日は現国と生物だったかな。
自分で言うのもなんだが勉強はこつこつやるタイプなので、テスト前といえど私はあまり焦らない。
多分受験ともなれば毎日必死に勉強して自分を追い込むようなこともあるだろうけれど、2年の間は勉強で躓かない限りはこんな感じで平気だろうなーと慢心しきっている。

第一に、中間や期末なんて一度授業でやったものが範囲になるのが大抵だ。
ポイントだけ復習しておけば90点程度は簡単に取れてしまう。
100点を取る勉強となれば別だが、ある程度の点数を取る勉強は簡単だ。

なーんて。頭悪い奴に言ったらキレられたことあったな。

「じゃあねー」

クラスの女子に手を振ると、私はロッカーから置き傘を回収して早々に帰ることにした。
だって、図書室も混んでるしクラスメイトに勉強教えてとか頼まれたら面倒くさいし。
何度も言うようだが、私は他人の面倒を見るようなタイプじゃないのだ。


明日からはテスト期間。
というわけで全部活が禁止されている。

きっと、バレー馬鹿な西谷は辛いんだろうな。
なんて考えてしまって、昇降口で会えたりしないかなあ。
いや、やっぱ会いたくないなあ。
なんて、二律背反な心に苦しくなった。

ロッカーに置きっぱなしだった傘はお気に入りじゃないけれど、それなりに可愛い水玉の傘だ。
それをぶらぶらされながら鼻歌を歌う。

そんな調子で昇降口へたどり着き、下駄箱に上履きをしまってローファーを取り出した。

どうして雨予報だったのにレインブーツにしなかったんだろう。
せっかく下駄箱にギリギリ入るレインブーツを買ったのになあ。
なんて。
そんなことを考えながら何気なく出口を見た。

瞬間、どくん、と心臓が高鳴る。
だって、そこには、

「…………っ」

小柄な背中に逆立てた黒髪。
一瞬で西谷だとわかってしまった。

出口横で空を見上げている彼は、いつもの騒がしさなんて欠片もなくて。ただ黙って、空が落とす水滴を見つめていた。

ああ。西谷だ。
1週間見てなかった。鉢合わせないように努力してきたその姿を、瞳に映した。
たったそれだけのことで、私の胸は焼け焦げてしまいそうになるんだから笑ってしまう。


どうしよう。
見たところ傘を持っていない彼は、もしかしたら傘を忘れたのかもしれない。
だから困って外を眺めているのかも。

そう思ったけれど、1週間必死に避けて。西谷の話を耳にすることすら避けるため菅原すら遠ざけて。
そこまでしていたのにこんなところであっさりと傘を差し出していいものなのだろうか。

言ってしまえば、職員室には生徒用の予備の傘がある。
それを借りれば済む話なので、最悪ここで西谷を見なかったことにして帰っても彼は職員室へ行けばいい話なのだ。

まあ、現状西谷が出入り口の隣に陣取っているので見つからずに帰る方法の方が難しいけど。

さて。どうしたもんかな。

なんて、私が思案すること約15秒。

私がどうするか決める前に、目の前の西谷に動きがあった。

「よしっ!」

そう独り言とは思えない声で言うと、さほど強くはないけれど、でも傘をさしてなければ確実に濡れてしまう雨の中に出て行こうとする。

「うわあ!西谷!」

咄嗟に、声が漏れた。

「……ん?ミョウジさん?」

私の声に反応した西谷は、首だけでこちらを振り返って私を一瞥。

「あれ、ミョウジさんじゃないですか!オッス!」

身体の向きを変えて挨拶された。

あああああ!しまった!思わず声かけた感じになってしまった!
もう!私の馬鹿!私のあほー!

脳内は慌てふためいて右往左往していたけれど、私の身体はなんてことないように西谷に向かって歩き出す。

「うん、オーッス!てか西谷、あんた傘ないの?」

返事はもうわかっているくせに、何気なさを装って訊いた。

「そうなんスよ。朝晴れてたし、天気予報なんか見てなくて」

そう言う西谷は困り果てた様子。
西谷がこんな風に困ってんのなんか滅多に見れなさそうだしなー。もうこうなってしまった以上ありがたく拝んどこ!

「職員室行けば傘借りれるよ。確か紙書いたりあるけど」

予め用意していた返事をする。知らない奴も多いので、きっと有難がってもらえるだろう。

なんて考えていたのだけれど。

「いや、実は今日傘忘れたやつ多いらしくて、借りれなかったんすよー」

「え、」

事態は私の思う方向へは進んでくれなかった。

「だから走ろうかなって思ってます」

固まった私に、西谷が何でもない顔で笑う。

ああ、私、やっぱこの笑顔が好きだ。
なんて思ってしまうので、やっぱり恋する乙女なんかなるもんじゃないと思う。

確信した。これ絶対偏差値下がる。

「仕方ないなあ。傘、入れてあげる」

ため息を吐きながらそう言う。
けれど、実際にはこの状況を喜んでしまう自分を必死に押さえつけているだけに過ぎない。

「え?!いや、あの、いいんすか?!」

驚いて、でも嬉しそうに食いついた西谷に、

「西谷が明日風邪引いてたら、なんか気分悪いし。いーよー」

もっともらしいことを言って自分をも納得させた。

「じゃあすみません。よろしくお願いします!」

「いーよー。私も今まで何度も助けてもらったし」

そう言うと、私は傘を広げて西谷を招き入れた。

「あ、俺傘持ちますよ」

「んー。いいよー西谷が持ったら私頭ぶつけそうだし」

「んなっ?!そんなことないっすよ!!」

狭い傘の中、怒って暴れる西谷を押さえつけるように、腕を組む。

「……っ?!」

あからさまに驚いて身体を固くする西谷に、あーあーなにやってんだろ自分。ほんとバカ。どうしようもない。潔子が通りかかったりしたらどう言い訳したらいいんだ。
なんて考えながらも相変わらず面白いくらい照れる西谷を見ていると、何もかもどうでもいいような気がしてくる。

「いーじゃない。こんな美女と一緒に傘に入れるなんて中々無いわよ」

組んだところから、西谷の筋肉質な腕の感触がしてドキドキした。
毎日あんなに練習しているのだし、男の子なのだし、当たり前だってわかっているつもりでも、やっぱり潔子と腕を組むのとは違うなあ。なんてしみじみ思うのだ。

ああ、この瞬間にもIQ下がってる気がする。

「……ミョウジさん、いーんすか?」

そう訊いてくる西谷の瞳は真剣で。

「ん?何が?」

「だって、う、腕とか組んでたら周りに勘違いされちまいますよ」

少し照れつつも私と噂になったら私に迷惑じゃ無いのか。なんて考えているのがよくわかった。

心配すべきは自分の方でしょう。

こんなとこ潔子に見られたら、あんなに潔子さん潔子さんっていつも崇めてる敬虔な信者なくせに誰でもいいのか。とか思われちゃうかもしれないよ。

「私に西谷みたいな弟がいるなんて誰も思わないから平気よ」

にやりと笑うのは、西谷の神経を逆撫でて私の本心なんかに気付かないようにしたかったから。

「んだよー!俺はミョウジさんを気遣って!」

少し下にある目線が見上げてくる。
吸い込まれちゃいそうな、その瞳で。

私は内心、ドキドキだけじゃなくてくらくらまでしちゃいそうだ。

「いーの!周りがなんと思おうと、あの日助けてくれたのは西谷でしょ」

そうなのだ。
西谷はかつて出会ったばかりの貧血の私をなんの躊躇もなく抱きかかえて、保健室まで運んでくれた。

きっと周りにジロジロ見られたし、たくさん噂されたはずなのに。

「だから私も、周りなんか知らない」

もらった優しさを返してるだけ。
そう思ったら少しくらいはこの状況を言い訳できる気がした。

「あ、傘入れてくれたことは!本当にあざっす!……で、でも、腕組む必要性なんて」
「あのねえ、傘なんて1人用なの。私は濡れたく無いし西谷が濡れたら入れてあげた意味無いでしょう」

そう言ってぎゅっと引き寄せると、多分胸に西谷の二の腕あたりが当たった。と、思う。
びくりと震えた肩を逃さぬように、組んだ腕にしっかり力を入れた。

私は胸が大きい方では無いけれど、控えめなそれでも当たる時は当たるのだ。

「いいから黙ってこのおいしい状況喜んでなさい」

まあ、本当においしいのは私の方だけどね。
好きな人と同じ傘の下ふたりきり。
雨は外の音を遮断して、私たちしかいない世界に迷い込んだみたいだ。

なんてことを考えるのは、少しロマンチストすぎるだろうか。




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