涙も凍るほど冷え込んだ、深夜二時半程のこと。寝台の上で体温を分け合いながら、私達は眠りに就こうとしていた。

「なあ、俺を頭のおかしい奴だと思うか?」
「思わないよ。それだけ私を愛してくれているんだから、嬉しい」
「当然だ。俺が世界で一番、お前を愛してるからな」
「ありがとう」
「だから、お前も俺を愛せよ、他の誰よりも」

 欲情を吐き出すかのように、彼は眉を下げて吐息を零した。ぎゅうっと背中にまわした腕に力を込めては私の言葉を急かす。唇が重なる三秒前。私はようやく言葉を紡いだ。彼の眉間に皺が寄る。求めていた答えと違ったのと、口付けを遮られたことによる苛立ちが、隠されること無く露わになった。

「何だよ、それ」
「分からないものは仕方ないよ。この先、トーマスよりも好きになる人が現れる可能性だって、否定出来ないから」
「そんな奴が現れたら、お前は俺から離れて、そいつの所に行くのか」
「当然だよ」

 赤い瞳に憎しみと妬みを孕んで、彼は腕に力をより一層込める。嫌だ、離さない。あまりに低い声で呟くものだから、つい背中がぞくぞくと粟立った。彼は私に相当依存している。私の好きな人全てを憎み、私の事を好きな人全てを憎んだ。彼は私以外の全てが嫌いだと言う。セックスは愚か、キスだってさせてもらえない女に、ここまで入れ込むなんて。

「キスしたい。なあ、なまえ、いいだろ」
「そういうことは本当に好きな人としないと駄目だよ」
「……お前、さっきの俺の話聞いてたのかよ。俺は誰よりもお前の事が好きだって言っただろ」
「もし、それが勘違いだったら? 本当は私の事、好きじゃなかったりして」
「そんなわけねえだろ、俺は自分に嘘つかねえよ」
「どうだか。公での紳士的な振る舞いだって、自分に嘘をついてるのと同じじゃない」
「じゃあ、お前にだけは嘘つかない」
「人の愛なんて一時的だよ。トーマスだって、すぐに他の人を好きになる」

 憎しみから細くなっていた彼の目が大きく見開いた。みるみるうちに涙が溜まり、ぼろぼろと零れて私の服を濡らしていく。感情すら否定されて、彼の心は既に傷だらけの筈だ。その創傷が膿めば、今よりももっともっと深い歪みを生み出してくれるだろう。私は、それが見たい。
 ただ、一つだけ。人の愛なんて一時的だと言うのは本当だ。私以外を好きになる可能性が無いなんてことは言いきれない。それを防ぐにはやはり、飴と鞭を上手に使い続けるしかないのだ。自分に注がれる多大な愛情を、どうして他の奴にくれてやる必要がある。虚しさに胸が痛みはするが、これを手放してしまうことに比べればなんでもない。第一、男なんてものは信用に欠けるのだ。肉体を使っての誘惑に酷く弱く、その時は恋人に対する愛なんてものは頭の片隅に追いやろうとする。下半身で動く汚らしい生き物だ。そんなものからの愛を乞うだなんて、私という人間も随分と浅ましい。込み上げる自嘲と同時に、吐き気さえ覚えた。
 震える彼の唇から出た声は、涙を滲ませた情けない色をしている。

「どうしたら信じてくれるんだ、なまえ」
「分からない」
「分かんねえ分かんねえって、それじゃどうしようもねえだろ」
「……寂しいの」

 彼の左手を取って、指先を絡めた。僅かに込められる力。それを返してやる義理もない。首元に顔を埋めれば、背中にまわっていた彼の右手が後頭部を弱く押さえつけた。頭上で小さく聞こえる鼻を啜った音。こんなことで泣いてしまうなんて脆いのね。そう呟いても返事は無く、代わりに体が強張っていくのを感じた。手持無沙汰だった左手で彼の襟元をはだけさせれば、普段は隠れている鎖骨が顔を出す。私よりも幾分か色黒の肌が、随分と厭らしく見えた。べったりとくっつけあった体から感じる、彼の心臓の音。せわしなく動いて、それがまた汚らわしい。
 ちゅうっと小さな音を立てて、彼の鎖骨に吸い付く。くぐもった声が出たのと同時に、右手に今以上の力を感じた。いじらしい。まるで飴玉を味わうかのように鎖骨付近を舐め上げ続けていれば、彼の呼吸が少しずつ荒くなっていく。私の後頭部を抑えていた手は、今一度背中へとまわる。掌を広げ、首元からゆっくりと背骨に沿って降りた。耳元で感じるのは、聞き慣れた熱い吐息。涙交じりの、甘く、欲が見える声で名前を呼ばれる。ぐっと胸板を押し、離れてから見上げた切ない表情が、私の脳裏にこびりついた。

「お前は、俺が欲しくないのか」
「欲しくない。といえば嘘になるけど」
「なら」

 何を言おうとしたのか。黙りこまなくても分かるというのに、彼はその先を言おうとはしなかった。再び縮まろうとする距離を両腕で拒む。解かれた彼の指先が迷子になった。正しい道を教えるのは私である筈だが、今の私には、何が正しのかなど分からない。とはいえ、好きにさせるわけにもいくまい。もう一度指を絡め取って、じっと双つの瞳を見る。

「もっと」
「……なんだよ」
「もっと、もっとトーマスが私の事好きになったら」

 その時は、一つになりたい。なんてうそをついた。ねえ私、分からないの。好き、とは、どういうものなのか。おかしいな、昔は確かに分かっていたはずなのに、どうしてしまったんだろう。すっかり覚めてしまった眠気の代わりに、私を襲うのは一つの不安だった。彼が私に依存しているように、私も彼に依存している。彼を失った時、私は生きていけないだろう。彼の言葉を信用出来なくなる程に、私は弱ってしまっているのだ。弱り切った私が上手になるのは、飴と鞭の使い方だけ。愛し合う方法など、とうに分からなくなっていた。