オルカ・オルカ | ナノ



 体力作りはあらゆるスポーツの基礎だ。強豪、鮫柄学園水泳部の練習にも当然ランニングが組み込まれている。しかしその最中不意に後輩から出た到底無視できないワードに、無心で励む足を止めた。

「合同練習? 聞いてねえぞ」
「部長が決めたらしいです。先輩の妹さん、岩鳶の水泳部にいるんですよね? 部員は七瀬遙、橘真琴、葉月渚」

 上がった息を整えながら共通点は女の子みたいな名前、と余計なことまで言おうとする似鳥を、睨みをきかせて黙らせた。昔はいじられ続けてもはや自分からネタにする材料にすらしていたが、そう面白い話でもない。ましてや成長期を迎え、青年に近しい、いや平均よりもずっとしっかりとした身体つきになった今なら尚更だ。
 ――りん、っていい名前なのに。鈴の音みたいでさ、きれいだよ。
 不意に、過去の少女の言葉が蘇った。半分に割った肉まんを齧りながらなんでも無いように言ったその言葉が、今もやけに頭に残っている。そういえば、あいつは俺の名前を女の子みたいだと言うことは一度もなかった。当然、真琴やハルのことだってそう揶揄したことはないのだろう。そのくせ周囲に揶揄われることで本人が気にしているのではなんて変な気を回すものだから、近い距離の割に未だに名字呼びだ。俺も、……ハルたちも。
 しかしどうしてこの同室の後輩がそんなことまで知っているのだろうか。尋ねれば、素直な後輩はすらすらとその理由を口にする。
 曰く、あの小学生最後の大会にこの後輩も出ていたらしい。なんでも予選落ちしたらしいから、自分の記憶に残っていなくても仕方ないだろう。同時に、どうしたって忘れがたい、あの時のリレーを嫌でも思い出す。きらきらとした思い出。きらきらとしていたはずの鮮やかな記憶。それを疎ましく思うようになったのは、いつだっただろう。こちらの淀む心などいざ知らず、あのレースを賞賛する屈託のない瞳から自然と目をそらしてしまう。

「それに、姉さんから聞いてたんですよ。だから結構詳しく知っているというか」
「姉さん?」
「はい。安土つばさ、ご存知ですよね?」
「っ、はあっ? 安土!?」
「はい!」

 今しがた脳裏に浮かんでいた名前が突然会話に浮上して、思わず目を瞠った。記憶にある限り、安土に兄弟がいるという話は聞いたことがなかった。だからこそ、俺の家に遊びに来るたびに江を猫可愛がりしては妹に欲しい松岡はずるいずるいと喚き倒していたはずだ。
 と、そこでようやく過去のあいつから何度か出てきた弟分という呼び名を思い出した。確か血は繋がっていないが、親同士が仲が良いため昔からよく遊んでいた年下の少年がいたはずだ。そういえば、弟分が生意気だとか最近遊んでくれないだとか、そんな些細な愚痴を零していたような。しかしそれがまさかこの転入先の同室者とは、一体どんな星の巡り合わせだろう。

「……でも、姉さんが水泳部に入るなんて思いませんでした」
「あいつが? 水泳部に?」
「多分そうだと思います。本人は応援団長とか言ってましたけど」

 そんな話は聞いたことがなかった。
 アイツが電話口やメールで語る内容と言えば、一に真琴二に真琴、三四に真琴五にたわいもない雑談だ。一つ思い当たることと言えば、俺が鮫柄水泳部に入ることを決めた夜、真琴からの留守電に入り込んだ犬の鳴き声と安土の間抜けな声。しかしその当日に真琴に対するキャパシティを超えて余韻も何もなく電話をかけて来たアイツは、そんなこと一言とて言っていなかったはずだった。
 木陰にいることも相まって、瞳に影を落とした似鳥が目を伏せる。

「姉さん、昔は大会のたびに応援しにきてくれてたんですけど、急に来なくなっちゃって。中学校にあがって忙しくなっちゃったのかと思ったんですけど、なんだかわざとらしいというか、意識的に避けてるというか……だから嬉しいんです。恥ずかしくって本人には言えないですけど」

 なんだそれ。そんなこと、言わなかったじゃねえか。
 自分の知らない安土が突然顔を出し、狼狽する。口の中がやけに乾く。

「……いつからだ。あいつが来なくなったの」
「え? えっと、松岡先輩たちがリレーを泳いだ、ちょうど一年後です」

 一年後ということは、俺たちが中学一年生だったときの冬だ。必然的に、思い出したくもないのに忘れようもない、忌々しい記憶がいやでも蘇る。
 しかしあれは年末のことだ。安土は俺とハルの間に何があったのかなど知らないはずだし、時期から考えても似鳥の応援に行かなくなったのはその後という事になる。
 一体あいつに何があったんだ。だって、俺の前ではあいつは何も変わらなかった。変わっていないはずだった。松岡と呼ぶ気安い声色も、真琴に対して異常な崇拝を抱く変わり者なのも、そのお節介さも、――俺の隠し事の存在に気付いているくせにそれを深掘りしない、目に見えない信頼だって。
 ぎり、と奥歯を噛む。変わったのは身長差くらいだと思っていた、そんな能天気な自分に嫌気がさす。
 ――いや、違うか。初めに「関係ない」と突き放したのは自分の方だ。
 きっとあいつはまた余計な気を遣っている。自分には分からないコンプレックスに触れてしまわないようにと、努めて名字呼びを続けたように。俺の隠している何かを感じ取って、これ以上俺が追い詰められないように一歩引いている。そうさせている自分が、情けなくて仕方がない。
 今の俺は、安土にすら弱く見えるのか。手心を加え無ければならないような存在に見えているのか。
 湧き上がる悔しさと情けなさに歯軋りをして、似鳥に背を向け再びランニングに戻る。先輩? と似鳥が呼ぶ声が聞こえたが、応えもせずに足を動かす。頭の中をクリアにするには、単調なランニングはちょうど良かった。




 似鳥が語ったその片鱗は、存外にすぐ窺い知ることが出来た。
 岩鳶の眼鏡の一年坊主が飛び込んだきり浮かんでこないと悟るなり、何かに追われるように飛び出して行った背中にぶつけた声は届かなかった。
 確かに誰かが溺れたかもしれないとなれば青褪めるのも頷ける。しかし、それにしたってあの顔は酷すぎた。顔色を失うとはまさにこのことと言わんばかりの真っ白な顔で、唇を噛み締めながら脇目も振らず飛び出して行った姿は鬼気迫るもので、普段の安土と結び付かず、中途半端に挙げた片手は行き場をなくす。
 つい今の今まで、あんなに幸せそうに真琴が泳ぐのを見てたじゃねぇか。橘くんが泳いでる、なんて当然のことを奇跡を前にしたような震える声で呟いて、いつもの心酔とは少し違う、慈愛のこもった瞳で一心不乱に見つめていたじゃねぇか。松岡は泳がないの、とやけに穏やかな顔で問いかけてきたじゃねぇか。だから俺は、そんな顔を見て嘘だと思ったのだ。俺が感じた懸念など、全て嘘だと。
 それなのに、なんで。
 疑問が頭を埋め尽くすが、正気に戻るのは早かった。ちっ、と一つ舌打ちをして、自分も安土の後を追う。あまり運動神経が良いやつではないから、すぐに追いつけるはずだ。なんなら途中で転んでいないかが心配ですらある。

「おいっ、安土!」
「ご、ごめん松岡、飛び出しちゃって……」

 案の定、出遅れたものの安土に追いつくのは容易だった。プールサイドに続く扉へ手をかけ、ぺたりとへたり込むその顔は未だ青い。そんな顔をしておきながら大丈夫だと宣う安土に苛立ち、その手を取って引っ張り上げる。酷く冷たい手だった。邪魔だとばかりに奪った生ぬるい缶は強い力が込められてところどころ歪に形を変えていて、安土がいかに緊張状態だったかを思い知る。
 驚く声が聞こえたが、知ったことではなかった。そうだ、安土を引っ張り上げるなんてこんなにも容易い。あの頃の、背丈も安土よりほんの少し小さかった俺ではない。見ての通り背も伸びて筋肉もついた。それなのに、まだ頼り難いのか。ムキになる子供のようだと自嘲するが、それでも安土が一方的に庇護しなければならないような存在だと思われることだけは、絶対に嫌だった。
 俺の意図が通じたとは思えないが、安土は素直に頷いて、俺の手に引かれるまま後ろをついて来た。先程まで胸を燻っていた行き場不明の対抗心も、妙に大人しい姿を見てしまえば萎んでしまう。
 テンポを合わせるように知らず歩幅が小さくなってしまっていたことに気付いたのか、ずっと黙りこくっていた安土が不意に松岡、と声を上げる。その声が無理に気を遣っていることなど、俺が分からない訳もないのに。

「先行っていいよ。七瀬が、……七瀬がそろそろ泳ぐでしょ」

 思いのほか、その名前を出されても俺の心は凪いでいた。そんな自分に自分が一番驚いたなんて、お笑い種だ。
 そういえば、散々真琴の話題は出して来るくせに、再会してからたったの一度とて、安土からハルの名前が出たことはなかった。安土とハルはもともとそこまで距離が近いわけではない。マイペース同士交わることもなく、真ん中に真琴という存在を置いて、一定の距離感の元生きている。それにしたって、ただの一度も名前が出ないというのはあまりに不自然だった。だって真琴を語る上では、何処かに必ず、ハルの存在があるはずなのに。
 あぁクソ、こんなことに気付けないほど、俺は余裕がないのか。
 改めて己の不甲斐なさを実感して歯噛みするが、しかしそれは、安土に向けるべきものではない。そのくらいは分かっていた。だからそんな絶望的な宣告を待つような顔で目を瞑るなと願うように、さもいつも通りを装って、無防備な頭に軽い頭突きを落とす。
 突然の衝撃に反射的に顔を上げて目を白黒とさせる安土に、多少胸がすく。

「言っただろ、合同練習だぞ。別に一度しか泳がない訳じゃねえし、それに、……流石にこんなへろへろなヤツ放って行かねえよ、バカ」
「に、二回もバカって言ったな! ってかそのへろへろの人間に頭突きしたな!?」
「お前石頭だから大丈夫だろ」
「いやそれ完全にブーメランなんですけど」

 やいやいと吠える姿はすっかりいつも通り、俺のよく知る安土そのもので、行くぞ、と口ではその足を急かしながらも、無意識に安堵の息を吐く。ああ言えばこう言う、心底癪だが、安土のこういうやかましさに何処か救われているのも確かなのだ。
 握った手のひらには、徐々に体温が戻って来ている。真っ白だった頬も、ようやく血色が滲み始めた。
 松岡、ありがと。背中に届いた感謝の声は、どこか幼い。包帯の巻かれた不恰好な手で何度もお礼を述べるランドセル姿がリフレインして、後ろを盗み見る。足取りも随分と軽くなり、握り返す手の力も段々としっかりしてきたと順を追って確認していると、プールの方からホイッスルの音と練習の再会を告げる部長の声が聞こえてきた。意識していなかったが、どうやらあれから一時練習を中断していたらしい。ということは、じきにハルが泳ぐのだろう。安土に言ったことは断じて嘘ではないけれど、どうしても意識はしてしまう。
 そんな俺の心情を見透かしたように、安土が繋いだ手をぎゅうと握った。それがスイッチになったかのように急に駆け出して、狭い階段の中俺の真横をぐんと抜けていく。必然的に並びは逆転し、安土に引っ張られる形になり思わず声を上げる。

「私はもう大丈夫だから行こ! 早く!」

 にっと歯を見せて笑った安土が、ぐいぐいと俺を引っ張って走る。そこには遠慮も無理も見えない。見えるのは、ただの友愛だけだ。すっかりいつもと変わらない様子についていけない俺に構いもせず階段を走り抜け、扉を乱雑に開け放ち、勢いのままに俺を柵の方へと放る。いやあっぶねぇな! 当の安土はといえば、俺を放った反動で足をもつれさせ転びかけていた。あほだ。
 見慣れた鈍臭さに嘆息しつつ、急かされるまま柵に体を預けて眼下のプールを見下ろす。ちょうど鳴った合図と同時に、ハルが台を蹴って流線型を描く。しかしそこから感じるのは苛立ちばかりだった。なんだその腑抜けた泳ぎは。なっていない身体は。なぜ、なぜ、なぜ。
 つい先日、俺はハルに勝ったはずだった。鮫柄のプールで、真剣勝負をして。それなのにこんなにも気持ちが晴れないのは、きっとアイツがこんなに未完成だからだ。ハルの実力がこんなものでないのは、俺が誰よりも知っている。だからこそこんなにも苛立つのだろう。何をしていたのだ、お前は。この苛立ちがごく独善的なものだなんて、本当は頭の奥では分かっているけれど。
 それでも俺は勝たなくてはならない。脳裏に焼き付いた過去の亡霊に。強くならなければならない。自分自身への信頼を取り戻すために。もう誰にも負けないように、まっすぐ夢へと手を伸ばせるように、隣で同じようにプールを覗き込む呑気な友人に、間違っても守るべき存在だなんて思われないように。いらぬ気を回させないように。こいつが何かを抱えているのなら、躊躇いなく吐露できるように。


裏切らない指がほしい


 なぁ安土、お前、もしかして水泳が嫌いになっちまったのか。
 飲み込んでしまった問いかけの答えを、真正面から受け入れられる自分になるために。今はただ、全てを乗り越える強さが欲しい。手に入れなければ、ならないのだ。

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20190811


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