時間が止まったようだった。彼女の瞬きがなければ俺はずっと勘違いを起こしたまま生きていったのかもしれない。時間が止まる事なんて有り得ず、一秒一秒確かに時計の針は進んでいっているのだ。彼女の瞳から目が離せない。離す気もない。彼女の織り成す仕草は美しく、指先一つ動くだけで心酔出来たと言うのに、今だけは彼女に動いて欲しくなかった。全てとは言わない。せめて、その唇だけでも。

「今、なんて言った」
「……だから、恋人が出来たの」

 衝撃が遅れて脳に響く。そんな、そんな筈はない。だって俺達は小さい頃からずっと一緒で、彼女のどんな姿だって知っているし、それは彼女も同じだ。家族よりも誰よりも、一番長く一緒に居ただろ。なのに、男が出来た? 馬鹿な事を! 俺程お前の事が好きな人間なんていないのに! なまえの隣が許されるのは俺だけだ。俺と一緒に居る事で、気が弱く体も小さかったなまえは虐められる事もなかった。俺がいないと何も出来ない奴だった。過去を振り返れば必ずお互いがそこに在る。泣いているなまえを慰めるのはいつだって俺の役目。これからもそれは変わらない、はずなのに。
 成長したなまえは滅多に涙を見せない。次に彼女が涙を流すのは、その男との恋が終わった時だろう。そんな理由で泣くなまえを慰めろというのか。有り得ない! そうだ、なまえの感情を乱すのはいつだって俺でなくてはならないのだから。そのために飼い犬を殺したり、こっそりと階段から突き落としたり、男であろうと女であろうと、近付く奴は全員徹底的に遠ざけていたのに。ほんの少し目を離した隙に男なんか作りやがって!

「お前、俺の事が好きだって言ったよな」
「で、でも、それは小さい頃の話で」
「お前は俺がいないと何も出来ないんだよ。そんな男捨てろ」
「そんな、いやだよ、……好きなんだもん」
「……もう一度だけ言う。その男、捨てろ」

 壁に追い詰めて逃げられなくしてやったら、視線だけでも逃れようと顔を背ける。……気に入らない。なまえが俺を受け入れず、俺の言うことをきかないなんて、そんなことは有り得ない。あってはいけない。たっぷりと沈黙を置いて返って来た答えは、俺が望んだものと遠くかけ離れた否定の言葉。

「いつからそんな聞き分けのわりー奴になったんだよテメーは。俺の言うことがきけねーってのか? ああ? お前がその男を捨てねーってんなら俺がそいつを消してやる。誰だ、その男は」
「なんでそんなこというの……! 関係ないじゃない、放っておいてよ!」
「はァ、少し目を離した隙に言葉遣いも酷くなってんなぁ。その男の影響か?」
「……も、もう帰る! どいて!」
「駄目だ、まだ話は終わってない。そいつの名前を言いたくないならいいんだぜ、コイツに聞くからな」

 壁についていた手を離して、俺はテーブルの上に置いてあるなまえの携帯を取った。瞬間、なまえの顔が青ざめ、返してと手を伸ばして来るが、そんなことはもうどうだっていい。俺にはその男を知る権利がある。そして、その男をなまえから遠ざける権利も。
 ディスプレイからメール欄を開き、それらしいメールを見つけ、名前を見た。その名前は、俺もよく知ったもの。

「……凌牙、だと?」
「! 知ってるの……?」

 俺の口からその名前が出た途端、彼女の表情が少し和らいだ。知人であれば手出しはしないと思ったのだろう。安直な奴だ。むしろその真逆だというのに。先程まであんなに憎しみでいっぱいだったのに、その名前を見た瞬間に笑いが込み上げて堪らない。

「……凌牙くん、今妹さんが事故で入院してて、大変なの。だからお願い、迷惑かけたりしないで」
「相変わらず馬鹿だなァ、お前は」
「な、なんで……」
「最近俺、お前の近くにいなかっただろ。お前には詳しく言ってなかったけどな。いいぜ、言うつもりなんて更々なかったが、教えてやる。お前の大好きな凌牙クンの妹を事故に遭わせたのはな、お前の大好きな凌牙クンを苦しめてんのはな、この俺なんだよ。あーあ、これでお前は何もしなくても凌牙に嫌われることになったわけだ。当然だよな。大嫌いな憎くて堪らない奴の一番近くに居る女だぜ? お前にその気がなくても、欺かれたりするかと勘繰るもんだろ。お前は馬鹿だから優しく言っても分かんないよな。要約すると、お前が凌牙の近くに居る事は凌牙の迷惑になるって事だ。分かったか?」

 言い終わる前から、彼女の目からはぼろぼろと涙が溢れ出ていた。その場にしゃがみこんで、ぐずぐずと鼻を鳴らしてアイツの名前を呼ぶ。馬鹿になってしまったなまえでももう分かった筈だ。アイツとこの先一緒には居られないと。
 だが、それだけではまだ不十分。俺以外の誰とも、この先一緒にはなれないと言うことを教え込んでやらなくてはならない。そうでなくては、また今回のような酷い事件が起きてしまう可能性がある。不安の芽は全て摘んでおくのが賢明と言えるだろう。例えそれが、彼女をどんなに傷つけるものだとしても。

「何泣いてんだよ、なまえ。お前にはいつも通り俺がいるだろ。これからはもう何があってもお前から目を離したりしねーよ」
「……きらい」
「…………あ?」
「とむくんなんか、嫌い! もういや! 二度と話しかけないで!」

 涙を拭って、携帯すら俺の手に預けたまま部屋を飛び出そうとするなまえの腕を思い切り掴んだ。色んな感情がごちゃまぜになって歪んだ表情を捉える。ああ、俺への嫌悪を向けた瞳はこれが初めてだ。何故だか堪らなくなって、なまえの小さな体を力の限り抱き締めた。理由は違えど、二つの心臓はは通常よりも早く脈打っていた。これが同じ物なら、とまで考えて、その思考を振り切った。そんな妄想に浸っている時間はない。俺にはまだやらなくてはいけないことがあるのだから。

「や、やだ! 離して!」
「お前はなぁ、今の話を聞いてそれで全部終わりにしたいと思ってるかもしれねーけどな、俺はそうじゃないんだよ。むしろこっからが始まりなんだ、なまえ」
「なに、もうやだ、私はあなたと話す事なんてない!」
「お前になくても俺にはあるんだよ。なあ、なまえ。お前凌牙とどこまでしたんだ」
「どこまで、って……」
「手繋いだのか、キスしたのか、抱き締めあったのか……それとも、セックスまで、もうしたのか」
「……!」
「言え、早く」
「か、関係ないでしょ!」
「……へーえ、あくまでそういう態度を取るつもりか。いいぜ、だったら俺が確かめてやる」

 ぐっと胸倉を掴んで引き寄せ、唇をくっつける。子供の頃にしたのとは全然違う、舌を絡めた深いもの。なまえの性格はよーく知ってる。どんなに嫌でも、何があっても、俺に傷を作ったりしない。そうでなくても、舌を入れるのに躊躇いなんてなかった。さて、これからじっくりと調べ上げてやる。その体を俺のものにして、奪われかけたなまえの心も完全に俺の元へ取り戻すまで離してやらない。いや、取り戻した後も、離す気なんてないがな。