日々を忙しく過ごしている小笠原のもとに一本の電話がかかってきたのは、ある雨の日のことだった。

『もうすぐ産まれそうだから、絶対に来てね』

苦しそうながらもしっかりとした声だ。小笠原はそれに少しだけ安心し、電話を切ると、部下に声をかけて会社を出た。今日の分の仕事は既に終わっている。

タクシーに乗り込み、行き先を告げる。全国でも有名なその病院は、小笠原の会社から約1時間ほど車を飛ばした先にある。

予定よりも少しばかり早い出産であった。それをもうすぐ母になる彼女は「きっと早くママに会いたいのね」と幸せそうな顔で笑うのだった。

小笠原は揺れる車内で目を閉じる。窓を打つ雨の音が大きく聞こえた。

雨の日は忘れられる筈もないあの日をまざまざと思い出させる。

佐藤 流(りゅう)。

小笠原の腕をすり抜けていった彼のことを、今もただ追い求め続けている。

あの日の雨は小笠原の心の中で何時までも止まずに降り続けているのだった。


***


「お客さん、着きましたよ」

運転手に声をかけられて、ゆっくりと小笠原は目を開く。どうやらいつの間にか寝入っていたらしい。

告げられた料金を支払い、病院の入り口を抜ける。真っ白な壁や薬品のにおいに満ちているこの場所が、小笠原は昔からあまり好きでなかった。

エレベーターが目的の階へと着く。ナースステーションへ向かおうとすると、待合室のソファーに座る見知った顔を見つけた。

「母さん、」

呼び掛ければ小笠原を産み、育ててくれた母親がこちらを向く。母親は遅い、と言ってそれから微笑んだ。

「さっきお医者さまが分娩室に入っていったから、もうそろそろじゃないかしら」

母親がそう言い終わるなり、おぎゃあおぎゃあと赤ちゃんのなく声が聞こえて、「あらあら、元気な子ねえ」とのほほんと母親が呟いた。

二人ならんで分娩室へと向かうと、中から白衣を着た助産師であろう女性が出てくる。

「ご家族の方ですね。どうぞなかにお入り下さい」

そう声をかけられて小笠原が母親を見れば、まるで行ってらっしゃいとでも言うように手を振っていた。小笠原は肩を竦めて、助産師のあとに続いて分娩室へと入る。

おぎゃあおぎゃあと、力強い声が耳に響いた。

「ぎりぎり、間に合ったわね」分娩台に寝て、こちらを見上げている彼女が言った言葉に小笠原は苦笑した。

「義兄さんじゃなくて俺が間に合ってもね。後から悔しがりそうだ」

姉さん。そう返せば、姉は微笑んだ。そうして、小笠原の反対側を見る。

「産まれてからずっと泣いているの。お腹が空いているのかしら」

姉の視線の先を追うと、その先には産まれたばかりの赤ちゃんがいた。

小さな四肢を一生懸命に動かし、必死に泣き声をあげている。母を探しているのだろうか。

「…ねえ、始。赤ちゃん抱っこしてあげてくれない?」
「まだ姉さんも義兄さんも抱いていないのに?」
「よく分からないんだけど、あなたに一番に抱いてあげて欲しいのよ。お願いだから」

そう言うと、姉は小笠原の返答も待たずにナースコールを押した。するとすぐに助産師が来てくれる。

「この子に赤ちゃんを抱かせてあげて欲しいんだけど…」

姉の言葉に助産師は笑顔で分かりましたと告げると、赤ちゃんの寝ているベットを小笠原のもとへと運んできた。

「赤ちゃんはまだ首が座っていないので、しっかり支えてあげて下さいね」

助産師は小笠原に抱き方を教えると、さあ抱いてあげて下さいとにこやかに小笠原を見た。

赤ちゃん、それも産まれたばかりの赤ちゃんなど抱いたことのない小笠原は困ったように姉を見るが、彼女はただ笑うばかりである。

小笠原は観念して、ベッドへと近づく。小さな四肢をばたばたと動かしていた赤ちゃんが、ふとその動きを止めた。まるで小笠原に抱かれるのを待つかのように。

小笠原は導かれるようにそっと赤ちゃんを抱き上げた。思っていたよりも重く、そして暖かい。

「あら、泣き止んだわね」

姉の言葉通り、赤ちゃんはいつの間にか泣き止んでいた。小笠原はその小さな顔を覗き込む。すると、ゆっくりと赤ちゃんの閉じていた瞼が開いた。

まだ見えていない筈の目と視線が絡む。

『やくそく』

そうして、あの日、小笠原の耳に届かなかった青年の声が漸く聞こえた気がした。

「巡(めぐる)」

優しい声に小笠原は姉を見る。いつの間にか助産師は退室していた。

「巡よ、その子の名前。私たちの所へ来てくれてありがとうって気持ちと、大切な人に巡り会えるようにって」

めぐる、と小笠原が言葉をなぞれば、まるで応えるように赤ちゃんが小笠原の指を握る。

『きっと、会いに来るから』

浮かぶのは最後に笑った青年の顔だった。ぽたりと、赤ちゃんの柔らかな頬に滴が落ちる。

「……めぐる、」

呼べば指を握る小さな手に力が込められた気がした。小笠原は笑った。あの日の最後のように、泣きながら笑った。

「おかえり、佐藤」

小笠原の言葉に巡が目を細めて笑った気がした。


外で降り続いていた雨は漸く止み、灰色の厚い雲の隙間からは太陽の光が覗いている。


流るるように巡る







「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -