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それはきっと、彼の魔法



もしかしたら風邪くらいは引いてしまうかもしれない。この季節に氷水なんてかぶったりしたし。
それでも、私が受けた心の傷に対して、あの人が被った被害なんてないようなものだ。心臓がドクドクいう度に、頭がカチ割れそうな気がする。

真冬に向かい日毎に増す寒さは肌がヒリヒリする程だ。
ハロウィンが終わった途端にクリスマスに向かい始めた街の明かりが、わかりやすく温かくて悲しみを加速させる。

ああ、もう、こんなことなら、背伸びなんかしなければよかったのかな。

そんな虚しさに押し潰されそうになりながら、途中まで歩いた家までの道を折り返す。

きっと今日も母は帰りが遅い。
誰もいない家で膝を抱えるより、暖房の利いた部屋を目指そうと思った。


「ナマエちゃん……?どうしたの、いきなり来るなんて珍し」

インターフォンを鳴らすと、戸口から顔を出したのは身長こそ私よりも高いものの、高1にしては幼い印象を受ける男の子。

センター分けって普通は大人っぽく見えるものなのに。
彼の場合は意思を感じさせる眉が丸見えになって、なんだか不思議なくらい無防備な印象を与える。

「うるさいなぁ……別にいつ来ようと私の勝手でしょ」

私がこんな口を利くのは、もしかしたらこの世の中に彼一人かもしれない。

学校では男の子の目を気にして可愛い女の子を追及しているし、母にこんな口をきくような反抗期みたいなものは今のところ訪れていないから。

「まあ……別に来るなって言ってるわけじゃないけど、いつもあんなに学校で話しかけるなって言うのに……」

そう言って困った顔をする彼は、ちらりと視線を下に向けて、私が親に何か持たされてこの家を訪れたわけではないことを確認したようだ。
制服のまま、気が付いたら足が向いていたから。化粧道具の入った鞄の他には何も持ってきていない。

「別にここは学校じゃないでしょ。ねえ、入れてくれないの……?」

進学する高校が一緒だとわかった時、知り合いだって思われたくないから学校では話しかけないでね。なんて言ったくせに、困った顔をされただけでムッとしてしまう私はなんて勝手な生き物だろうか。

「……今日、母さん遅いよ」

「うん。うちも」

「違くて……夕飯食べに来たなら」

玄関の戸口を塞ぐようにど真ん中で困惑した顔をする彼が、苦い顔で何を言わんとしているのか。
わからないほど子どもなわけもないけれど。

「ひとりでご飯食べるの、嫌いなの」

「……うん」

子どもの頃から知っているからだろうか。
私がどんな子なのかを知り尽くしている彼に対して、今更取り繕うのも馬鹿らしい。

「知ってるなら言わせないでよ」

そう、子どものころから知っている。

拗ねたみたいに頬を膨らませれば、

「……ごめん。じゃあ、えっと……あがる?」

ますます困った顔をしたさっくんは、その戸口から身を引いてくれることを。

「……ん」

そんな押しに弱いひとの優しさにつけこんで生きる、自分がいかに弱い生き物なのかを。

私はよく、知っている。





作並浩輔は母の親友の子どもである。

今でこそ引っ越して電車に乗らなくてはいけない距離にあるけれど、小学校までは家も近くて。
母の帰りの遅い日は作並家で一緒にお留守番をしたものだ。

だからかな?血の繋がりなんかないくせに、さっくんは私にとって弟のようなお兄ちゃんのような。
家族と遜色ないほど近しい存在だった。

だから、

「二口先輩となんかあった?」

お茶を入れながら問われても、実際驚きもしなかった。

「なんで?」

「……なんとなく」

でも、なんとなくなんて掴みきれない不思議な力で心の中を見透かされることをなんの抵抗もなく受け入れてしまうわけにはいかない。

「なんでわかんの」

そう問うと、

「……だって、もううちには来ないって言ったのはナマエちゃんでしょ」

視線を逸らしたさっくんがポツリと呟く。

「…………」

それもそうか。
先輩と付き合うことになったからには勘違いされたらたまったものじゃないと思って、家には二度と行かないと発言していたのだった。

「なのに来るなんて、そういうことかなって考えるし」

「そういうことって?」

「そ、れは……」

意識して明言を避けた彼を見つめながら言及すれば、逸らされていた視線がかち合って。

真正面から私を見つめたさっくんの瞳が、当惑に揺れる。

返答に困ったらしい彼がそっと私の前に置いたお茶に手を伸ばす。
小さい頃から置いてある私用のマグカップを包み込むように両手で持ってみる。

すると、冷えた指先まで血が通っていくような気がした。


「……ねえ、さっくん。私振られちゃった」

そう口にした瞬間、確かに引いたはずの涙がまた湧き上がってきて、

「っ、うん……」

優しい彼を動揺させてしまう。

「なんでかなぁ……?私、可愛くないのかな……?」

「いや、ナマエちゃんは……世間一般からいって平均以上だと思うよ」

眼を逸らしたさっくんが言い淀む。
こんな風に男の子に可愛くないかを訊いてみるとか、我ながら本当にずるいと思う。

でも、泣きながらそんな事を訊かれて、優しいさっくんが他に答えることが出来なかっただけだとしても。

「……可愛い?」

「……うん」

好きな人に手酷くフラれて、やりきれないこんな夜には。
言わせてしまってるなんて事実には目を瞑って、恵まれた容姿に生まれたことを慰めにしてもいいじゃないか。

もう、私にはそれくらいしかないのだし。

「じゃあなんで振られたの?私、これでも努力したんだよ?中学の時は遠くから見てるだけしか出来なかったけど、高校ではたくさん話しかけて仲良くなったし」

「そう、だね」

振られたらかっこ悪いし、正直自分でもなんで突然付き合ってもらえることになったのかと思ってしまうくらいには相手にされたいなかったから。周りには好きだなんて言ってなかったけど。

中学から憧れていた人と付き合えたのだ。付き合うことになった日なんて、浮かれて眠れなかった。

「先輩の隣に並んでも恥ずかしくないようにダイエットもしたし、テスト前でも毎日フルメイク欠かさなかったのに」

ぼろぼろ泣きながら愚痴る私に、彼は文字通り手を焼いているだろう。
昔からそうだ。道で転んだ私が泣く度、さっくんは隣でオロオロしてたっけ。

「あんな……可愛くもないっ女の人に……どこが負けてたんだろっ」

きっと今回もそんな調子で、天災かなんかみたいに仕方がないなって諦めて。腐れ縁の女の癇癪に付き合ってくれるかなって、思っていたのに。

「…………」

無言のままソファーから立ち上がったさっくんは、静かに私の隣に座って頭をポンポンした。

「さっくん……」

正直いうと、ちょっと驚いてしまった。

さっくんは中学に入った頃から不用意に私に近寄ったりしないように気をつけている様子だったから。
こんな風にパーソナルスペースもくそもない距離で彼と隣り合うことなんて、もう二度とないと思っていた。

「二口先輩に好きな人がいることくらい、知ってたはずだよ」

「っ、うん……」

そんなこと、誰に言われるまでもなく知っていた。
それでも先輩は誰とも付き合う気配がなかったから、もしかしたらなんて希望的観測で近付いてみたのだ。

それなりの勇気と密かな情熱を持って。

「仕方ないよ。二口先輩はその人以外、好きになるつもり……無かったんだと思うよ」

「うん……っ」

そんなこと、さっくんにだって何度となく言われ続けた。

さっくんは偶然にもバレー部でリベロというポディションを続けていて、強豪の伊達工でも一年生ながらスタメンに選ばれていたから。
二口先輩と彼がそこで顔見知りになってからというもの、電話しては好みだの予定だのを聞き出すのに利用していた。

そう、利用していたのだ。

「ごめんね……全部わかってたのに、こんなこと言って」

「うぅん……平気っ」

それなのに、きっと利用されていることなんか気付いた上で、今日だって都合よく泣きついてきた私みたいな幼馴染を優しく慰めたりなんかして。

密かに、ひょっとしたら彼はとんでもないいい男に育つんじゃないかと思う。

「大丈夫……ナマエちゃんは、可愛いよ」

そんな将来有望なさっくんが私の前にしゃがみこんで、まるで王子様かなんかみたいに私を見上げる。

「……っ」

真っ直ぐ見上げたまま頭を撫でられ、どくんと大きく胸が鳴る。

「それに凄いと思うよ。他の人を好きってわかってる人を想い続けるなんて、簡単なことじゃないし」

恋愛なんか自分のエゴだ。
他人からどうこう言われてするものでもなければ、他人に頑張ったねって認めてもらえたところで実らなかった恋心に行き場なんかない。

でも、

「……うん」

こんな風に頑張ったねって、偉いねって頭を撫でてられると、少しだけ。
こんな空回りの日々も意味があったのかなって、思える気がした。

「いいところたくさんあるんだから、たくさん愛されると思う。次は、ナマエちゃんを好きな男の人と付き合ったらいいよ」

きっと普段なら、そんなことさっくんに言われるまでもない。と切り捨てるように言えたはずだ。

けれど、今はこの優しさだけが唯一かけがえのないもののように思えて。

「…………うんっ」

こくんと頷くと、跪いた彼は柔く笑う。

そして、

「今度こそ傷付かない恋をしてね」

音もなく、耳元に寄せられた声は低く。
知らない男の人みたいだ。

「次はもう、優しくなんて慰めてあげないから」

驚いて泣くのをやめた私に、さっくんは悪戯な顔で笑う。


行き場のない恋心に終止符を打つ、

それはきっと、彼の魔法だった。



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