駄目な事だと分かっているから諦めていたし、その願望を口に出した所で彼が承諾するとは思えなかった。今さら何故そんな思いが口をついたのだろう。ごめん、なんでもないの。忘れて。そう言って苦笑いを向ける。彼は一瞬強張った顔をしたが、すぐに真剣な顔になった。「本気で言ってんのか」嫌だな、真面目に受け取られるなんて。忘れてくれと言ったでしょう。私は膝を抱えて俯いた。

「お前がそうしたいんだったら、なまえ」
「やだ、やめてよ」
「俺は別に、されたっていい」
「……何言ってるの」

 顔を上げると同時に、ぎゅうっと抱き締められる。大きな手が私の背中を擦った。いつもは安心をくれるこれも、今は罪悪感ばかりが肥えていく。ファンからの手紙を開ける際に使っているカッターナイフをしっかりと私に持たせた。本当に? 本当にいいの? あまりにも魅力的な誘惑で、頭がくらくらする。彼が私を肯定すれば肯定するほど、私はおかしくなってしまいそうだ。カッターナイフを握る手に、彼の手が重なる。じとりと汗ばんだ手の平。なんだ、本当は嫌なんじゃないか。どうして私のために、傷ついても良いなんて思えるの。じわりと涙が眼球に膜をはって、視界がぼやけた。いやだな、こんな思いするくらいなら、口を縫ってても言うんじゃなかったよ。はらりと服が乱れて、露わになった鎖骨。触れてみれば私よりも幾分か体温が高い。
 鎖骨の窪んだ部分に、そっと冷たい刃先を添わせる。あと少しでも力を入れたり動かしたりしたら、この肌は切れてしまうだろう。彼はそれを良しとしている。何度も思い描いては諦めていた光景だ。長い飢えを経て目にした餌に、私は息を飲んだ。

「絶対痛いよ」
「いいから、やれよ」
「なんで嫌がらないの」
「嫌がって欲しいのか」
「そうじゃないけど」

 言葉に詰まる。だって、何て言ったら良いのか分からなかった。初めて目の前に出された料理。食べ方など知るはずもないのに、お腹がすいて仕方が無い。間違った食べ方をしてしまえば、彼はきっと、私を嫌いになる。それなら食べないで空腹にもがいていた方が幾分かマシだと思った。だが、目前の馳走は誘惑をやめない。

「好きにして良いんだ」

 ついにぼろぼろと零れて行く涙。私が泣くなんてお門違いにも程があるのに、目頭の熱は引いてくれない。どうしてそんなに優しい顔をするの。手首を掴んでいた手を、彼はそっと離す。少しだけ力を込めて、刃先を横へと移動させると、呻き声と同時に私の望んだものが流れてきた。滴る雫は服に染みを作る。ぱっくりと開いた傷口を見ると、体が熱くなった。胸がきゅっと締め付けられて、罪悪感もあるけれど、もっと別の。くらくらして溶けてしまいそう。血液を舌で拭えば、彼がまた小さく声を上げる。傷口をもっともっと近くで見たくて、彼の首元に頭を預けた。どくどくと流れ出る血液。頭上からは痛みに耐える彼の荒い呼吸。これ以上の恍惚がこの世にあるとは、とても思えない。この傷口に指をいれれば、彼の骨に触れることだって可能だろう。そっと傷口に指を這わせれば、彼は私の服をぎゅっと握り締めて痛みに耐える。何度も何度も私の名前を呼んで、好きだと言って、苦しげに私を抱き締めるのだ。こんなの、まるで、ああ。