たったひとりで(歩火) | ナノ


ゆっくりと指先に力を込める。緩慢に掲げられた腕はしかし、そこからろくに動くことをせずに地に落ちた。

「……っ」

たったそれだけのことも今の火澄には苦痛でしかなく、小さく苦悶の声を漏らす。
あぁ、そろそろか。なにもない病室の白い天井を見つめながら火澄は思う。どうなのだろう。早かったような気も、遅かったような気もする。いずれにせよ、火澄の胸に浮かぶのは安堵や幸福といった心地のよいものばかりだった。

(あぁ、やっと死ねる)

自分の遺伝子に緩やかに絞め殺されていく様は、きっととても恐ろしいものだとばかり思っていたけれど。
今はどうだ。何故だろう、ちっとも怖くない。
なんの影もない冷たい病室で火澄はこっそりと笑みを浮かべた。

(…歩)

こんなになっても思い浮かべる人はいつだって同じで。いっそ清々しくさえ思えてきた。
彼は決して優しい人ではなかったけれど、それでも自分には彼しかいなかった。彼さえいればこの絶望のなか、前を向いていけると思っていた。信じていた。(結局彼は、そんな自分の幼稚な望みなんかよりもっとずっと先にいってしまったけれど)
お前のために死ねるのなら、それも悪くはないと今なら思えるのだ。お前のために。それだけのために。

(ただ、もうひとつ、わがままを赦してくれるなら)

「……苦しんで」

苦しんで。苦しんで、そうして自分のことを忘れないで。お前のために死ぬんだよ。お前のために、この思考が途切れても、この細胞の最後のひとつが死に絶えるまで、もしかしたらその先まで。火澄はただ、歩のためだけに死ぬと決めた。それが彼にできる、最後の抵抗だった。俺はお前を赦さないけど、お前は俺を赦してよ。
きっと自分達の細胞は、片割れの不在を優秀に訴えてくれるはずだから。絶対に、歩は火澄のことを忘れられないと、確信があった。

(なぁ歩。まだ、空は青いか?)

窓もない部屋では、昼か夜かもわからないよ。
けれども絶対に、後悔だけはしないから。
お前は先に進んでいけば良い。自分の望むところまで。紛れもなく、それは本心からの言葉だから。お前をとどめるためにあんなことをしてしまった自分だけど、もう、いい。もういいから、お前は行けよ。たったひとりで。どうしようもなくひとりのままで。

最後にひとつ。ぽつりと微笑んでから火澄は意識を手放した。もしかしたら、火澄という人間が思考をするのはこれが最後になるのかもしれない。そう思えるほど静かな日だった。



たったひとりで 立つよ
(ありがと さよなら 君の見送りは恋しさばかりを募らせるからいらないよ)


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