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キミシニタモウコトナカレ



夕闇に沈む校舎はどこか知らない場所のようだった。
そんな場所で担任と母と三人。話し合った未来は明るいのだろうか。
ミョウジの成績ならそう難しいことはないけれど今後とも気を抜かないように。そんな一言にホッと息を吐く母の姿を、私はどこか他人事のように見つめていた。

自分の話なのに全く実感というものがなくて。携帯に届いた三者面談どうだった?という通知に、急に現実味が湧いてくるから不思議なものだった。

卒業の二文字はもう何度も経験してきた筈なのに、今までのそれとはまるで別物だ。

遠くない未来、私の毎日はバラバラに引き裂かれてしまう。


「……そんな泣くなよ。別に遠距離ってほどの距離でもねーんだし」

放課後の教室で突っ伏したままぴくりともしない私の頭を撫でながら、夜久くんは困った声で言う。


どうしてなんだろう。
大丈夫だったと返信した筈なのに、すぐに着信があって。その着信に出れずにいれば、教室で待ってて、なんてメッセージ。

どうして夜久くんは、私が大丈夫なんかではないと気付いてしまったのだろう。

「うん、わかってるっでも夜久くんを盗み見れない学校生活なんてなにを楽しみに生きて行けばいいの……っ?」

机の上に引いたタオル地のハンカチは吸水に優れているのが売りのくせに。もうびしゃびしゃのひたひたで、吸水機能は期待出来そうもない。

「なんだそりゃ。付き合ってんだからいい加減盗み見るんじゃなくて堂々と見ろよ!」

込み上げる嗚咽は感情の波そのもので。
必死に息を吸い込みながらしゃくりをあげるけど、夜久くんは私の涙なんて見慣れているのか、落ち着き放った様子。
頬杖をついたままの彼が不満げに呟いた声が頭上に響いた。

「だっ、だって!」

「だって?」

「夜久くん昔と違って、目が合うと微笑みかけてくれちゃうんだもんっ!心臓撃ち抜かれるこっちの身にもなって!」

頬を膨らませ睨みつけるようにして顔を上げてみると、

「そっれは、まあ。なんかちょっと嬉しくて責めらんねーけどっ!」

夜久くんは苦笑い。

困った顔もまた素敵だと、こっちがため息をつきたいくらいだ。

「今日も午後の授業でうたた寝してる姿天使過ぎたよぅ」

素敵すぎる彼氏を持つ苦労なんかを説こうとすれば、世間の皆さんからは惚気だなんだと冷たい視線と苦言を呈されることとなるけれど。
それでも、眠気に打ち勝とうと舟を漕ぐ夜久くんの尊さときたら。

「いや、天使って……男に使う言葉じゃねーだろ」

嫌な顔なんかされたところで、愛しさは募るばかりだ。

「もうあんな姿見れなくなるのかと思ったらっ!大学とかもうなんでもいいんじゃないかって考え直してきた!!私!やっぱり」
「だぁ〜〜っもう!一旦黙れお前はーっ!」

痺れを切らした夜久くんが叫ぶように言って、両頬を包み込みながら私を真っ直ぐに見据える。

「っ!」

大きな瞳は真剣そのもの。

「ナマエ、獣医になんだろ。そんなこと言ってんなよ。自分のやりたいこと、どうでもいいみたいに言ってんな」

怒ったように語気は強まるのに、諭すように優しい言葉からは彼の思いやりが伝わってくる。

「でも……夜久く」
「せっかく将来やりたいことあんのに、そんなことで簡単にやめんなよ」

好きな人が自分の為に真剣な顔をしてくれる。
投げやりになるなと諭す声にすら、ドキドキする私は病気だろうか。

「……簡単じゃないよ」

小さく呟くと、

「え……?」

私の頬に当てられていた指がピクリと揺れた。

「全然、簡単じゃない。ただ、夜久くんと会えなくなってまで目指すほど大切なことなんて、私にはひとつもないから」

頬を伝う涙は熱くて、口をついたのは心からの言葉だった。

「っ、ナマエ……」

「だから、私っ」

夜久くんの形の良い短眉が困ったように伏せられて、胸がキューっとなる。

だから私、志望校変えようと思う。そんな一言は、

「バーカ」
「痛ッ!」

頬を離れた夜久くんの右手によって額にもたらされた痛みに、遮られて。

「俺だってナマエと会えないとか全然耐えらんねーし、そこまで言っといて志望校なんで東京の大学じゃねーんだよってツッコミてーわ!」

手加減なしのデコピンは頭蓋にすら響くのに、ムッと顰めっ面をする夜久くんが怒っている理由は、

「だっ、だって!」
「でも、授業受けてみたい教授がいるんだろ。そこでしかできないことがあんだろ。だったら俺はナマエの足を引っ張るような真似したくねーよ!」

誰よりも私を思うからに他ならないのだ。

自分の夢の為に遠くの大学へ進学しようとする私を、勝手な女と罵ってくれる夜久くんだったのなら、私はこれほど彼を好きになんてならなかったろう。

「夜久くん……」

我が道を行くように人の気持ちも心配して、考慮してくれる夜久くんだから。

私はこんな病気みたいに、彼が大好きなのだと思う。


「それに片道二時間なんて世の遠恋カップルにキレられんぞ。飛行機じゃねーと会えねーとか、そう言う人もいるんだし!」

先程デコピンした額の箇所を人差し指でグリグリしながら、夜久くんは言うけれど。

「で、でもっ」
「でもー?まーだなんかあんのかよ!なんだよ!言ってみろバカナマエ!」

「やっ、夜久くんこんなにカッコいいんだよっ!?大学でモテモテになっちゃったら!遠くの私より身近な可愛い女の子のがよくなっちゃうかもしれないじゃんっ!!」

こんな魅力的な人、周りが放っておくとは思えない。

大学なんて高校より遥かに人数が多くて、きっと誘惑は星の数。
夜久くんなんて普通にしてても可愛くてかっこよくて惚れるなって方が無理なのに、バレーのサークルなんかで彼のスーパーレシーブを見ちゃったりしたらイチコロだ。

モテまくってしまうに決まっている!

「……ナマエ、お前ってほんと……」

呆れた声とともに盛大なため息が吐き出されて、夜久くんの眉間の皺はそろそろ刻み込まれてしまいそうな勢い。

「え、な、なに。またバカなこと言ってるとか言う気なの!?夜久くんは自分の魅力を分かって」
「分かってないのはお前の方だろ」

興奮した私の饒舌を遮るのは、怒りと呆れを半々にしたような声。

「確かにさ、俺はナマエの告白を何回も断ってきたし、今こうして付き合ってんのだって、周りに協力してもらったからに他ならねーとは思うけど」

いつものやれやれ顔で夜久くんは薄く笑って。

「それでも俺、ちゃんとナマエが好きだよ」

「っ!」

さらりと告げられたとんでもない台詞に、心臓が飛び出すかと思った。

「あの日どんなナマエのことだって好きだって言ったの、忘れた?」

そんな一言と共に脳内に蘇るのは、病室で告白してくれた夜久くんの言葉。

真っ直ぐに私を見つめた揺れる瞳の色。
好きだの一言が私を世界で一番幸せな女の子にしてくれた日のこと。

「わ、忘れるわけ、ないっけどっ」

忘れる日なんてこない。
たとえば夜久くんに忘れてって言われる日が来たとしても、私にとっては一生忘れられない大切な思い出だった。

「……けど?」

首を傾げた夜久くんはパチパチと瞳を瞬く。

そんななんの気ない仕草や表情にすらときめいてしまうんだよ、こっちは。

「……好きだから不安になるよ。今までは毎日会えてたから、私に好き好き言われて、刷り込まれて、好きになってくれたかもっだけどっこれからは電話とかでしかっ」

好きだからネガティヴにもなる私に、

「ハア……あのなぁ」

夜久くんは盛大にため息。

「キッカケは確かにナマエが俺を好きになってくれたからだよ。それは認める。あんな一途に想われ続けたらなんとも思わずにいらんねーよ。けどな、」

たとえば世の中には友達としての関係の先に信頼と愛情を築いていったりとか、一目で互いを気に入ったりとか。そんな恋もあるのかもしれないけど。

私達のは違う。
私は夜久くんを病気みたいに大好きで、夜久くんはその勢いに押しきられたに近い。

私が夜久くんを好きにならなかったら、彼が私を好きになることなんかあり得なかった。
私達の恋が始まることはなかっただろう。

だって多分、私は全然夜久くんのタイプじゃないし。背はでかいしショートカットでもない。

なのに、

「たとえナマエが大学で他の男のこと好きになっても、俺はナマエのこと諦めないからな」
「っ!そんなことっ!」

タイプじゃないはずの私にこんなことを言うなんて。

「あるわけないって?じゃあ俺だってそんなことあるわけねーし、んな考えてもしょうがねーことウダウダ言ってんじゃねーよ!」

「うー……っだってぇ〜〜っ」

未来なんてわからない。
だから考えてもしょうがない。

そんなことわかっているけれど、夢のような今を失いたくなくて足がすくむこともまた、しょうがないことなのではないか。

「あのさ、ナマエ。ナマエは大学入ったら寮生活だろ?」

ふと、声色を変えた夜久くんに、

「へ?う、うん。寮だね?」

ぽかんとしたまま首を傾げる。と、

「言ってなかったけど、俺も家出て一人暮らしするから」

「え!ええ!?そうなのっ!?」

さらりと告げられた新事実に声が大きくなってしまう。

思わず、涙もなりを潜めた。

そして、驚くべきはそれだけに留まらず。

「うん。だから、週末こっちに遊びにきたら、俺ん家泊まれるよ」

「……へ、」

夜久くんの口から飛び出した俺ん家泊まれるの一言は、私の理解の外だった。

「流石にナマエの女子寮に泊めてとは言えねーけど。うちにはいつでも泊まりに来ていいから。……なんなら合鍵渡すし」

なのに夜久くんは合鍵なんて口にして畳み掛けてくるから、

「えっ!?えええっ!?!?」

困惑を通り越して意味がわからなかった。

「いや、なんでそんな驚いてんの」

驚く私に驚いた彼は頬を痙攣らせるけれど、夜久くんはわかっているのだろうか。

「や、ややや夜久くんのおうちに上がって良いのですかっ!?」

「お、おう」

「わ、私っ夜久くんの部屋とか入ったら何するかわかんないよっ!?自分でこんなこと言いたくないけどっ部屋の空気吸い尽くすかもっ」

私ってやつがどれくらい夜久くんのことを大好きで大好きで大好きで!それこそお付き合いしていなければ不審者でしかないようなことを考え続けているんだってこと。

「お、おー。まあ、空気は吸うためにあるからいいんじゃね?」

少し圧倒されながらも笑いながらそう答えた彼は、なんだか少し楽しそうですらある。

「枕の匂いとか絶対嗅いじゃうしっ合鍵なんてあったら勝手に入ってご飯作りに来ちゃうかもしんないけどっ!?」

なんなら最近夜久くんが使っている制汗剤と同じ物を買って、抱き枕に吹きかけてから熱い抱擁をしてのたうちまわっているような女ですよあなたの彼女は!
なんて脳内ではツッコミつつ、

「え、なにそれすげー助かるわ。期待してい?」

夜久くんが思いの外嬉しそうに微笑んでくれちゃうものだから、閉口してしまうわけです。

「う……うんっあのっそのっ変態的行為は程々に出来るように努めますのでっ」

ああ、私、夜久くんのお部屋にいつでも入れちゃう鍵なんか手に入れたら何をしでかしてしまうんだろう。
そんな恐怖にも似た危惧は消えないけれど、それでも嬉しさには綻ぶ胸はドキドキ煩くて。

「ハハハ!なんだそれ!別にいいよ慣れてるし!それに」

楽しそうな笑い声をあげた夜久くんが、次の瞬間真剣な目をした。

「!」

頬をなぞる指の感触に、背筋がぞくぞくする。

「変態的行為、ナマエが我慢しても、俺は我慢なんかしないから」

「えっ」
「泊まるときはちゃんと、かわいい下着用意してきて」

その指先がゆっくりと首筋を通って鎖骨へと伸びる。

「えっ!あっのっ!?えええっ!?」

悪戯な笑みと指先に翻弄されて、高鳴る胸は今にも壊れそうだった。

「まあ俺は、なんならなんも着てなくても困んねーけど」

冗談めいた一言なのに、暗い室内にぎらりと光る眼光は鋭くて。

「〜〜っ!?や、夜久くんっ!?」

嫌ってわけじゃ無くても飛び退いてしまうのは、自己防衛の本能だった。

心臓発作で死ぬには惜しいと思ってしまう程度には、今の私は幸せいっぱいなのである。

そして、そんな風に身を引いた私のことも夜久くんは責めることなく、

「……な?そう考えたらさ、卒業してからも悪いことばっかじゃないだろ?」

優しく笑ってみせる。

きっと、わかっているのだ。
ドキドキして死んでしまいそうな私のことも、

「……う、うんっ」

どうしたらネガティブな思考に囚われた私の脳内を夜久くん一色で塗り潰してしまえるのかも。

「よしよし。ちゃんと泣き止んだなー。ようやく帰れそうだぜ」

よしよしなんて声は満足げで、

「う、うぅ。なんか泣き止ませるためにテキトーなこと言われたんじゃないかって疑わしいようっ」

なんだか悔しくなって唇を突き出してみせる。と、

「ん?んなわけねーじゃん」

啄むように唇を奪われて。

「卒業したらもう我慢しなくていいんだし。心臓鍛えといた方が身のためだぞー、ナマエ?」

そのまま吐息のかかる距離で笑う夜久くんに、

「そん時は泣いてやめてって縋っても、もーやめてやんない」

あんなに憂鬱でしかなかった卒業が、少しだけ待ち遠しくさせられてしまう、私なのでした。



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