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はじめてばれんたいん
一年間に恋人達のイベントって周知されてるものはたくさんあって。 まあ、正確にはそんな決まりなんかないのかもしれないけど、バレンタインだってそのひとつだった。
人を惑わす甘いチョコレートの香り。 そんな香りに背中を押されて、告白なんて一世一代の決心をする乙女も珍しくはない。
でも、いつからなのかそんなチョコの日はお世話になった人にお礼をしたり、友達同士で甘いものを贈り合ったり。 その経済効果と多様さは増すばかり。
だからってわけじゃないけど、欲張りな私は端から、バレンタインデーを恋人とだけ過ごす気なんかなかった。
私には、恋人と同じくらい大切な親友がいるのだ。
部活終わりの潔子は、いつも下ろしている髪を一つに括っていて。 その頸の白く澄んだ肌を見る度に、なんだか罪深い気分になるのはどうしてなのだろう。
「潔子、はい。あーんして?」
「ちょっとナマエ、恥ずかしいから」
手にしたピンクの包装の中からそれを一粒手にして、その淡く色付く唇に差し出せば、困った顔をして戸惑う潔子。
「えー?別に食べさせるだけじゃん!恥ずかしくないよ!大丈夫!ほら、あーん」
そんな姿に胸がキュンキュンしそうになりながら、別にこれはあれだよ?美しいものを愛でるのは人間として当然のことだから!決して友情を逸脱した何かではないよ?ホントホント。とか、自身に必死に言い訳をして。
言い訳をしながら、それでも迫るように。 潔子に一歩にじり寄れば、
「別に……自分で食べられるからっ」
目の前で頬を染めて目を伏せる潔子は、可憐としか言いようがなくて。 あ、やば。なんかこれ変なスイッチ入りそうだぞ?って危惧が浮かぶ。
これは性急に、潔子にチョコレートを食していただかなくては。 このままでは私がただの男も女もいける浮気性のクソアマになってしまう。
「だって〜っ上手に出来たんだもん潔子に食べて欲しいじゃん?」
と、拗ねたように唇を突き出して、上目遣い。 あざといとわかっていてやっていることを、多分潔子もわかっていると思う。
「ん、もう。しょうがないなあ、ナマエは……」
それでも、ひとつ息を吐いてから指先で溶けかけるトリュフを口に含んだ彼女は、
「うん……美味しい」
唇についたココアパウダーをひと舐めしながら一言。その優しい笑顔に私は心から満足して、
「えへへへへ」
表情は緩みきってしまう。
本当、これで私達はお付き合いをしていないと言うのだから、世界には不思議なこともあるものだ。
と、その時。
「ノヤっさん……女神と天女がお戯れあそばれておられる」
「ああ……龍、あれがこの世のエデンだぜ」
バレー部が使用している体育館のすぐ横で蜜月を過ごす私達に、そんな会話を繰り広げる素行のよろしくなさげな二人組。
その声にハッとして、潔子と顔を見合わせる。と、
「お前らほんっと好きだよなーあの二人。そーいや……西谷は清水に嫉妬したりしないわけ?」
続けて聞こえてくる呆れたような菅原の声。 それから、放たれた素朴な疑問に、思わず私も耳を欹てた。
そう。こんな風に全力で潔子といちゃついておいておかしな話ではあるけれど、私の恋人は西谷夕。潔子の熱狂的なファンである彼は、それでも俺の心は私のものだと言う。 でも、それとは無関係に。 そういえば西谷は私が潔子とベタベタすることを、どんな風に考えているんだろう。
女同士とはいえ、恋人が目の前で他の人と……なんて、気に食わなかったりするのだろうか?
そんな素朴な疑問は、
「潔子さんにっスか?いや、ないっス」
実にあっさりと考え過ぎだと理解することとなる。
「んまぁ、確かに女同士だしなー」
訊いておいてどうなのかとは思うけれど、菅原も答えなんかわかりきっていたって返事。
正直なところ、今更潔子との仲に嫉妬なんかされたところで。 私は潔子との関わり方を変えるつもりはないし、当然西谷と別れる気もないから、困ってしまうわけだけど。 それでもなんの迷いもなく言う彼に、意味もなくムッとしてしまいそうになるのは、複雑な乙女心ってやつ。
私はたまに、西谷が東峰くんを慕う真っ直ぐな羨望に、胸がぎゅっとなるけどなー。
でも、
「いや、そういう問題じゃなくて。……あんなにナマエさんが幸せそうなのに、不満なんかあるわけないじゃないスか」
西谷が私と潔子の仲に嫉妬しない理由は、女同士だからとか、親友だからとか、そんなものじゃなかった。
何を当然のことを、とでも言いたげな口調で告げるのは、あまりにも真っ直ぐな愛でしかなくて。
「うおぉお!愛だぜ!ノヤっさんカッケッー!!」 「西谷ぁ、お前ほんっとに男前だなー!」
そんな彼にとっての当然は、男にすら惚れ惚れされるような美徳なのだ。
「…………」
そんなカッコよすぎる一言に、ため息を漏らすことすら出来ずに息を詰めれば、
「ふふ、顔赤いよ?ナマエ」
私の頬を撫でて揶揄うように笑う潔子に、どんな顔をしたらいいのかわからなくなって。
「潔子の意地悪……」
呟いた非難は負け惜しみみたいに宙を漂う。
*
義理チョコなんか用意するキャラじゃない。 だから、私が作ったのは潔子にあげる為のトリュフと、フォンダンショコラの二つだけだ。
去年の今頃は、想像もつかなかった。 料理の苦手な私が、バレンタインにケーキを焼こうと思い立つだなんて。
帰り道、二人きり。 西谷は出会った頃より少しだけ背が伸びたらしい。 けど、私の身長も伸びてしまっているのか西谷の気のせいなのか、私達の間にある残念な身長差が縮まる気配はなかった。 その身長差の所為で、繋いだ手も恋人らしい甘いものというよりまるで姉弟かなんかみたいに見えてしまう。
「ねえ、西谷」
「はい、どうしました?ナマエさん」
それに加えて私は、西谷を名前呼びをすることも敬語をやめさせることも出来てはいなくて。 バレンタインなんて口実が無くたって、ラブラブな自信はあるのだけど。
初めて一緒に過ごすイベントだし、どこかドキドキして浮き足立っていた。
「帰り、ウチ寄ってってくれる?」
そんな風に頼めば断られることなどないとわかっていて、首を傾げながらその顔を覗き込めば、
「え……はっはい!喜んで!」
一瞬大きく目を見開いた西谷が、それでも迷わず返事をくれる。
「別に学校で渡してもよかったんだけど、その……」
学校にケーキを持っていくのが嫌だったとか、面倒だったわけじゃない。ただ、家で渡した方が甘い空気になった時に人目を気にしなくて済むなーなんて考えてしまって。
要するに、キスとかしたくなったら出来る場所で渡したいと思ったのだった。
けど、
「がっ学校でスか!?だ、ダメですよそんなのっ!」
そんな言葉とともに慌てふためく西谷は、忽ち耳まで真っ赤に染まる。
「へ、な……なんでダメなの?」
そんな反応にバカみたいにキュンとしながら、それでも想像もしていなかった全否定に戸惑ってしまう。
「だ、ダメに決まってるじゃないスか!……ってか、ナマエさんこそ学校でそんなこと……いいんスか……っ」
と、西谷。 その瞳は落ち着きなく泳いで、真っ赤な顔はいっそ苦しそうなほど。
挙動不審、そんな言葉が頭に浮かぶ。
「え……うんと、西谷意外とまじめ?どーしたどーした、あんたヤンキーじゃないの」
「え、いや、真面目とかの問題じゃなくて!ヤンキーではないスけど!でもっ」
西谷を不真面目なやつだとは言わないけど(バレーボールには真剣だし、変なとこ生真面目)、でも彼の真面目さはヤンキー特有の縦社会的な感じするし。 だいたい前髪にメッシュ入れておいて学校に余計なものを持って来ちゃいけません!みたいな、バレンタインチョコ没収!みたいな。 風紀委員みたいなことを言うつもりなの?って話だし。
ていうか、
「にし、のや?なんであんた、そんな真っ赤なの」
本気で照れてる西谷、可愛すぎるんだけど。
「〜〜っ!ナマエさんがっ、学校でとか言うからっ!」
「えっ、えっ、学校で私にチョコ渡されるのが、そんなに恥ずかしいわけ?」
私達は付き合ってることを少しも隠してない。 学年が違うから人前でわかりやすくいちゃつくってこともないにしても、交際している以上チョコ渡すくらいで周りはなんとも思わない、はずだ。 なのに西谷がそんなに真っ赤になってチョコを拒否するなんて。
なんなら、私から貰ったチョコを周りに自慢して回るくらいのことはするとばかり思っていたのに。
……そんなの恥ずかしいと思いながらも、ちょっとだけそんな展開を期待してしまっていた私は、少なからずショックを受けていた。
けれど、
「……え?」
目の前でぽかんと半開きになった唇から漏れたのはアホみたいな声で。
「……え?」
思わず私も同じ反応を返してしまう。
「ナマエさん、チョコくれるんですか?」
そんな間抜けな顔のまま問う西谷に、
「ええっ?あ、あげるけど……?」
首を傾げる。
先程からチョコを学校で渡すかどうかの話をしていたはずだ。 なのに、そのチョコをくれるかどうかを訊くなんて。
西谷は確かにおバカさんだけれど、話の流れが読めないとか、そういう類の人種ではない筈だから。 どういうこと……?と、瞳を瞬かせる。
その時だった。
「俺、本命っスよね……?」
瞳を見開いたままおずおずと問われたその言葉は、完全に予想の外で。
西谷以外に本命なんかいるわけない。そう怒ることすら忘れてしまった。
そして、
「えっも、もちろん!何言って」 「ナマエさん!本命には全裸にリボンって言ってたじゃないスか!!」
ただただ戸惑って口にした言葉を遮る、西谷の一言。
その意味が理解出来なくて、一瞬フリーズ。
「え、あ……っあああー!」
思い出すのは、西谷の誕生日の夜。 バイト先での事件の後に、西谷が送り届けてくれた時にした会話だった。
「あんた……よく覚えてるねー!そんな軽口!」
「か、軽口!?あれ嘘だったんスか!?」
思わず感心して言うと、西谷はショックを受けたご様子。
「嘘ってことはないけど、正直あの時は西谷がもっと私のことで頭いっぱいになってくんないかなーって下心で」
でも、女としてもひとりの人間としても、過去の会話や出来事を憶えていてくれるのが嬉しくないわけがない。 当時片想いだと思っていた私は、西谷の心を乱すために、本命には全裸にリボンでも巻いてチョコより甘いことをしてやると言ったのだ。 別にしようと思えば出来なくはないけれど、本気とは言い難い軽口の類だった。
なのに、西谷はその会話を覚えていて、だからこそ学校でバレンタインを渡すなんて言ったことにあそこまで過剰に反応したのだ。 そりゃあ、いかに私と言えども学校で全裸になる勇気は無い。
「えっあ……なんスかそれっ俺はいつもナマエさんのこと考えて頭いっぱいですよ」
真っ赤な顔で言う西谷は、困ったように眉を寄せる。
それでも逸らされない瞳に自分が映り込むのが、堪らなく愛しくて。
「じゃあ……あの時、想像した?」
「……そりゃ、もう。男なんで……」
ニヤリと上がる口角をそのままに不敵に笑めば、気まずそうに逸らされる視線。
「ふふふふ、西谷〜っ相変わらずかっわいいなあ〜っ」
自分の意思で彼に思わせぶりな目配せをして、そんな風に女であることを武器に西谷に自分を意識させることも、所詮は計画通りでしかないのに。
私ってやつは本当にタチが悪いことに、こっちの思惑通りに可愛い反応をしてくれちゃう西谷を、もっと困らせたいと思ってしまうのだ。
「ナマエさん……っ!」
怒ったように釣り上がる目尻。 引き結ばれる唇。
揺らめく瞳の中で、私は笑う。
「んーまあ、申し訳ないけど。今年はリボン用意し忘れちゃったからさ」
まさかあんな一言を西谷が真に受けて、バレンタインにまでプレゼントはわ、た、しなんてことをする羽目になるとは。
そんな風に苦笑いたくなる気持ちもあるのに、
期待には応えねばならない。
「チョコより甘いことしたげるから、勘弁してくれる?」
西谷の耳元で囁けば、ゴクリと生唾を飲む彼が、ひゃいなんて締まらない返事をして。
恋人とだけ過ごす気はないとかほざいといてアレだけど、ここから先は彼だけの私になりたいなんて、思ってしまった。
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